人気ブログランキング |

日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ
2015年 07月 10日

開目抄愚記 上三三

一 法華経の第四

此の下は文を引いて旨を(しゃく)す、また二と()す。初めに文を引き、次に「()小児(しょうに)」の下は旨を釈す。

一 (しか)も此経は等

  (ここ)に三意を含む。(いわ)く「(この)(きょう)」の二字は法に約し「如来(にょらい)」の二字は人に約し「現在」の二字は時に約す。

  第一に法に約すとは、(まさ)に知るべし。流難(るなん)はこれ()(きょう)の人に(かかわ)るに(あら)ず。直ちに(まさ)(すべから)く法華の妙理に来るべしと。(えさ)(ふく)む鳥は衆鳥に()われ、財宝を見れば(すなわ)ち盗賊これを(かす)むるが如し。法華はこれ純円(じゅんえん)醍醐(だいご)の妙味、無漏(むろ)最上の珍宝なり。故に鬼魔(きま)はこれを()み、怨嫉(おんしつ)すること最も(はなは)だしきなり。

  第二に人に約すとは、この経に於ては三界の独尊、これを説きたもうにすら(なお)(おん)(しつ)多し。(およ)そ菩薩・凡夫、この経を説かんや。(たと)えば財宝の如し。猛威の人、(なお)(ぞく)(おそれ)あり、(いわん)怯弱(こうにゃく)の人に於てをや。

  第三に時に約すとは、この経に於ては在世の清代すら(なお)怨嫉多し。況や滅後濁世(じょくせ)に於てをや。(たと)えば財宝の如し。国の豊時と(いえど)も尚賊の(おそれ)あり、(いわん)や国の(かつ)()に於てをや云云。

一 況や滅度の(のち)をや

  今、在世を()げて以て滅後を況す。故に三重の「何況(がきょう)」あり。文意に云く、在世すら尚(しか)なり。何に況や正法をや。在世・正法すら(かお)(しか)なり、何に況や像法をや。正像すら尚爾なり、何に況や末法をやと。当に知るべし。後々(のちのち)の怨嫉は前々(さきざき)より多きなり。

  問う、何ぞ初めにこの文を引くや。

  答う、この文はこれ総なり。下の文はこれ別なり云云。

一 第二に云く等

   此の文は別して怨嫉(おんしつ)の二字を(あらわ)す。故に「軽賤(きょうせん)憎嫉(ぞうしつ)」等というなり。

一 第五に云く等

   此の文は別して「多」字の意を(あらわ)す。故に「一切世間多怨(たおん)」等というなり。

一 (また)云く「(もろもろ)の無智の人の悪口(あっく)罵詈(めり)する()らん」等

(まさ)に知るべし、()()・安楽の二文は在・滅に通ずるなり。今勧持(かんじ)不軽(ふきょう)の二文は別して滅後の怨嫉を顕すなり。滅後の中にも別して末法の怨嫉の相なり。

一 涅槃(ねはん)経に云く等

  北本二十八・十九、南本三十五・九の文なり。この文は別して「如来現在、猶多(ゆた)怨嫉」の相を顕すなり。故に値難抄十七初にこの文を引き(おわ)って云く「如来現在猶多(ゆた)怨嫉の心是なり。」と云云。若し元意の辺は、これ在世を()げて以て末法を(あらわ)すなり。故に値難抄にまた云く「文永十年十二月七日・武蔵の前司殿より佐土の国へ下す状に云く自判(これ)在り。佐渡の国の流人(るにん)の僧日蓮弟子等を引率(いんそつ)し悪行を(たくら)むの(よし)()の聞え有り所行の(くわだ)(はなは)だ以て奇怪(きかい)なり。」と云云。この状に云く「悪行を巧む」等云云。外道が云く「()(どん)は大悪人なり」等云云已上。

  寺泊抄十七六にこの文を引き(おわ)って云く「在世を以て滅後を(すい)すに一切諸宗の学者等は皆外道(げどう)の如し、彼等が云う一大悪人とは日蓮に当れり、一切の悪人之に集まるとは日蓮が弟子等是なり、()の外道は先仏の説教流伝(るでん)の後・之を(あやま)つて後仏を(あだ)()せり、今諸宗の学者等も(また)(また)()くの如し」と已上。「亦復是くの如し」とは諸宗の学者、先仏・釈尊の説教流伝の後に、これを謬つて後仏の日蓮を怨と為すなり。故に「亦復」というなり。

一 天台云く等

  文八十六の文なり。文意に云く、仏世すら(なお)(しか)なり。(いか)に況や未来は怨嫉(まさ)に多かるべき道理なり。仏、此の道理を明かしたもう意は、衆生の難化(なんげ)を知らしむるに在るなりと云云。

  また難化の意如何(いかん)

  答う、流通(るつう)の容易ならざることを(あらわ)して、以てその功徳の深重なることを(すす)むるなり。故に知んぬ、「況滅(きょうめつ)度後(どご)」の文意は、末法濁世(じょくせ)の弘通は在世及び正像よりも勝れたることを云云。

  金吾抄十七・四十二に云く「(また)仏の在世よりも末法は大難かさなるべし、此れをこらへん行者(ぎょうじゃ)は我が功徳には・すぐれたる事・一劫とこそ説かれて候へ」と云云。
 報恩抄下終に云く「
極楽(ごくらく)百年の修行は穢土(えど)の一日の功徳に及ばず、正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか、是れひとへに日蓮が智のかしこきには・あらず時のしからしむる(のみ)」と云云。

一 妙楽(みょうらく)云く等

  記八本十五の文なり。「(さわ)(いま)(のぞ)かざる者」とは即ちこれ権迹(ごんしゃく)(しゅう)(じょう)なり。「聞くことを喜ばざる者」とは実本(じっぽん)を聞くことを喜ばざるなり。妙楽(みょうらく)云く「迹門には二乗(にじょう)(どん)(こん)の菩薩を以て怨嫉(おんしつ)()し、本門には菩薩の中の(ごん)(じょう)(ねが)う者を以て怨嫉と為す」等云云。

報恩抄上九に、怨嫉に於て(ごん)(おん)の二義を明かす。近くは二乗・菩薩に約し、遠くは九横の難に約す。初めの意は妙楽の如し。後の義は恵心の云く「金鏘(こんず)()(みゃく)は一乗の弄引(ろういん)」(取意)と云云。末法もまた(しか)なり。執権(しゅうごん)執迹(しゅうじゃく)(しゅう)(だつ)の人は、皆是れ法華経の本門寿量文底の怨嫉なり。

              つづく
開目抄愚記 上 目次



by johsei1129 | 2015-07-10 22:52 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : https://nichirengs.exblog.jp/tb/24234499
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。


<< 観心本尊抄文段 上十  信力・...      大尼御前に「これより後は、のち... >>