【両人御中御書】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279)十月二十日 五十八歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は大国阿闍梨日朗と、池上兄弟の兄宗仲に宛てた書である。
内容は、下総出身の古参の弟子大進房が熱原法難で敵方に寝返り、法華経信徒を馬に乗り暴徒を指揮して迫害、その時落馬し怪我を負い、それが原因で死去するが、大進房は生前法兄である弁阿闍梨日昭に自分の僧坊を譲るという譲状を残していた。
大聖人はこのことを知り、直ちに今誰も住んでいない僧防を建て壊し、譲状のとおり日昭に渡して日昭の僧坊を大きくしなさいと依頼されておられる。
本書では、この頃大聖人の高弟達はそれぞれ僧坊をもち、そこを拠点に布教活動をしていて、弟子が弘教の主体となっていことをうかがわせる。また僧坊の建築に幕府作事奉行(建築・土木部門)の池上家、特に兄宗仲が大きく関わっていたことがわかる貴重な書となっている。
尚、大聖人は生涯最後の二十六日間を池上宗仲の館ですごし、弘安五年十月十三日に御入滅なされる。
■ご真筆: 京都市妙顕寺 所蔵。

[両人御中御書 本文]
大国阿闍梨、えもん(衛門)のたいう(太夫)志(さかん)殿等に申す。故大進阿闍梨の坊は各各の御計らいに有るべきかと存じ候に、今に人も住せずなんど候なるはいかなる事ぞ。
ゆづり状のなくばこそ・人人も計らい候はめ。くはしくうけ給わり候へば、べん(弁)の阿闍梨にゆづられて候よし・うけ給わり候き。又いぎ(違義)あるべしとも・をぼへず候。
それに御用いなきは別の子細の候か。其の子細なくば大国阿闍梨・大夫殿の御計らいとして弁の阿闍梨の坊へこぼ(毀)ち・わたさせ給い候へ。
心けん(賢)なる人に候へば、いかんがとこそ・をもい候らめ。弁の阿闍梨の坊をすり(修理)して・ひろくも(漏)らずば、諸人の御ために・御たからにてこそ候はんずらむめ。ふゆはせうまう(焼亡)しげし。もし・やけなばそむ(損)と申し・人もわらいなん。
このふみ(文書)ついて両三日が内に事切って、各各御返事給び候はん。恐恐謹言。
十月廿日 日 蓮 花 押
両人御中
ゆづり状をたがうべからず。