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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 07月 19日

観心本尊抄文段 上一六


一 ()れ一心に(じっ)法界(ぽうかい)()す等

今此の所引に付文(ふもん)元意(がんい)あり。()し附文の辺は(ただ)是れ一念三千の出処(しゅっしょ)を示すなり。故に下の文に「出処(すで)之を聞く」等と云うなり。今付文に約して(しばら)く科目を立つ。故に一念三千の出処を示すと云うなり。

()し元意に准ぜば、(まさ)に観心本尊の依文と云うべきなり。(いわ)く、()文を開して即ち観心本尊の義を(じょう)ずる故なり。

若し此の辺に()いて以てその文を分かてば、此の文を二と()す。初めは釈、次に「乃至」の下は結。

初めの釈、(また)二と為す。初めに本尊、次に「此の三千」の下は観心。

初めの本尊の文に「()れ一心」と云うは、即ちこれ久遠(くおん)元初(がんじょ)自受用(じじゅゆう)(しん)の一念の心法なり。故に「一心」と云う。即ち是れ中央の南無妙法蓮華経なり。

「十法界を具す」等とは、即ち是れ左右の十界()()百界(ひゃっかい)千如(せんにょ)・三千世間なり。故に此の本尊の為体(ていたらく)は即ち是れ久遠元初の自受用身・(れん)()大聖人の(しん)()の十界三千の相貌(そうみょう)なり。

故に宗祖云く「此の曼荼羅(まんだら)()く能く信ぜさせ給うべし乃至日蓮がたまし()ひをすみ()()なが()して・かきて候ぞ乃至仏の御意(みこころ)は法華経なり日蓮が・たまし()ひは南無妙法蓮華経なり」云云。

次に観心の文に「此の三千・一念の心に()り」等と云うは、此の一念三千の本尊は全く余処(よそ)(ほか)に在ること無し。(ただ)我等衆生の信心の中に(おわしま)すが故に「此の三千・一念の心に在り」と云うなり。若し信心なくんば一念三千の本尊を具せず。故に「若し心無くんば()みなん」と云うなり。妙楽(みょうらく)云く「(しゅ)(じゃく)の一念には三千を具せず」とは是れなり。()し文上の(じゅく)(だつ)に取着して文底下種の信心無くんば、何ぞ此の本尊を具足(ぐそく)すべけんや。

(たと)えば水なき池には月の移らざるが如し。若し刹那(せつな)も信心あらば、即ち一念三千の本尊を具す。故に「()()も心有れば即ち三千を具す」と云うなり。譬えば水ある池には月便(すなわ)ち移るが如し。宗祖の所謂(いわゆる)「此の御本尊も(ただ)信心の二字にをさ()まれり」とは是れなり。学者(まさ)に知るべし、()し理に()って論ずれば法界に(あら)ざる無し。今、()()いて論ずれば信不信に依り、()不具(ふぐ)(すなわ)ち異るなり。当体義抄大旨(たいし)之を思い合すべし。

次に「乃至」の下は結、文に亦二あり。初めに本尊を結す。(いわ)く、自受(じじゅ)(ゆう)(しん)の一念の心法即ち是れ一念三千の本尊なり。故に「不可(ふか)思議(しぎ)(きょう)」と称するなり。不可思議境とは、即ち是れ妙境の異名(いみょう)なり。妙境とは即ち妙法蓮華経の本尊と云う事なり。

次に観心を結すとは、に「(こころ)(ここ)()り」と云うは、若し一念の信心有らば即ち一念三千の本尊を具す。大師の深意(まさ)しく(ここ)に在り。故に「(こころ)(ここ)に在り」と云うなり。

問う、此の義、前代未聞(みもん)消釈(しょうしゃく)なり。誰か之を信ずべけんや。

答う、不相伝の(やから)は聞き得て驚くべし。御相伝の家には(あお)いで此の旨を信ずるのみ。

血脈抄の中の開教顕観の口伝(くでん)に云く「(かん)(ぎょう)()(かん)の一念三千を(かい)して名字(みょうじ)事行の一念三千を(あらわ)す、大師の深意(じんい)・釈尊の慈悲(じひ)・上行所伝の秘曲(ひごく)(これ)なり」云云。

問う、日我の抄に云く「()の釈の『一心』とは中央の題目なり。(じっ)法界(ぽうかい)』とは列座の十界の(しょう)(しゅう)なり。『此の三千・一念の心に在り』とは、一念(しん)()とは即ち是れ本門立行の(はじめ)の日蓮の一念なり。『若し心無くんば』とは非情(ひじょう)の草木、『()()も心あらば』とは有情(うじょう)界なり」云云。此の如何(いかん)

答う、彼の抄は観心の二字を以て地涌(じゆ)の境智に約す。故に「此の三千・一念の心に在り」の文を以て蓮師の一念に約するなり。故に「有心無心」の消釈(しょうしゃく)(はなは)だ以て(おだ)やかならざるなり。

          つづく

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by johsei1129 | 2015-07-19 21:25 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


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