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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 03月 29日

立正安国論愚記 十一

一、叡山(えいざん)南都(なんと)
 「叡山」はこれ天台宗、故に(また)天台山とも名づくるなり。人皇五十代(かん)()帝の延暦(えんりゃく)七年戊辰(つちのえたつ)、根本一乗止観院建立。根本中堂の本尊は薬師なり。同じき十三年、天子の御願寺(ぎょがんじ)と為る。(こう)(にん)十四年二月十六日に延暦寺という(がく)(たま)わるなり。註の二十一。

「南都」は奈良の七大寺なり。棟梁(とうりょう)は東大寺・興福寺なり。故に注には(ただ)二箇寺と標するなり。四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月、奈良の都を長岡に(うつ)す。同じき十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す。奈良は平安城の南なり、故に南都という。

東大寺は人王四十五代(しょう)()帝、流沙(りゅうさ)の約に(かな)い、(りょう)(べん)を請じて大仏の像を(つく)らしむ。実に天平(てんぴょう)十五年十月なり云云。流沙の約とは釈書二十八・十二に出でたり。供養の事は太平記二十四の巻に出でたり。

興福寺は四十三代元明(げんめい)帝の治、和銅三年(たん)(かい)(こう)これを建立す。これ藤原氏の氏寺(うじでら)なり。

園城寺(おんじょうじ)初め教待(きょうだい)和尚(これ)を建つ。百八十年の(のち)天安六年十二月、智証、教待の付嘱を受けて(ここ)に住す。天智・天武・地(持)統の三皇降誕の時、この井の水を()みて浴湯と為す。故に御井寺(みいでら)と号す。智証、御井を改めて三井と為す。三皇(よく)(せい)の事を取り、我この水を()みて三部(かん)(じょう)閼伽(あか)と為し、()()三会(さんえ)()に至る、故に三の字に改むるなり。

東寺は即ち鴻臚館(こうろかん)(こう)(にん)十四年、嵯峨天皇、空海に賜う。而して真言院と為す。草創(そうそう)は延暦十五年に在るのみ。
一、四海・一州等

 総じてこれ日本国中なり。
一、仏経は星の如く(つら)なり文。
 即ちこれ仏像と経巻なり。学者これを思え。
一、堂宇(どうう)(くも)の如く布けり

 「堂」は仏像を(やす)んじ、「宇」は経論を置くか。宇は(りく)(とく)(めい)云く「屋は四に()るるなり」と。釈名(しゃくみょう)には「羽なり。鳥の羽翼(うよく)(おのずか)(おお)うが如し」と云云。
一、鶖子(しゅうし)(やから)
「鶖子」は即ちこれ舎利(しゃり)(ほつ)なり。その眼岩々(まなこがんがん)として彼の鳥に似たるゆえに。

鶴勒(かくろく)」は付法蔵第二十二祖なり。

鷲頭(じゅとう)(けい)(そく)」は倶にこれ霊山(りょうぜん)なり。(ごん)抄に云く「上に和漢の伝来を明かし、今天竺(てんじく)を明かす、故に三国流布の相なり」と云云。この義は不可なり。只流例(るれい)を挙げて以て本朝の智者大徳を顕すなり。又註の意は倶に禅家(ぜんけ)を指すに似たり。朝抄は「顕密の流類(るるい)」と云云。啓蒙の意は「天台・禅宗」と云云。

 今謂く、通じて諸宗の(せき)(とく)を挙ぐるなり。諸宗異ると雖も、(あに)教観二門を知るべけんや。上の句は観を明かし、下の句は教を明かすなり。下の文に「法師は諂曲(てんごく)にして」というは通じて諸宗を指す。これを思い見るべし。

                               つづく



by johsei1129 | 2015-03-29 19:34 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


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