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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 30日

蒙古軍船の大破は真言宗・思円の蒙古調伏によるという世評を破した書【富城入道殿御返事】

【富城入道殿御返事(承久書)】
■出筆時期:弘安四年(西暦1281)十月二十二日 六十歳 御作。
■出筆場所:身延山中 館にて。
■出筆の経緯:本抄は富木常忍が大聖人に度々「蒙古の船が九州の海上で大破(弘安の役)し、世間では律宗の思円(叡尊)上人の蒙古調伏の力であると評判になっているが、本当のところはどうなのかと質問したのに対し「それは日蓮を失おうとするたくらみである」と喝破され、それを明らかにするために病をおして本書を記したと大聖人の真意を吐露されておられます。さらに文末では「銭四貫をもちて一閻浮提第一の法華堂造りたりと霊山浄土に御参り候はん時は申しあげさせ給うべし」と、富城常忍のご供養で、これまでの身延の草庵を十間四面の大坊に大改修している事を伝え、その志を称えられております。尚、この大坊は翌月11月23日に完成し、大聖人は当時「身延山久遠寺」と命名されております。
■ご真筆:中山法華経寺 所蔵。

[富城入道殿御返事(承久書) 本文]
 
 今月十四日の御札(ぎょさつ)・同じき十七日到来。又去ぬる後の七月十五日の御消息・同じき二十比(はつかごろ)到来せり。其の外・度度の貴札を賜うと雖も老病為(た)るの上、又不食気(ふしょくげ)に候間・未だ返報を奉らず候条・其の恐れ少からず候。何よりも去ぬる後の七月御状の内に云く、鎮西には大風吹き候て浦浦・島島に破損の船充満の間、乃至京都には思円(しえん)上人・又云く理豈然(り・あにしか)らんや等云云。

 此の事別して此の一門の大事なり、総じて日本国の凶事(きょうじ)なり。仍つて病を忍んで一端(ひとはし)是れを申し候はん。是偏に日蓮を失わんと為(し)て無かろう事を造り出さん事兼ねて知る。其の故は日本国の真言宗等の七宗・八宗の人人の大科・今に始めざる事なり。然りと雖も且く一を挙げて万を知らしめ奉らん。

 去ぬる承久(しょうきゅう)年中に隠岐の法皇、義時を失わしめんが為に調伏(じょうぶく)を山の座主・東寺・御室・七寺・園城に仰せ付けられ、仍つて同じき三年の五月十五日、鎌倉殿の御代官・伊賀太郎判官・光末(みつすえ)を六波羅に於て失わしめ畢んぬ。然る間・同じき十九日二十日、鎌倉中に騒ぎて同じき二十一日、山道・海道・北陸道の三道より十九万騎の兵者(つわもの)を指し登す。同じき六月十三日、其の夜の戌亥(いぬい)の時より青天俄(にわか)に陰(くも)りて・震動雷電して武士(もののふ)共・首(こうべ)の上に鳴り懸(かか)り・鳴り懸りし上、車軸の如き雨は篠(しの)を立つるが如し。
 爰に十九万騎の兵者等・遠き道は登りたり・兵乱に米は尽きぬ、馬は疲れたり、在家の人は皆隠れ失せぬ。冑(かぶと)は雨に打たれて緜(わた)の如し。武士共、宇治・勢多に打ち寄せて見ければ常には三丁四丁の河なれども既に六丁・七丁・十丁に及ぶ。然る間・一丈・二丈の大石は枯葉の如く浮び、五丈・六丈の大木流れ塞(ふさ)がること間(ひま)無し。昔利綱・高綱等が渡せし時には似る可くも無し。武士之を見て皆臆(おく)してこそ見えたりしが、然りと雖も今日を過ごさば皆心を飜し堕ちぬ可し。去る故に馬筏(うまいかだ)を作りて之を渡す処、或は百騎・或は千万騎・此くの如く皆我も我もと度(わた)ると雖も、或は一丁・或は二丁三丁渡る様なりと雖も彼の岸に付く者は一人も無し。然る間・緋綴(ひおどし)・赤綴(あかおどし)等の甲(よろい)、其の外弓箭(きゅうせん)・兵杖(へいじょう)・白星(しらぼし)の冑(かぶと)等の河中に流れ浮ぶ事は猶・長月神無月(ながつき・かんなづき)の紅葉(もみじ)の吉野・立田の河に浮ぶが如くなり。
 爰に叡山・東寺・七寺・園城寺等の高僧等之を聞くことを得て真言の秘法・大法の験(しるし)とこそ悦び給いける。内裏の紫宸殿には山の座主・東寺・御室、五壇・十五壇の法を弥(いよいよ)盛んに行われければ、法皇の御叡感(えいかん)極り無く、玉の厳(かざり)を地に付け、大法師等の御足を御手にて摩(なで)給いしかば、大臣・公卿等は庭の上へ走り落ち、五体を地に付け高僧等を敬い奉る。

