開目抄愚記末
第二十段 末法法華経行者の所由
一 此に日蓮案じて云く文。
この下は大段の第二、蓮祖はこれ法華経の行者なることを明かし、末法下種の三徳の深恩を顕す文なり。また二と為す。初めには由、次に「既に二十余年」の下は釈。初めの由の文、また四と為す。初めに出世の時・処・種姓を明かし、次に「輪廻」の下は六道流転の所以を明かし、三に「これを一言」の下には折伏の心地決定することを明かし、四に「且くやすらいし」の下に発心不退の誓願を明かす云云。
一 代既に末法に入つて二百余年文。
一義に云く、人王七十代後冷泉院の永承七壬辰年(1052年)に末法に入って已来、当抄述作の人王八十九代亀山院の文永九壬申年(1272年)に至るまで二百二十年なり。故に「二百余年」というなり。
今謂く「日蓮案云」の四字は当抄述作の時なり。「世すでに末代に入つて」の下は還って宗旨建立の少し已前、御思惟の相なり。故に建長四、五年の時に在り。故に末法に入って二百一、二年に当る、故に「余」と云うか。
一 辺土に生をうけ文。
一義に云く、日本を指して「辺土」というなりと。一義に云く、房州小湊を指して「辺土」というなりと。
今は後の義に随うべし。中興抄の如し云云。十八十七。
一 其の上下賤等文。
「辺土」にも貴姓あり、「下賤」にも豊富あり。今並びに爾らず、故に「其の上」というなり。
問う、吾が祖、何ぞ下賤の家に生まれたもうや。
答う、凡そ末法下種の法華経の行者は、三類の強敵を招くを以て、用いてその義を顕す。吾が祖若し貴姓の豪家に生まれたもうならば、仮使折伏修行を励むと雖も、三類の強敵の競い起るべきこと難からん。若し爾らば、何を以てか法華経の行者なることを顕さんや。況や復悲門は下を妙と為す、即ちこれ慈悲の極みなり。例せば聖徳太子の誓願の如し。太子伝の下に云く「今此の国に於て妙義未だ足らず。位儲君と為すならば、門戸に到って説くことを得ず。今思えらく、此の身命を捨てて微家に託生し、出家入道して衆生を救済せんと。是れ我が発願なり」等云云。蓮祖も亦復この意なり。
つづく
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