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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 03日

日蓮は少より今生のいのりなし、只仏にならんとをもふ計りなり、と説いた【世雄御書】

【[四条金吾殿御返事(世雄御書)】
■出筆時期:建治三年(西暦1277年)秋 五十六歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:建治三年六月九日、鎌倉桑ヶ谷で当時評判だった竜象房の説法の場で大聖人の直弟子日行と論争になり、日行は竜象房を完璧に破折する。その時四条金吾も参加していたが竜象房はこのことを根に持ち、極楽寺良観に訴える。そして半月後の六月二十五日、金吾の主君江間氏から下し文が届けられる。内容は1.桑ヶ谷で狼藉を働いた。2.主君が信仰している良観、竜象房を批判。3.主君の考えに従わない。4.今後法華信仰を止めるという起請文を書くこと、さもなければ所領を没収、家臣として追放するという厳しいものだった。金吾はその日のうちに事の顚末と江間氏からの下し文とを添え、起請文は絶対に書かないと記した文を急使を立てて大聖人に届けた。この書は翌々日には身延草庵の大聖人の元に届く。その時の返書が「頼基陳状」である。本書はその後不遇の生活に陥る金吾に対し「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり<中略>いかに所領を、をししとをぼすとも死しては他人の物、すでにさかへて年久し、すこしも惜む事なかれ」と励まし、法華経の信仰を貫けば必ず主に勝と諭されている。金吾は、大聖人の指導の通り主君に誠実に対応を続け、翌年一月には主君の御勘気も解け、以前を上回る所領を賜ることができた。
■ご真筆: 現存しておりません。
[四条金吾殿御返事(世雄御書) 本文]

御文(ふみ)あらあらうけ給わりて長き夜のあけ・とをき道をかへりたるがごとし、夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり、故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり、中にも天竺をば月氏という我国をば日本と申す一閻浮提・八万の国の中に大なる国は天竺・小なる国は日本なり、名のめでたきは印度第二・扶桑第一なり、仏法は月の国より始めて日の国にとどまるべし、月は西より出で東に向ひ日は東より西へ行く事天然のことはり、磁石と鉄(てつ)と雷(らい)と象華とのごとし、誰か此のことはりを・やぶらん。

 此の国に仏法わたりし由来をたづぬれば天神七代・地神五代すぎて人王の代となりて第一神武天皇・乃至第三十代欽明天皇と申せし王をはしき、位につかせ給いて三十二年治世し給いしに第十三年壬申(みずのえさる)十月十三日辛酉(かのととり)に此の国より西に百済国と申す州あり日本国の大王の御知行の国なり、其の国の大王・聖明王と申せし国王あり、年貢(みつぎ)を日本国にまいらせし・ついでに金銅の釈迦仏・並に一切経・法師・尼等をわたし・たりしかば天皇大に喜びて群臣に仰せて西蕃(せいばん)の仏を・あがめ奉るべしや・いなや、蘇我の大臣いなめ(稲目)の宿禰(すくね)と申せし人の云く西蕃の諸国みな此れを礼す・とよあきやまと(豊秋日本)あに独り背(そむかん)やと申す、物部の大むらじをこし(尾輿)中臣のかまこ(鎌子)等奏して曰く我が国家・天下に君たる人は・つねに天地しやそく(社稷)百八十神(ももやそのかみ)を春夏秋冬に・さいはい(祭拝)するを事とす、しかるを今更あらためて西蕃の神を拝せばおそらくは我が国の神いかりをなさんと云云、爾の時に天皇わかちがたくして勅宣す、此の事を只心みに蘇我の大臣(おとど)につけて一人にあがめさすべし、他人用いる事なかれ、蘇我の大臣うけ取りて大に悦び給いて此の釈迦仏を我が居住のおはた(小墾田)と申すところに入(いれ)まいらせて安置せり、物部(もののべ)の大連(おおむらじ)・不思議なりとて・いきどをりし程に日本国に大疫病おこりて死せる者・大半に及ぶ・すでに国民尽きぬべかりしかば、物部の大連・隙(ひま)を得て此の仏を失うべきよし申せしかば勅宣なる、早く他国の仏法を棄つべし云云、物部の大連・御使として仏をば取りて炭をもつてをこし・つち(槌)をもつて打ちくだき・仏殿をば火をかけて・やきはらひ僧尼をば・むち(笞)をくわう、其の時天に雲なくして大風ふき・雨ふり、内裏天火にやけあがつて大王並に物部の大連・蘇我の臣・三人共に疫病あり・きるがごとく・やくがごとし、大連は終に寿(いのち)絶えぬ・蘇我と王とは・からくして蘇生す、而れども仏法を用ゆることなくして十九年すぎぬ。