 又宇治勢田(うじせた)にむかへたる公卿・殿上人は冑(かぶと)を震い挙げて大音声を放つて云く、義時・所従の毛人(えびす)等慥(たしか)に承われ、昔より今に至るまで王法に敵を作(な)し奉る者は何者か安穏なるや。狗犬(くけん)が師子を吼(ほ)えて其の腹破れざること無く、修羅が日月を射るに其の箭還(や・かえ)つて其の眼に中(あた)らざること無し。遠き例(ためし)は且く之を置く、近くは我が朝に代始まつて人王八十余代の間・大山の皇子(みこ)・大石の小丸を始めと為(し)て二十余人、王法に敵を為し奉れども一人として素懐を遂げたる者なし。皆頚(くび)を獄門に懸けられ、骸(かばね)を山野に曝(さら)す。関東の武士等・或は源平・或は高家等、先祖相伝の君を捨て奉り・伊豆の国の民為(た)る義時が下知(げち)に随う故に・かかる災難は出来するなり。王法に背き奉り・民の下知に随う者は、師子王が野狐(やこ)に乗せられて東西南北に馳走するが如し。今生の恥之れを何如(いかん)。急ぎ急ぎ冑を脱ぎ・弓弦(ゆづる)をはづして参参(まいれまいれ)と招きける程に、何(いか)に有りけん、申酉(さるとり)の時にも成りしかば、関東の武士等・河を馳せ渡り・勝ちかかりて責めし間、京方の武者共一人も無く山林に逃げ隠るるの間・四つの王をば四つの島へ放ちまいらせ又高僧・御師・御房達は或は住房を追われ、或は恥辱(ちじょく)に値い給いて今に六十年の間いまだ・そのはぢ(恥)をすすがずとこそ見え候に、今亦彼の僧侶の御弟子達・御祈祷(きとう)承はられて候げに候あひだ、いつもの事なれば秋風に纔(わずか)の水に敵船・賊船なんどの破損仕りて候を・大将軍生取(いけどり)たりなんど申し・祈り成就の由を申し候げに候なり。
 又蒙古の大王の頚(くび)の参りて候かと問い給うべし。其の外はいかに申し候とも御返事あるべからず。御存知のために・あらあら申し候なり。乃至此の一門の人人にも相触(ふ)れ給ふべし。

 又必ず・しいぢ(椎地)の四郎が事は承り候い畢んぬ。予既に六十に及び候へば天台大師の御恩報じ奉らんと仕(つかまつ)り候あひだ、みぐるしげに候房をひ(引)きつくろ(繕)い候ときに、さくれう(作料)におろ(下)して候なり。銭四貫をもちて一閻浮提第一の法華堂造りたりと、霊山浄土に御参り候はん時は申しあげさせ給うべし。恐恐。

 十月二十二日         日 蓮 花押

 進上富城入道殿御返事




by johsei1129 | 2019-11-30 21:40 | 富木常忍・尼御前 | Trackback | Comments(0)


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