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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 07月 08日

観心本尊抄文段 上八  但(ただ)本門の本尊を受持し、信心無二に南無妙法蓮華経と唱え奉る、是れを文底(もんてい)事行の一念三千の観心と名づくるなり。


  三には「観心」の二字を(しゃく)す。また二段と()す。

初めに正しく我等衆生の観心なることを明かし、次には我等衆生の観心の相貌(そうみょう)を明かす。

問う、文底下種の本門・事の一念三千の法門を観心と名づくる義は、前来所引の文義に分明(ふんみょう)なり。(しか)るにこの文底下種の法門は、正しくこれ誰人(だれびと)の観心ならんや。

答う、是れ末法今時の我等衆生の観心なり。(しばら)く一文を引き、その相を示さん。

所謂(いわゆる)下の文に云く「此の時地涌(じゆ)の菩薩始めて世に出現し(ただ)妙法蓮華経の五字を以て幼稚(ようち)に服せしむ」等云云。又云く「五字の(うち)に此の珠を(つつ)み末代幼稚の(くび)()けさしめ給う」等のこの中に「服せしむ」「懸けさしめ」というは即ちこれ観心なり。「末代幼稚」は(あに)末法今時の我等衆生に非ずや。

問う、日辰抄に「観心」の二字を以て能化(のうけ)所化(しょけ)に通ずと。この義如何(いかん)

答う、()(ひろ)之を論ぜば、(あるい)(しか)るべきか。当文の「観心」の二字は(すなわ)(しか)らず、(ただ)所化に約するなり。既に「()五百歳に始む」の字、正しく能化に約する故に、「観心」の二字は所化に約するなり。(いわん)(さき)の三文に分明(ふんみょう)り。何ぞ能化に通ぜんや。故に諸師多く所化に約するなり。

問う、日我の抄に云く「当流の意は観とは智なり、智とは信なり、信とは信智の南無妙法蓮華経なり。心とは()(しん)なり、己とは末法出現の地涌なり。地涌の心法、妙法蓮華経なる処が観心なり。末世の衆生を救わんが(ため)に出現あれば本尊なり」等云云。(すで)に「観心」の二字を以て地涌の菩薩の境智の二法に約す。何ぞ我等衆生の観心というや。

答う、この義「観心本尊」の四字、恐らくは混乱せるに()たり。(およ)そ当流の意は、本門の本尊とは即ちこれ本地(ほんち)難思(なんし)の境智の妙法なり。故に地涌(じゆ)の境智を以て「本尊」の二字を(しゃく)すべし、何ぞ「観心」の二字を釈せんや。()し境智を以て観心の二字を釈せば、但是れ所化に約すべし、何ぞ地涌に約せんや。(いわん)や彼の義の如くんば、三大秘法の中の本門の本尊、今の観心の本尊、その意同じからず。学者見るべし。何ぞこの「観心」の二字を以て即ち()の「本尊」の二字に同ぜんや云云。若し観心即本尊に約せば入文の相に(たが)うなり。

問う、「観心」の二字、我等衆生の観心に約すること文理分明(ふんみょう)なり。正しく我等衆生の観心の相貌(そうみょう)如何(いかん)

答う、末法の我等衆生の観心は、(つう)()の観心の行相に同じからず。(いわ)く、(ただ)本門の本尊を受持し、信心無二に南無妙法蓮華経と唱え奉る、是れを文底(もんてい)事行の一念三千の観心と名づくるなり。

故に血脈抄に云く「文の底とは久遠(くおん)(じつ)(じょう)名字(みょうじ)の妙法を()(ぎょう)にわたさず(じき)(たつ)(しょう)(かん)・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」と云云。

又云く()(そく)短妄(たんもう)の凡夫の(ため)の観心は()(ぎょう)に渡らざる南無妙法蓮華経(これ)なり」と文。

                つづく


上巻 目次



by johsei1129 | 2015-07-08 22:10 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
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