人気ブログランキング | 話題のタグを見る

日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ
2015年 06月 13日

開目抄愚記 上二二  顕本已後も本迹の勝劣は宛然なり

又、啓蒙に云く「(すで)二乗(にじょう)作仏(さぶつ)の下に於て、多宝・分身を引いて真実の(むね)を定めたまえり。故に未だ発迹(ほっしゃく)顕本(けんぽん)せざる時も(まこと)の一念三千にして、二乗作仏も定まれり。(しか)るに今、真の一念三千も顕れず、二乗作仏も定まらずとは、()(じょう)を以て()(じょう)を奪うの辞なり。()くの如くに久成を以て始成を奪う元意は、天台過時の迹を破せんが為なり」と云云。この義は如何(いかん)

  答う、これはこれ曲会(こくえ)私情(しじょう)(びゃっ)(けん)にして、蓮祖違背(いはい)の大罪なり。(およ)そ二乗作仏の下に多(宝)仏分身を引き、真実の旨を定むることは、権迹相対して爾前に望む故なり。

  故に結文二十一に云く「此の法門は迹門と爾前と相対して」と云云。

  今「まことの一念三千もあらはれず二乗にじょう作仏さぶつも定まらず」とは、本迹相対して本門に望む故なり。故に所対に随ってその義同じからず。妙楽云く「およそ諸法相は所対不同なり」と云云。日講の盲目、こののりを知らず。いてしからずんば、一代の聖教皆これ真実ならんや。その故は上の内外相対の下六に云く「此の仏陀ぶつだは三十成道より八十御入滅にいたるまで五十年が間・一代の聖教を説き給へり、一字一句・皆真言なり一文いちもん一偈いちげ・妄語にあらず」等云云

  若しこの文を以て外典外道に対する故なりといわば、何ぞ()(ぜん)に対して迹門真実といわざらんや。(いわん)やまた、久成を以て始成を奪う(とき)は真の一念三千も(あらわ)れず、二乗作仏も定まらざること、(なんじ)(また)を知れり。若し実に(しか)らずんば、蓮祖何ぞ無実を以て台宗を破すべけんや。

  問う、啓蒙中に諸文の本迹相対の判釈を()する意に云く、それ実に本化の知見に約すれば「如是(にょぜ)我聞(がもん)」の初めより元来一致の妙法なり。(しか)るに諸文の中に本迹の起尽(きじん)を明かすことは、これ機情の移転に約する一往(いちおう)の判釈なり。是れ(なお)開迹顕本すれば一部皆本門なり。故に再往(さいおう)は本迹一致なり。得意抄の意は即ちこれなり等云云。この義は如何(いかん)

  答う、(およ)本化(ほんげ)の知見とは(みょう)(らく)の釈に分明(ふんみょう)なり。故に記九本二に云く「(しか)れども本の弟子は(もと)より近迹(ごんしゃく)を知れり。今の弟子は(なお)遠本に迷えり」と文。意に云く、本化の菩薩は(ただ)遠本を知るのみに(あら)ず、元よりまた近迹をも知れり。(たと)えば「本より迹を()れ、月の水に現るるが如し」というが如し。今の弟子は近迹を知らざるのみに非ず、(なお)(また)遠本にも迷えり。故に「天月を()らず、但池月を観ず」というが如し等云云。故に知んぬ、今日の弟子は遠近(とも)に迷い、本化(ほんげ)の菩薩は本迹倶に(あき)らかなり。何ぞ本化の知見、元来一致といわんや是一。

  (およ)そ吾が祖の一代諸経の浅深(せんじん)勝劣(しょうれつ)を判ずることは、(もっぱ)ら如来の金言を守り、(ひとえ)に今経の明文に()れり。何ぞ機情昇進に約すといわんや是二。

  宗祖の云く、二十三・三十一に云く「日本国中の諸人・一同に如説修行の人と申し候は諸乗一仏乗と開会しぬれば(いず)れの法も皆法華経にして勝劣浅深ある事なし(乃至)()が云く(しか)らず所詮・仏法を修行せんには人の言を用う可らず(ただ)(あお)いで仏の金言をまほるべきなり(乃至)此の経の序分無量義経に(乃至)四十(しじゅう)()(ねん)未顕(みけん)真実」と已上。

