日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 04月 04日

熱原の三烈士を、鬼に身を投げて仏法を求めた雪山童子の如しと称えた【聖人等御返事】

【聖人等御返事(変毒為薬御書)】
■出筆時期:弘安二年(西暦1279)十月十七日 五十八歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:弘安二年十月十五日、冨士郷・熱原の農民、神四郎、弥五郎、弥六郎の兄弟が、平頼綱(平金吾)より法華経信仰をやめなければ殺すと弾圧され、それでも法華経信仰を捨なかった三人は断首される。この事態を受け現地で農民信徒を励ましていた伯耆房日興上人は、直ちに急使を立て身延の大聖人へ報告、手紙は翌々日の十月十七日午後六時頃到着する。大聖人は直ちに本書をしたため同日午後八時頃には日興上人に送っている。大聖人は本書で熱原の三烈士が処刑されるまで「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と唱えていたことは「偏に只事に非ず」と驚嘆されるとともに「経文の半偈を聞く為に鬼に身を投げ出した釈迦前世の雪山童子の如し」と讃えられている。
 実際に日蓮門下で、法華経を信仰するがゆえに処刑の場に立たされたのは「竜の口法難」の日蓮大聖人以外では、熱原の三烈士だけである。
佐渡流罪の時、日朗上人含む五人の弟子・信徒が投獄されているが、処刑までは至っていない。
 尚、本書の宛名は聖人等御返事になっている。実際は日興上人へ宛てられた手紙であるが、大聖人は日興上人への他の手紙では、伯耆房殿若しくは伯耆殿となっている。また日興上人の弟子で、ともに熱原の農民を励ましていた日秀、日弁に対しては、同じ弘安二年十月十二日の「伯耆房御返事」で、日秀、日弁等へ下すと記している。その意味で本書の宛名「聖人等御返事」は、釈迦前世の雪山童子の如しと称えておられる「熱原の三烈士」を弔っての称号と強く推察される。
ちなみに、本書で「妙の字虚しからずんば定めて須臾に賞罰有らんか」と予言されてるとおり、熱原法難の十四年後、執権北条貞時の軍に急襲され、平頼綱は自害し一族は滅ぼされた。
■ご真筆: 現存していない。古写本:日興筆(北山本門寺所蔵)
[聖人等御返事 本文]

今月十五日酉時御文同じき十七日酉時到来す。

 彼等御勘気を蒙るの時、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱え奉ると云云。偏に只事に非ず。定めて平金吾の身に十羅刹入り易りて、法華経の行者を試みたもうか。

 例せば雪山童子、尸毘王等の如し。将た又悪鬼其の身に入る者か。釈迦・多宝・十方の諸仏・梵帝等、五五百歳の法華経の行者を守護す可きの御誓は是なり。

 大論に云く、能く毒を変じて薬と為す。天台云く毒を変じて薬と為す云云。妙の字虚しからずんば定めて須臾に賞罰有らんか。
伯耆房等、深く此の旨を存じて問注を遂ぐ可し。平金吾に申す可き様は、文永の御勘気の時聖人の仰せ忘れ給うか、其の殃未だ畢らず重ねて十羅刹の罰を招き取るか、最後に申し付けよ。恐恐謹言。

十月十七日戌時               日 蓮 花押判
聖人等御返事
この事のぶるならば此方にはとがなしとみな人申すべし、又大進房が落馬あらわるべし、あらわれば人人ことにおづべし、天の御計らいなり、各にはおづる事なかれ、つよりもてゆかば定めて子細いできぬとおぼふるなり、今度の使にはあわぢ房を遣すべし。




by johsei1129 | 2015-04-04 23:15 | 日興上人 | Comments(0)


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