人気ブログランキング | 話題のタグを見る

日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ
2015年 06月 07日

開目抄愚記 上二十 本因・本果を知らざるは邪見なり


  第十六段 爾前・迹門の二失を顕す

一 華厳(けごん)・乃至般若(はんにゃ)

この下は二に今師の能判、また二あり。初めに已迹(いしゃく)(とが)を明かし、次に「本門にいたりて」の下は今本の(とく)を明かす。初めの已迹の失を明かすにまた二あり。初めに()(ぜん)の失を明かし、次に「迹門方便品」の下は迹門の失を明かす。

一 (ぎょう)()を存するが故に

  竹十・十二、註の所引の如し。(まさ)に知るべし、「行布」は即ち差別の異名(いみょう)なり。(いわ)く、昔の経々には十界の差別を存す、故に(なお)(いま)だ九界の権を開せず、故に十界()()の義なし、故に「迹門の一念三千をかくせり」という。北峯(ほっぽう)に云く「三千は是れ不思議の妙境なり。(ただ)法華の開顕、二乗作仏、十界互具に()る。是の故に三千の法は一念(とん)(えん)にして法華(ひと)り妙なり」云云。(つぶさ)()三重秘伝抄の如し。

一 迹門の一念三千をかく()せり等

  (まさ)に知るべし、この中は影略互(ようりゃくご)(けん)なり。何となれば、()(しょう)()(じょう)はこれ(のう)(せん)、事理の三千はこれ所詮(しょせん)なり。記小久成に()るが故に、()く事理の三千を顕すが故なり。故に知んぬ、一念三千・本門久遠は能詮・所詮、文を(あや)なして互顕なり。

一 迹門方便品等

  この下は次に迹門の(とが)を明かす、また二あり。初めに()、次に「しかりと・いえども」の下は(だつ)、これをまた二と為す。初めには法、次には(たとえ)(おのおの)二あり、見るべし。

一 しかりと・いえども・い()発迹(ほっしゃく)(けん)(ぽん)せざれば・(まこと)の一念三千もあらはれず

  宗円記一・三十二に云く「しかりといえどもとは、上を領して下を生ず。(たと)えば奪の辞なり」と云云。竹一本二十に云く「(ほつ)とは開なり」と云云。当に知るべし、爾前の経々には二(しつ)あり。()し迹門の中には一得一失あり。一念三千二乗(にじょう)作仏(さぶつ)と説くはこれ一得なり。(いま)発迹(ほっしゃく)顕本(けんぽん)せざるはこれ一失なり。この失に()るを以ての故に、迹の中の得は(なお)(とが)に属するなり。例せば故に知んぬ、迹も実も本に於ては(なお)虚の義の如し。故に迹門の得失は得失(とも)に失なり。またこのほっの四文おのおのほんこん、及び有名うみょう無実むじつの二失を含むなり。

   問う、迹門の一念三千を何ぞ本無(ほんむ)(こん)()というや。

  答う、(すで)未発迹(みほつしゃく)という、故に今有なり。また未だ顕本せず、故に本無なり。仏界既に(しか)なり。九界もまた爾なり。故に十法界抄に云く「迹門には(ただ)是れ()(かく)の十界()()を説きて未だ必ず本覚(ほんがく)本有(ほんぬ)の十界互具を明さず、故に所化(しょけ)の大衆能化(のうけ)の円仏皆是れ(ことごと)く始覚なり、()(しか)らば本無今有の(とが)何ぞ(まぬか)るることを得んや」と云云。この文、思い合すべし。(あに)()発迹(ほつしゃく)(けん)(ぽん)」の五字、本無今有の失を含むに非ずや。

  問う、亦何ぞ有名(うみょう)無実というや。

  答う、迹門の中に於て一念三千の名ありと(いえど)も一念三千の義なし、故に真の一念三千は(あらわ)れずというなり。十章抄に云く「一念三千の出処は(りゃっ)(かい)(さん)(じゅう)(にょ)実相なれども義分は本門に限る」等云云。これを思い合すべし。

一 二乗(にじょう)作仏(さぶつ)も定まらず

  迹門の二乗作仏は本無今有・有名無実なり。故に「定まらず」というなり。

  問う、迹門の二乗作仏、何ぞ本無今有というや。

  答う、種子を(かく)()するを作仏と名づくるなり。(しか)るに未だ根源の種子を覚知せざる故に(しか)云うなり。
 本尊抄八・二十に云く「久種を以て下種と
()し大通前四味迹門を熟と為して本門に至つて等妙に登らしむるを脱と為す」と云云。(しか)るに迹門に(おい)て未だ久遠(くおん)下種を明かさざるは(あに)本無に(あら)ずや。(しか)るに作仏(さぶつ)というは寧ろ(こん)()に非ずや。玄六・五十四に「失心(しっしん)()失心」と云云。竹六・六十三に云く「本の所受を忘る、故に失心と()う」と云云。竹六・九十の遠益の下の文、これを思い合すべし。(つぶさ)には三重秘伝抄の如し。

  問う、迹門の二乗作仏を何ぞ有名無実というや。

  答う、それ三惑(さんなく)を断ずるを名づけて成仏と為す。(しか)るに迹門の二乗は未だ見思(けんじ)を断ぜず、(いわん)無明(むみょう)を断ぜんや。文九・三十二に云く「今生(こんじょう)に始めて無生(むしょう)(にん)を得、及び未だ得ずとは(ことごと)く此の(いわれ)有るなり」等云云。(なお)(ごん)(じょう)(あい)(ぎょう)す、即ちこれ思惑(しわく)なり。未だ本因・本果を知らず、即ち邪見に当る。豈見惑(けんなく)に非ずや。故に十法界抄に云く「迹門の二乗は未だ見思(けんじ)を断ぜざるは有名無実の故なり」(取意)等云云。

つづく


開目抄愚記 上 目次



by johsei1129 | 2015-06-07 18:57 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


<< 上野殿御返事 The Work...      開目抄愚記 上一九 >>