 宗祖の本意分明(ふんみょう)なり。権実相対既に(しか)なり。本迹相対も例して爾なり。寿量品に云く「誠諦(じょうたい)()()」と。また云く「楽於(ぎょうお)小法(しょうぼう)」と。また云く「()(じつ)成仏(じょうぶつ)」と云云。故に知んぬ、爾前・迹門は(ずい)他意(たい)なり、小法なり、未顕真実なることを。本門は随自意なり、大法なり、已顕真実なり。如来の金言、勝劣(しょうれつ)分明なり。何ぞ機情の移転といわんや是三。

 仮令(たとい)開会(かいえ)の迹門なりとも(なお)れ体内の迹なり。体内の本に及ばず。

 例せば十章抄に「(たと)い開会をさとれる念仏なりとも(なお)体内の(ごん)なり体内の(じつ)に及ばず」というが如し。

 故に十法界抄に云く「本門(あらわ)(おわ)りぬれば迹門の仏因は即ち本門の仏果なるが故に天月水月本有(ほんぬ)の法と成りて本迹(とも)に三世常住と顕るるなり」と云云。まさに知るべし、三世常住の水月は三世常住の天月に及ばざるなり。別に義章あり、故に略してこれを示す。し爾らば顕本已後も本迹の勝劣は宛然おんねんなり。何ぞ顕本已後いごは本迹一致といわんや是四。

