人気ブログランキング | 話題のタグを見る

日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ
2015年 03月 29日

立正安国論愚記 十二 若し謗法の悪侶を誡めずんば、何ぞ正法の善事を成さんや。

一、(たれ)か一代の教を(さみ)し(乃至)(いわ)んや
 両点(これ)あるも、答の大旨に准ずるに「(たれ)か」の点、可なり。
一、僧は(ちく)()の如く

 三宝具足の学者、見るべし。註に云く「僧は(じゃ)()、侶は伴侶(はんりょ)なり」と云云。一義に云く、僧は平生(へいぜい)の出家、侶は高僧学侶なりと云云。初めの義可なり。
一、(よこしま)に法制を作って

 太子受禅(じゅぜん)の時は法華経の八句の文なり。而るに秘教を(まじ)うる等なり。
一、邪智にして心諂曲(てんごく)

 これ正直ならざる故に邪曲(じゃごく)というなり。仁王の「悪比丘」、涅槃経の「悪知識」これなり。

一、或は()(れん)(にゃ)に(乃至)有らん
註の板点は不可なり。「有」の字は「人間を軽賎(きょうせん)する者」に冠するなり。

一、国王・大臣等

大集経十六・七に云く「爾の時、魔子醜面(まこしゅうめん)び余の魔子(おのおの)是の言を説けり、仮使(たとい)沙門()(どん)、諸の方術を以て魔王を廻転(えてん)すとも、我等共に(まさ)に諸の方便を設けて(かく)の如き等の経をして流布することを得ざらしむべし。設使(たとい)流布すとも、(また)(はなは)だ少からしめん。護助(ごじょ)し信受する行者有れども、亦甚少ならしめん。常に多人に軽賎せられん、常に辺方(へんぽう)()、中国をして宣伝せしめざらん。(ただ)諸の威徳なき貧窮(びんぐ)の衆生をして当に之を聞くことを得せしめ、常に諸の大威徳(ごう)()の人をして信ぜずして誹謗を為さしめん。」と文。

一、悪鬼()の身に入って
 「仏の方便を知らず」「悪鬼其の身に入る」は毀謗(きぼう)所以(ゆえん)なり

一、数数(しばしば)(ひん)(ずい)せられん
「擯」は棄なり文。註に云く「此の論の所著(しょちょ)左遷(させん)の前に在り。故に遠離(おんり)塔寺(とうじ)の文に至らず。謫居(たくきょ)後の書に天台未読とは遠離塔寺の文を指すなり。」と云云。

疑って云く「諸文の中には数数の二字を以て天台未読と為すなり」と。啓蒙に云く「(ただ)是の二句不同無き故に、略して之を引かざるのみ」と云云。此の義、未だ(うま)からず。今謂く、蓮祖は(ただ)これ東西馳走(ちそう)して諸宗を折伏し、未だ塔寺に安住せず。故に遠離塔寺の文は恐らく便ならざる故にこれを略するのみ。

一 涅槃経に云く等

会疏(えしょ)・十三。下山抄二十六・二十一に云く「『(われ)涅槃の(のち)無量百歳』云云仏滅後二千年已後と見へぬ、又『四道の聖人悉く(また)涅槃せん』云云、付法蔵の二十四人を指すか、『正法滅後』等云云像末の世と聞えたり」文と云云。像法(なお)(しか)なり、況や末法をや。故に「像末」というなり。
一、沙門の(かたち)を現じ文。
 註に云く「沙門、此には(ごん)(そく)と云う」と云云。善を(つと)め悪を(とど)むる故なり。
一、正法を誹謗せん
 註に云く「この一文は(ただ)誹謗の末句に在り」と云云。上来の文はこれ律僧に約す、故に同文の故に来るなり。今は浄土家に対する故に誹謗正法の末句はこれ今の所用(しょゆう)なり。
一、悪侶を(いまし)めずんば
 花の(あした)に嵐を(いと)い、月の(ゆうべ)には雲を厭う。若し謗法の悪侶を誡めずんば、何ぞ正法の善事を成さんや。


                  つづく


by johsei1129 | 2015-03-29 19:35 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


<< Gosho 御義口伝下 Ora...      立正安国論愚記 十一 >>