人気ブログランキング |

日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ
2015年 06月 30日

開目抄愚記 上二五

第十七段 難信の相を示す

一 日蓮案じて云く二乗(にじょう)作仏(さぶつ)

  この下は本迹(ほんじゃく)相対の中の第三、難信の相を示すなり。

一 ()(ぜん)・法華相対するに等文

  これ爾前の多説の()(じょう)と法華の一両品の()(じょう)と相対するなり。

一 一向(いっこう)に爾前に同ず

  迹門十四品、(みな)爾前に同ず。これ下の本門の中に対するなり。

一 (ほっ)(しん)の無始・無終等

  文九・二十三に云く「発迹(ほっしゃく)顕本(けんぽん)の三如来は、永く諸経に異なり」と文。次に記九・三十一に云く「法身の非寿は諸経に常に談ず。(ただ)(いま)(かつ)()(じょう)遠寿(おんじゅ)()かず」文。記三下五十四に云く「(ただ)(ほっ)(しん)を以て本と為すは、(いず)れの教にか(これ)無からん」と云云。経に云く「我実に成仏してより已来(このかた)久遠(くおん)なること(かく)(ごと)し」等云云。「我」は即ち法身、「成仏」は報身、「已来」は応身なり。(すで)に「久遠」という、即ちこれ顕本(けんぽん)なり。

一 (ただ)涌出(ゆしゅつ)・寿量等文

  涌出品に云く「我れ伽耶(がや)(じょう)菩提(ぼだい)樹下(じゅげ)に於いて坐して最正覚(さいしょうがく)を成ずることを()て」等云云。寿量品より()(かえ)ってこれを見れば即ち本地(ほんち)の伽耶なり。故に()(じょう)の文なり。(しか)りと(いえど)も、当分にはこれ(けん)(りょう)なるに(あら)ず。故に次下に「汝(ただ)寿量の一品を見て」等というなり。(みょう)(らく)の記一本四十五に云く「但寿量の一文に(まさ)しく本迹を明かす」等云云。文九・十九に云く「()し多に従って少を()つれば、(こうべ)破れて七分と()ること、()梨樹(りじゅ)の枝の如くならん。(たと)えば天子の(みことのり)は、()しは多、若しは少、(とも)()すべからず。之に違すれば罪を得るが如し」と文。録外(ろくげ)・三十九()いて見よ。

           つづく
開目抄愚記 上 目次



by johsei1129 | 2015-06-30 21:39 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : https://nichirengs.exblog.jp/tb/24194808
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。


<< 観心本尊抄文段 上一 暫(しば...      蒙古軍船の大破は真言宗・思円の... >>