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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 07月 11日

観心本尊抄文段 上十  信力・行力を励む則(とき)は仏力・法力に由り、即ち観行成就す。


問う、(ただ)信心()(しょう)に即ち観行成就(じょうじゅ)するや。

答う、但本尊を信じて妙法を唱うる(とき)は、所信所唱の本尊の仏力・法力()(すみや)かに観行成就するなり。

故に当体義抄に云く「但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩(ぼんのう)(ごう)()三道(さんどう)(ほっ)(しん)般若(はんにゃ)解脱(げだつ)の三徳と転じて三観・三諦(さんたい)・即一心に(あら)われ()の人の(しょ)(じゅう)(ところ)(じょう)寂光土(じゃっこうど)なり、(のう)()(しょ)()身土(しんど)(しき)(しん)倶体(くたい)()(ゆう)無作(むさ)(さん)(じん)の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり是れ(すなわ)ち法華の当体・自在(じざい)神力(じんりき)(あら)わす所の()(のう)なり(あえ)(これ)を疑う可からず、之を疑う可からず」等云云。

(ただ)法華経を信じ」とは即ち是れ信力なり。「南無妙法蓮華経と唱う」とは即ち是れ行力(ぎょうりき)なり。「法華の当体」とは即ち是れ法力なり。「自在神力」とは(すなわ)是れ仏力なり。故に知んぬ、信力・行力を励む(とき)は仏力・法力に由り即ち観行成就することを。

又云く「当体蓮華を証得して(じょう)寂光(じゃっこう)の当体の(みょう)()を顕す事は本門寿量の教主の金言(きんげん)を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」と云云。「本門寿量文底の教主」とは即ち人の本尊、仏力なり。「金言(きんげん)」とは即ち是れ(よう)の法華経・意の法華経・下種の法華経、即ち法の本尊、法力なり。信力・行力は見るべし。

伝教(でんぎょう)大師の深秘(じんぴ)口伝(くでん)に云く「臨終(りんじゅう)の時、南無妙法蓮華経と唱うれば、妙法三力の功に()って(すみや)かに菩提を成ず。妙法三力とは、一には法力、二には仏力、三には信力なり」云云。「南無妙法蓮華経と唱うる」は(あに)行力に(あら)ずや。釈相(しゃくそい)(こと)なりと(いえど)も、その意は是れ同じきなり。

血脈抄に云く「住不思議(けん)(かん)とは、今日熟脱の本迹二門を迹と()し、久遠名字の本門を本と為す。信心強盛にして(ただ)余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡身即仏身なり」(取意)と云云。故に知んぬ、(ただ)文底下種の本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱うる(とき)は仏力・法力に由り即ち観行成就することを。()し不信の者は力の及ぶ所に非ざるなり。

持妙法華問答抄(いっ)()()(おわ)って(がっ)()の文に云く「『(ただ)我一人のみ()救護(くご)()す』の仏の御力を疑い、以信(いしん)得入(とくにゅう)の法華経の教への縄をあや()ぶみて決定(けつじょう)無有疑(むうぎ)』の妙法を唱へ奉らざらんは力及ばず。『疑を生じて信ぜざらん者は(すなわ)(まさ)に悪道に()つべし』と説かれたり」(取意)と云云。

問う、蒙抄に云く「()(しん)の諸尊を事相(じそう)造作(ぞうさ)し、(これ)に対して之を礼する故に、観心本尊と云うなり」と。この義如何(いかん)

答う、この義は浮浅(ふせん)なり。(また)(はなは)だ過ぎたるに似たり。

問う、忠抄に云く「観心の二字即ち事行の一念三千なり。経に云く『聞仏(もんぶつ)寿命(じゅみょう)長遠(ちょうおん)乃至(ないし)能生(のうしょう)一念(いちねん)(しん)()』と云云。本因本果の長寿を聞くは、即ち()(しん)の一念三千なり。此れを以て所観の境と為し、一念信解を能観の智と為し、能所(とも)()なり。故に観心の二字即ち事の一念三千なり」と。この義如何(いかん)

答う、彼の師の所観の境は即ち脱益(だっちゃく)の一念三千なり。故に文底に望めば(なお)理の一念三千に属するなり。


              づづく


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by johsei1129 | 2015-07-11 20:30 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
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