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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 12月 22日

最終章 日本の仏法、月氏へ流れる

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                   英語版


日蓮が弘安五年(一二八二年)十月十三日に滅度して以来、本年平成二十九年(二○十七)で七百三十五年になろうとしている。

現在の日本の仏教界の現状を省みると、日蓮が四箇の格言(念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊)で徹底的に破折した鎌倉仏教は、既に形骸化し葬式仏教となり下がり、民衆及び国家権力への精神的影響力は喪失している。
 また釈尊が大集経で予言した仏滅後の「
多造塔寺堅固()」の時代を中心としてつくられた仏教寺院・伽藍は、民衆が仏道を求めて見参する場ではなく、一律に入場料を徴収して拝観させるという、まるで動物園か遊戯施設のごとくに変貌を遂げた。
 出家僧の姿も俗世間を断つ本来の出家とは程遠く、鎌倉仏教の時代は出家僧の常識だった剃髪、非婚、非肉食等の戒律は宗派により多少の濃淡はあっても、ほとんど有名無実化していった。つまり出家とは名ばかりで、これらの僧侶を擁する寺社・仏閣は、そもそも在家の供養を受ける資格はないであろう。
 供養とは、あくまで在家信徒の「三宝 (仏・法・僧)」を敬う思いを表しており、金額の多寡ではなく、それぞれの分に応じて自ら進んで供養するから功徳となる。決して出家僧侶の側が金額を決めて徴収するものではない。
 その状況の中で日蓮の唱えた「南無妙法蓮華経」は信仰の自由が確立した戦後、確実に日本の民衆に浸透していった。戦後、雨後の筍のように発生した新興宗教の大半は「南無阿弥陀仏」ではなく「南無妙法蓮華経」と唱え、法華経を拠り所とした。教外別伝を唱え仏典を否定した禅宗(現在の曹洞宗)でさえ「妙法蓮華経如来寿量品」を読誦するようになった。
 新興宗教の
なかには「佛所護念会」のように日蓮が図現した一機一縁の直筆の本尊を、鎌倉時代から所蔵してきた日蓮系寺院から譲り受け、自宗の本尊とする宗派もでてきた。
 しかし日蓮大聖人、日興上人、日目上人を正当に引き継ぐ日蓮正宗大石寺と決定的に異なるのは、
一閻浮提総与の大御本尊を根本の本尊としていないことと、日蓮から付属を受けた第二祖日興上人、そして一閻浮提の御座主第三祖日目上人の血脈がないことである。それ故、日蓮の本尊を拝みながら同時に神社に参詣するという、日興上人存命時の「波木井実長」と全く同じ謗法を犯していることになる。
 いっぽう日興上人以外の五老僧及び日蓮存命中の強信徒が開基した寺社・仏閣のその後の行方はどうなったであろう。
 その中の多くは日蓮を上行菩薩の再誕として日蓮大菩薩と仰ぎ、一閻浮提総与の大御本尊を根本の本尊とはしていない。
 菩薩とは仏になる前の修業中の身である。かりに日蓮が菩薩であるならば、菩薩が本尊を図現し、末法の衆生に「これは仏の当体であるから、これに題目を唱えることで成仏できる」と説いていることになる。これはとんでもない大増上慢になるであろう。仏になっていない菩薩が己の魂を墨に染め流して本尊を図現するならば、これはあくまで菩薩の境涯を図現したことになる。
 釈尊は妙法蓮華経如来寿量品第十六でこう説いている。

 「如是我成仏已来。甚大久遠。寿命無量。阿僧祇劫。常住不滅。諸善男子。我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数」
 訳「かくの如く我成仏して以来、はなはだ久遠で、寿命は無量阿僧祇劫であり、常に住して滅することはない。諸の善男子よ、我は本より菩薩の道を行じ、仏となって得た寿命はなお未だ尽きず、またその上の倍数の寿命を得ている」

