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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 03月 29日

立正安国論愚記 十


 第三 正法を誹謗するの由の下


 七月二十九日

一、客(いろ)()して曰く。

既に上段に四経の文を引き(おわ)って、結して天下世上、諸仏・衆経に於て捨離の心を生ずという。故に客色を作して問難するなり。

礼記(らいき)二十四・三、哀公(あいこう)問に云く「哀公曰く、敢て問う、人道は誰をか大なりと為す。孔子、(しゅう)(ぜん)として色を作して(こた)えて曰く、君の此の(こと)に及べるや百姓の徳なり」と文。註には「色をば作すは色を変ずるなり」と云云。色を作して仏を(ののし)る、これに准じて解すべし。
一、後漢(ごかん)明帝(めいてい)文。

 前漢は高祖より(へい)(てい)に至る十三代、孺子(じゅし)新室(しんしつ)を加えて十四代なり。若し王莽(おうもう)を加うれば十五代、二百三十年なり。高祖九世の孫光武(こうぶ)と申すは平帝の子なり。深く深山に(かく)れ、二十八宿二十八将と変じ来りて王莽を(ほろぼ)す。光武(くらい)()く、即ちこれ後漢の第一なり。光武第四の子を顕宗(けんそう)(こう)(めい)皇帝と名づく、即ち今いう所の「後漢の明帝」なり。
一、金人(こんじん)の夢を悟って。
 これ永平二年正月(さく)(じつ)なり。或は三年といい、或は四年というなり。同じき五(みずのえ)(いぬ)王遵(おうじゅん)等十八人西域に使(つかい)し、同じき八年(きのと)(うし)洛陽(らくよう)(かえ)るなり。同じき十年(ひのと)()白馬(はくば)寺を立つ。同じき十五年正月朔日()(がく)の道士表して云く「仏法は虚偽(きょぎ)なり」と。周く十五日に経を焼く等なり。
一、白馬の教を得文。
 (ごん)抄の三義の中の初義は諸抄の如し。第二の義は(りん)二十・十三に出でたり。第三の義は(すで)本拠(ほんきょ)なし。況や荒神(こうじん)は本朝示現(じげん)の神にして三国伝来に非ざるをや。況や三宝を衛護するをや。故に三宝荒神という。何ぞ障碍(しょうげ)を成さんや。
一、上宮(じょうぐう)太子
 人皇三十二代(よう)(めい)天皇の御子、聖徳太子の御事なり。()(たつ)元年正明(さく)(じつ)、手に舎利(しゃり)(にぎ)り、身に光明を現じ、(うまや)の下に於て誕生す。故に(うまや)(どの)王子(おうじ)とも名づく。八人同時に(そう)する事を一時に聞きたまう、故に(やつ)(みみの)の王子とも名づく。また(みみ)(さとの)王子とも申すなり。用明愛敬(あいぎょう)して南宮の上殿に()せしむ。故に「上宮太子」と名づくるなり。これ本朝の大聖人なり。故に聖徳太子と申すなり。
一、守屋(もりや)の逆を(ちゅう)して
 四条金吾抄三十九・三十七を往いて見よ。或る抄に云く「守屋も権者(ごんじゃ)なり。上宮は救世(くぜ)観世音、守屋は将軍地蔵なり。(とも)誓願(せいがん)に依り日本国に生ずるなり。守屋最後の時、太子唱えて云く、我が昔の所願の如き、今(すで)に満足しぬと云云。守屋唱えて云く、一切衆生を()して(みな)仏道に入らしむと云云。権者なること疑なし。されば開目抄に云く「聖徳太子と守屋とは蓮華の花菓(けか)同時なるが如し」と云云。
一、寺塔の(かま)へを成す。
 推古(すいこ)天皇(みずの)(ととり)四天王寺を建つ。その余の寺塔畿内(きない)(あまね)し等云云。僧史略上に云く「寺とは釈名に云く、()()なり。事を治むる者、相嗣(あいつ)いで其の内に続くなり。(もと)是れ(つかさ)の名。西僧(はじめ)て来り()りに公司に(とど)まる。移して別居に入れども、其の本を忘れずして(かえ)って寺号を標す。僧寺の名(ここ)に始まるなり」と文。


                つづく
立正安国論愚記 目次


by johsei1129 | 2015-03-29 19:29 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
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