一、叡山・南都等文。
「叡山」はこれ天台宗、故に亦天台山とも名づくるなり。人皇五十代桓武帝の延暦七年戊辰、根本一乗止観院建立。根本中堂の本尊は薬師なり。同じき十三年、天子の御願寺と為る。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜わるなり。註の二十一。
「南都」は奈良の七大寺なり。棟梁は東大寺・興福寺なり。故に注には但二箇寺と標するなり。四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月、奈良の都を長岡に遷す。同じき十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す。奈良は平安城の南なり、故に南都という。
東大寺は人王四十五代聖武帝、流沙の約に称い、良弁を請じて大仏の像を創らしむ。実に天平十五年十月なり云云。流沙の約とは釈書二十八・十二に出でたり。供養の事は太平記二十四の巻に出でたり。
興福寺は四十三代元明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤原氏の氏寺なり。
園城寺は初め教待和尚焉を建つ。百八十年の後天安六年十二月、智証、教待の付嘱を受けて焉に住す。天智・天武・地(持)統の三皇降誕の時、この井の水を汲みて浴湯と為す。故に御井寺と号す。智証、御井を改めて三井と為す。三皇浴井の事を取り、我この水を汲みて三部潅頂の閼伽と為し、慈氏三会の期に至る、故に三の字に改むるなり。
東寺は即ち鴻臚館。弘仁十四年、嵯峨天皇、空海に賜う。而して真言院と為す。草創は延暦十五年に在るのみ。
一、四海・一州等文。
総じてこれ日本国中なり。
一、仏経は星の如く羅なり文。
即ちこれ仏像と経巻なり。学者これを思え。
一、堂宇雲の如く布けり文。
「堂」は仏像を安んじ、「宇」は経論を置くか。宇は陸徳明云く「屋は四に垂るるなり」と。釈名には「羽なり。鳥の羽翼の自ら覆うが如し」と云云。
一、鶖子の族。
「鶖子」は即ちこれ舎利弗なり。その眼岩々として彼の鳥に似たるゆえに。
「鶴勒」は付法蔵第二十二祖なり。
「鷲頭・鶏足」は倶にこれ霊山なり。健抄に云く「上に和漢の伝来を明かし、今天竺を明かす、故に三国流布の相なり」と云云。この義は不可なり。只流例を挙げて以て本朝の智者大徳を顕すなり。又註の意は倶に禅家を指すに似たり。朝抄は「顕密の流類」と云云。啓蒙の意は「天台・禅宗」と云云。
今謂く、通じて諸宗の碩徳を挙ぐるなり。諸宗異ると雖も、豈教観二門を知るべけんや。上の句は観を明かし、下の句は教を明かすなり。下の文に「法師は諂曲にして」というは通じて諸宗を指す。これを思い見るべし。