問う、また啓蒙に云く「諸文の中に通じて一部を歎じ、一一の文文是れ真仏等と云う。是れ元来一致を示すなり」と云云。この義如何。
答う、これ権実相対、一往の判釈なり。
問う、本迹決疑抄上三十九に云く「宗祖、諸宗無得道の弘通に依って種種の大難を蒙る。其の功、竜樹・天台に超えたること、皆権実相対の法門に由る。故に権実相対、本迹相対、共に再往の実義なり」と云云。この義如何。
答う、権実相対一往とは、直ちに今経の法相に約す。謂く、権実相対の日は但爾前に望んで通じて今経を歎ずるのみ。今経の中に於て未だ本迹を判ぜず。故に義、究竟に非ず、故に一往というなり。若し蓮師の所用に約せば、佐渡已前は専ら権実相対を用う。これ蓮祖の本意に非ず。故に一往というなり。況や諸宗の中にも禅・念仏を破し、多く権実相対の法門を用うるをや。若し天台・真言の二宗を破するには、多く本迹相対の法門を用う。何ぞ皆権実等に由るというや是一。
況や吾が祖、その功、竜樹・天台等に越ゆる所以は但能く種々の大難を忍ぶのみに非ず、また能く本門三箇の秘法を弘通する故なり。
この故に報恩抄に三箇の秘法を釈し已って云く「此の功徳は伝教・天台にも越へ竜樹・迦葉にもすぐれたり」と云云。
また撰時抄上二十三に云く「南無妙法蓮華経と一切衆生にすすめたる人一人もなし、此の徳はたれか一天に眼を合せ四海に肩をならぶべきや」と云云。
何ぞ皆権実等に由るというや是二。
況や佐渡已前に禅・念仏を破するは但これ序分なり。
故に清澄寺抄二十・三十九に云く「真言宗は法華経を失う宗なり、是は大事なり先ず序分に禅宗と念仏宗の僻見を責めて見んと思ふ」と云云。
序分豈一往に非ずや是三。
秦の李斯謂えることあり。臣聞く、強を以て弱を伐つは、勇士の土を払うが如く功と為すに足らずと云云。然るに禅・念仏は実にこれ弱敵なり。何ぞ彼を破するを以て本意と為んや。
当抄十に云く「六宗・七宗等にもをよばず、いうにかいなき禅宗・浄土宗」と云云。是四。
況や日澄・日講等、常に一往勝劣、再往一致という。然るに今、権実相対、本迹相対、倶に再往の実義なりと云云。豈自語相違に非ずや。手を扣って笑うべし是五。
つづく
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