 日蓮はこの文「我本行菩薩道」の文の底に「南無妙法蓮華経」が秘沈していると断言している。つまり久遠元初に釈迦牟尼は南無妙法蓮華経を唱えて成道し、その南無妙法蓮華経を日蓮自身も覚知し本尊として図現したのだ。
 仏道を成就するためには教(仏が覚知した悟り)・行(仏性を覚知するための修行法)・証(その修行で仏となったあかし)が必要となる。釈迦滅後正法千年、像法千年を経て末法に入ると、法華経という教は存在しても、末法での修行法はなく、当然仏というあかしも存在しないことになる。
 日蓮は建長五年の立宗宣言いらい、己心に本尊を想い描き、その本尊に帰命することで、竜の口の首の座の大難を乗り越え、上行菩薩としての迹を払い、末法の本仏としての本地を顕した。
 そして文永八年九月十二日の竜の口から約一ヶ月後の十月九日、佐渡へ出立するまで留め置かれた相模
依智の本間重連邸で、初めて本尊をあらわした。消息を書くために常に備えていた小筆では文字が小さいので、楊の枝をほどいて書き記したと言われている。脇書きに「相州本間依智郷書之」とあり現在、京都立本寺に所蔵されている。日蓮は妙法蓮華経の虚空会の儀式を図現し、その本尊に南無妙法蓮華経と唱えるという修行法を確立し、自らが仏となることで末法において教行証を具現化したのだった。 
 日蓮大聖人が弘安二年十月十二日に建立した「大御本尊」には、釈尊の説いた極説を持し、流布し、後世に伝えようとした仏教徒の情念が結実している。仏滅後、仏典結集のため参集した阿難、摩訶(まか)迦葉(かしょう)を中心とする五百人にも及ぶ仏弟子の阿羅漢たち。妙法蓮華経を漢訳し法華経有縁の国土世間、日本伝来への礎を築いた天才
()()羅什(らじゅう)。激しい法論に真っ向から立ち向かい、妙法蓮華経を体系化し諸教の王と確立した中国の天台大師。日本仏教史上初めて法華経を根本とする大乗戒の勅宣を、自身滅後七日目に賜った日本の伝教大師。
 日蓮はこの釈迦仏法の本流に立った上で、「
仏滅後二千二百三十余年之間、一閻浮提之内未曾有(みぞう)大曼荼羅」を建立した。この大御本尊に帰命せずに「日蓮大菩薩」と崇めることは「法華経を()むると(いえど)(かえ)って法華の心を(ころ)す」と同様、「日蓮を賛むると雖も還って日蓮の心を死す」所業となることは、火を見るよりも明らかであり、人々は成仏への正しい道に迷うことになる。

 まことに恐れ多いことでは有るが、ここで仏教史上における釈尊と日蓮大聖人のこの世に出現した因縁について考察する。

妙法蓮華経 薬草(やくそう)()(ほん)五で「如来説法 一相一味」と説かれている。つまり「諸法の実相」を究めた仏の悟りは、どの仏も同じであると説いている。違いは、説く時代((こう))、その仏が応誕する有縁の国、仏滅後の法が有効に続く期間である。

妙法蓮華経 ()()品第三で釈尊は、智慧第一の舎利(しゃり)(ほつ)に未来世で華光(けこう)如来となると「記別」を与える。そのさい釈尊は、華光如来が出現する仏国土の名を「()()」、劫の名を「大宝荘厳」、華光如来の寿命を「十二小劫」、人民の寿命を「八小劫」と示している。

さらに華光如来が出現し十二小劫を経た時に、堅満菩薩に未来世で「華足安行阿羅訶(あらか)三藐(さんみゃく)三仏陀」となるとの記別を与え、華光如来が滅度の後、正法が三十二小劫、像法が三十二小劫続くと解き明かす。

(ちな)みに現在の地球の仏国土名は「娑婆(しゃば)」、劫の名は「賢劫(けんこう)」である。

釈迦はインドに応誕し、最後の八年間で妙法蓮華経を(りょう)鷲山(じゅせん)で説き、上行菩薩に滅後の妙法蓮華経の弘通(ぐつう)を付属し八十歳で滅度した。釈迦滅後正法千年、像法千年、つまり二千年で釈迦仏法は力を失い末法に入る。そして妙法蓮華経有縁(うえん)の地日本に、上行菩薩の再誕として日蓮大聖人が誕生し、竜の口法難で発迹(ほっしゃく)顕本(けんぽん)し末法の本仏としての本地を顕す。