 得意抄の意は、方便品の読誦(どくじゅ)心地の中に示すが如し。

  つづく


(注)以下に方便品の長行を載せる。十如是の文に続けて読誦する。


 妙法蓮華経 方便品 第二

時世じせそんごう舎利しゃりほつ汝已にょい慇懃三請おんごんさんしょうとく不説ふせつ汝今諦聴にょこんたいちょう善思念之ぜんしねんしとうにょ分別ぶんべつ解説げせつせつ会中えちゅう比丘びく比丘尼びくにそくせんにんとう即従座起そくじゅうざき礼仏而退らいぶつにたい所以者しょいしゃはいざいこん深重じんじゅう及増上慢きゅうぞうじょうまん未得謂みとくいとく未証謂証みしょういしょう有如此失うにょししつ是以ぜい不住ふじゅうそん黙然もくねん不制止ふせいし爾時仏告にじぶつごう舎利しゃりほつこんしゅう無復むぶ枝葉しよう純有じゅんぬじょうじつ舎利しゃりほつ如是増上慢人にょぜぞうじょうまんにん退亦佳矣たいやっけいにょ今善聴こんぜんちょう当為とうい汝説にょせつ舎利しゃりほつごんゆいねんそん願楽欲聞がんぎょうよくもん仏告ぶつごう舎利しゃりほつにょみょうほう諸仏しょぶつ如来にょらい時乃説之じないせっしにょどんばっ時一じいち現耳げんに舎利しゃりほつにょとう当信とうしんぶつ所説しょせつごん不虚妄ふこもう舎利しゃりほつ諸仏随宜しょぶつずいぎ説法せっぽう意趣いしゅ難解なんげ所以者しょいしゃ我以がい無数むしゅ方便ほうべん種種しゅじゅ因縁いんねん言辞ごんじ演説えんぜつ諸法しょほう是法ぜほう非思量分ひしりょうふんべつ之所ししょのうゆいしょぶつ乃能知之ないのうちし所以者しょいしゃ諸仏しょぶつそん唯以ゆいい一大事因いちだいじいん縁故ねんこ出現於しゅつげんの舎利しゃりほつうん何名がみょう諸仏しょぶつそん唯以ゆいい一大事因いちだいじいん縁故ねんこ出現於しゅつげんの諸仏しょぶつそん欲令よくりょう衆生しゅじょう開仏かいぶつ知見ちけん使とく清浄しょうじょう出現於しゅつげんの欲示よくじ衆生しゅじょうぶつ知見ちけん出現於しゅつげんの欲令よくりょう衆生しゅじょう悟仏ごぶつ知見ちけん出現於しゅつげんの欲令よくりょう衆生しゅじょう入仏にゅうぶつ知見ちけんどう出現於しゅつげんの舎利しゃりほつ諸仏しょぶつ唯以ゆいい一大事因いちだいじいん縁故ねんこ出現於しゅつげんの仏告ぶつごう舎利しゃりほつ諸仏しょぶつ如来にょらいたん教化きょうけ菩薩ぼさつ諸有しょう所作しょさじょう一事いちじ唯以仏之ゆいいぶっし知見ちけん衆生しゅじょう舎利しゃりほつ如来但以にょらいたんに一仏乗いちぶつじょう衆生しゅじょう説法せっぽう無有余乗むうよじょう若二若三にゃくににゃくさん舎利しゃりほつ一切いっさい十方じっぽう諸仏しょぶつ法亦如ほうやくにょ舎利しゃりほつ過去かこ諸仏しょぶつ無量むりょう無数むしゅ方便ほうべん種種しゅじゅ因縁いんねん言辞ごんじ衆生しゅじょう演説えんぜつ諸法しょほう是法ぜほうかい一仏乗いちぶつじょう諸衆生しょしゅじょう従諸じゅうしょ仏聞法ぶつもんぽう究竟くきょうかいとく一切いっさいしゅ舎利しゃりほつ未来みらい諸仏しょぶつ当出於とうしゅっとう亦以やくい無量むりょう無数むしゅ方便ほうべん種種しゅじゅ因縁いんねん言辞ごんじ衆生しゅじょう演説えんぜつ諸法しょほう是法ぜほうかい一仏乗いちぶつじょう諸衆生しょしゅじょう従仏聞法じゅうぶつもんぽう究竟くきょうかいとく一切いっさいしゅ舎利しゃりほつ現在げんざい十方じっぽう無量百千万億むりょうひゃくせんまんのくぶつ土中どちゅう諸仏しょぶつそん多所饒たしょにょうやく安楽あんらく衆生しゅじょう諸仏しょぶつ亦以やくい無量むりょう無数むしゅ方便ほうべん種種しゅじゅ因縁いんねん言辞ごんじ衆生しゅじょう演説えんぜつ諸法しょほう是法ぜほうかい一仏乗いちぶつじょう諸衆生しょしゅじょう従仏聞法じゅうぶつもんぽう究竟くきょうかいとく一切いっさいしゅ舎利しゃりほつ諸仏しょぶつたん教化きょうけ菩薩ぼさつ欲以仏之よくいぶっし知見ちけん衆生しゅじょう欲以仏之よくいぶっし知見ちけん衆生しゅじょう欲令よくりょう衆生しゅじょう入仏にゅうぶつ知見ちけんどう舎利しゃりほつ我今亦復如がこんやくぶにょ諸衆生しょしゅじょう種種しゅじゅよく深心所著じんしんじょじゃくずい其本性ごほんしょう種種しゅじゅ因縁いんねん言辞ごんじ方便力ほうべんりき説法せっぽう舎利しゃりほつにょかい得一仏乗とくいちぶつじょう一切いっさいしゅ舎利しゃりほつ十方じっぽう世界中せかいちゅうしょう二乗にじょう何況がきょう有三うさん舎利しゃりほつ諸仏出於しょぶしゅっと五濁ごじょくあく所謂劫濁しょいこうじょく煩悩濁ぼんのうじょく衆生濁しゅじょうじょく見濁けんじょく命濁みょうじょくにょ舎利しゃりほつ劫濁こうじょくらん衆生しゅじょうじゅう慳貪けんどん嫉妬しっと成就じょうじゅしょ善根ぜんこん諸仏以しょぶつい方便力ほうべんりき於一仏乗おいちぶつじょう分別説三ぶんべつせっさん舎利しゃりほつにゃく弟子でし自謂じい阿羅漢あらかん辟支びゃくし仏者ぶっしゃ不聞ふもん不知ふち諸仏しょぶつ如来にょらいたん教化きょうけ菩薩事ぼさつじ非仏弟子ひぶつでし非阿羅漢ひあらかん非辟支仏ひびゃくしぶつ舎利しゃりほつ諸比丘しょびく比丘尼びくに自謂已じいいとく羅漢らかん最後さいごしん究竟くきょう涅槃ねはん便べん不復ふぶ阿耨多羅三藐三あのくたらさんみゃくさん菩提ぼだい当知とうちはい皆是増上慢人かいぜぞうじょうまんにん所以者しょいしゃにゃく比丘びくじつとく阿羅漢あらかんにゃく不信ふしん此法しほう無有むう是処ぜしょじょ仏滅度後ぶつめつどご現前げんぜん無仏むぶつ所以者しょいしゃ仏滅度後ぶつめつどごにょとうきょう受持じゅじ読誦どくじゅ義者ぎしゃ是人難ぜにんなんとく若遇余仏にゃくぐよぶつ此法中しほうちゅう便得決べんとくけつりょう舎利しゃりほつにょとう当一心とういっしんしん受持じゅじ仏語ふつご諸仏しょぶつ如来にょらいごん無虚妄むこもう無有余乗むうよじょう唯一仏乗ゆいいつぶつじょう




開目抄愚記 上 目次



by johsei1129 | 2015-06-13 14:24 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


<< 開目抄愚記 上二三      Gosho 四条金吾殿御返事(... >>