それでは日蓮滅後、法はどう続いていくのか。日蓮は報恩抄で次のように明確に宣言している。


「日蓮が慈悲(こう)(だい)ならば南無妙法蓮華経は万年の(ほか)・未来までも()()べし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間(むけん)地獄の道をふさぎぬ、此の功徳(くどく)は伝教・天台にも超へ竜樹(りゅうじゅ)()(しょう)にもすぐれたり。極楽百年の修行は穢土(えど)の一日の功徳に及ばず、正像二千年の弘通(ぐつう)は末法の一時に劣るか。是れひとへに日蓮が智のかしこきには・あらず、時のしからしむる(のみ)。春は花さき秋は(このみ)なる夏は・あたたかに冬は・つめたし時のしからしむるに有らずや」


 日蓮大聖人は、釈迦滅後の正像二千年の弘通(ぐつう)は末法の一時、つまり日蓮大聖人及び滅後の門下(ゆい)(てい)の弘通に劣る。それは時のしからしむる故であると断言している。

さらに佐渡で記された「顕仏未来記」で次のようにその理由を示されている。


法華経の第七(薬王品第二十三)に云く「我が滅度の後・後の五百歳の中に閻浮提(えんぶだい)に広宣流布して断絶せしむること無けん」等云云。(中略)疑つて云く正像の二時を末法に相対するに、時と機と共に正像は(こと)に勝るるなり、何ぞ其の時機を捨てて(ひとえ)に当時(末法)を指すや、答えて云く仏意測り難し予未だ之を得ず、試みに一義を案じ小乗経を以て之を(かんが)うるに、正法千年は教行証の三つ(つぶさ)さに之を備う、像法千年には教行のみ有つて証無し、末法には教のみ有つて行証無し等云云。


釈尊の法門は、末法では教は存在するが、仏になるための修行方法である「行」は時に叶わず、それ故仏になる衆生も存在しないと断じている。釈尊は法華経で修行法として教を聞き、人に聞かせ、持ち(受持=信じ)、人にも持たせ、書き、人に書かしめ、(はな)、香等で経巻を供養せよと説いている。また大乗経では修行法として「六波羅(はら)(みつ)」の「布施・持戒・忍辱(にんにく)精進(しょうじん)禅定(ぜんじょう)智慧(ちえ)」を示している。

 また釈尊は法華経の結経である「仏説観普賢(ふげん)菩薩行法経(普賢経)」で、仏が入滅された後、どのように修行すればよいかと尋ねる弟子等に、要約すると次のように答える。


普賢(ふげん)菩薩を観想し、

大乗経典を読誦(どくじゅ)し、

大乗の教えを深く思索し、

諸仏を礼拝し、

過去世に作った宿業を懺悔(ざんげ)し、

この修業を繰り返す。


 この修行法は、あくまで王族、長者の出家者でなければ経済的、時間的に叶わない修行であることは言うまでもない。事実、法華経には、善男子、善女子という言葉が度々登場する。この善男女のサンスクリットの意味は、素性の良い男女を指している。つまり過去世に善行を積んだ功徳として、王族長者の一族に誕生した衆生を意味している。その身分以下の衆生は、托鉢(たくはつ)をする出家僧に種々の供養をすることで、功徳を分け与えられるという思想である。現代でも小乗経が流布された東南アジアの仏教国、タイ、ミャンマー等の国では出家僧に対する供養は、信じられないほど熱心に行われている。しかし僧を敬うことはあっても自分たちが自ら経を読誦(どくじゅ)し、教えを想念し他者に布教することはない。家族から僧を出すことは大きな功徳を得られると信じられているが、僧は戒律を守るだけで働くことはできないので、限られた者だけが出家する。

 それに対し日蓮は、僧俗問わず、すべての衆生が法華経を読誦し南無妙法蓮華経と唱え、人にも語ること(布教)を末法の修行であると説いた。

 佐渡で記された「諸法実相抄」で次のように説き、門下に(さと)されている。


 いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠(くおん)の弟子たる事あに疑はんや。

経に云く「我久遠(くおん)より(この)かた是等の衆を教化す」とは是なり、末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。

日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌(じゆ)の義に非ずや(あまつさ)へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を(まと)とするなるべし。

(中略)

(ふみ)には日蓮が大事の法門ども・かきて候ぞ、よくよく見ほど()かせ給へ・(こころ)()させ給うべし、一閻浮提(えんぶだい)第一の御本尊を信じさせ給へ、あひかまへて・あひかまへて・信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給うべし、行学(ぎょうがく)の二道をはげみ候べし、行学()へなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも(きょう)()候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかた()らせ給うべし、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経、恐恐謹言

最後に筆者のつたない体験を紹介してこの小説の終わりとする。

筆者は過日、総本山大石寺を訪れた。

大石寺の緑の山々は霧雨におおわれて間近に迫り、静寂の世界があたりを支配していた。
 たまたま訪れた宿坊は
(とこ)灯坊(ひぼう)という海外信徒専用の宿舎だった。鉄筋の三階建で地下にはシャワー室がある。部屋は十人程度が寝泊まりできるように区切られてあった。様々な国や人種の信徒が集まるため、小部屋にしているのだろう。館内にはインターネットの設備もある。海外信徒の利便を考えて様々な工夫がなされていた。
 その夜、宿坊で御住職の法話があった。この御住職は海外部に所属され、一年の半分以上は外国での布教という。法話の内容も海外での苦労話だった。その口調は淡々としていたが、かえって我々の心に染み入った。
 御住職はインドでの体験を話された。インドにも法華講の信徒は大勢いる。御住職は各地を回って彼らを激励した。
 「いつかは日本へ行き、戒壇の大御本尊様にお目通りできるよう励みましょう」と。
 ところが信徒の中で「自分は日本に行けない」という人がいた。
 そこで御住職は「そんなことはありません、かならず日本に行けますよ」と激励したが、その信徒はどうしても行けないという。金銭的な理由ではないらしい。
 理由を聞いてみると、その信徒はある都市のスラム街の生まれだという。生まれた住所も、両親の名前もはっきりしない。日本でいう戸籍がないのである。したがってパスポートを取得できない。日本に行くどころか、インドの外にもでられない。この信徒は最後に告げた。
「だからわたしは来世で大御本尊様にお目通りするのです」
 日蓮大聖人は流罪地の佐渡で世界広布の予言をしている。

月は西より出でて東を照し、日は東より出でて西を照す、仏法も又以て(くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く。  「顕仏未来記 文永十年五月十一日

インドで発祥した仏教は日本に伝わった。大聖人の仏法は日本に始まりインドにかえると断言されている。さらに大聖人は自らを旃陀(せんだ)(の生まれと仰せられた。こインドの信徒も低い階層の衆生である
 この信徒が日本に行くことは不可能なのだろうか。望みはないのだろうか。いや、そうではない。大御本尊様の慈悲をもってすれば、必ず日本に行けるはずだ。その可能性はいつか必ず訪れる。
 仏法の発祥地インドでは、釈迦仏法はすっかり廃れてしまったが、そこには再び日本から流布された日蓮大聖人の仏法の萌芽が見えている。大聖人が一人始められた布教の線は、確実に月氏の国に伝わっている。この小説に登場したあらゆる弟子・信徒と同じく、日蓮大聖人をかぎりなく慕い、大御本尊にまみえることを夢に見る人々がインドにおられる。そして我らと同じく南無妙法蓮華経と唱え、生涯信心強盛であることを誓っている。
 今世はむろん来世までも。


              完

下巻目次


 注

 多造塔寺堅固

  釈尊は入滅後の教えの変遷について大集経で、正しく伝わる正法時代が千年、似た教えが伝わる像法時代が千年続き、その後白法穏没する末法に入ると説いている。さらに正法、像法二千年を五百年ごとに区切り次のような時代になると予言している。はじめの五百年を解脱(げだつ)堅固(けんご)といい、仏法で悟りを得る時代、次の五百年は禅定堅固で、禅定(心を定めて想念する)により悟りを得る時代、次の五百年は読誦(どくじゅ)多聞(たもん)堅固で、経文の読誦が盛んに行われる時代、次の五百年は多造(たぞう)塔寺(とうじ)堅固で寺社・仏閣が盛んに建造される時代である。最後の末法の最初の五百年は、闘諍(とうじょう)堅固・白法(びゃくほう)隠没(おんもつ)の時代に入り、争いごとが盛んとなり、白法が隠没する時代であると説いている。
 日蓮大聖人も佐渡流罪中に述作した撰時抄で次のように記している。

「大集経に大覚世尊、月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり。所謂(いわゆる)我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固已上(いじょう)一千年、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固已上二千年、次の五百年には我法の中に於て闘諍言訟(ごんしょう)して白法隠没せん等云云」(撰時抄)



by johsei1129 | 2019-12-22 07:11 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)


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