 第三十一代の敏達天皇は欽明第二の太子・治十四年なり左右の両臣は一(ひとり)は物部の大連が子にて弓削(ゆげ)の守屋・父のあとをついで大連に任ず蘇我の宿禰の子は蘇我の馬子と云云、此の王の御代に聖徳太子生(うまれ)給へり・用明の御子・敏達のをい(甥)なり御年二歳の二月・東に向つて無名の指(ゆび)を開いて南無仏と唱へ給へば御舎利・掌(みて)にあり、是れ日本国の釈迦念仏の始めなり、太子八歳なりしに八歳の太子云く「西国の聖人・釈迦牟尼仏の遺像末世に之を尊めば則ち禍(わざわい)を銷(け)し・福を蒙る・之を蔑れば則ち災を招き寿を縮む」等云云、大連物部の弓削・宿禰の守屋等いかりて云く「蘇我は勅宣を背きて他国の神を礼す」等云云、又疫病未だ息まず人民すでにたえぬべし、弓削守屋又此れを間奏す云云、勅宣に云く「蘇我の馬子仏法を興行す宜く仏法を卻(しり)ぞくべし」等云云、此に守屋中臣の臣勝海(おみ・かつみ)大連等両臣と、寺に向つて堂塔を切(きり)たうし仏像を・やきやぶり、寺には火をはなち僧尼の袈裟をはぎ笞をもつてせ(責)む・又天皇並に守屋馬子等疫病す、其の言に云く「焼くがごとし・きるがごとし」又瘡(かさ)をこる・はうそう(疱瘡)といふ、馬子歎いて云く「尚三宝を仰がん」と・勅宣に云く「汝独り行え但し余人を断てよ」等云云、馬子欣悦し精舎を造りて三宝を崇(あが)めぬ。

 天皇は終八月十五日・崩御云云、此の年は太子は十四なり第三十二代・用明天皇の治二年・欽明の太子・聖徳太子の父なり、治二年丁未(ひのとひつじ)四月に天皇疫病あり、皇(みかど)勅して云く「三宝に帰せんと欲す」云云、蘇我の大臣詔に随う可しとて遂に法師を引いて内裏に入る豊国(とよくに)の法師是なり、物部の守屋・大連等・大に瞋(いか)り横に睨んで云く天皇を厭魅(えんみ)すと終に皇(みかど)隠れさせ給う・五月に物部の守屋が一族・渋河(しぶかわ)の家にひきこもり多勢をあつめぬ、太子と馬子と押し寄せてたたかう、五月・六月・七月の間に四箇度・合戦す、三度は太子まけ給ふ第四度めに太子・願を立てて云く「釈迦如来の御舎利の塔を立て四天王寺を建立せん」と・馬子願て云く「百済より渡す所の釈迦仏を寺を立てて崇重すべし」と云云、弓削なの(名乗)つて云く「此れは我が放つ矢にはあらず我が先祖崇重の府都(ふと)の大明神の放ち給ふ矢なり」と、此の矢はるかに飛んで太子の鎧に中(あた)る、太子なのる「此は我が放つ矢にはあらず四天王の放ち給う矢なり」とて迹見(とみ)の赤梼(いちい)と申す舎人(とねり)に・いさせ給へば矢はるかに飛んで守屋が胸に中(あた)りぬ、はだのかはかつ(秦川勝)をちあひて頚をとる、此の合戦は用明崩御・崇峻未だ位に即き給わざる其の中間なり。

 第三十三・崇峻天皇・位につき給う、太子は四天王寺を建立す此れ釈迦如来の御舎利なり、馬子は元興(がんご)寺と申す寺を建立して百済国よりわたりて候いし教主釈尊を崇重す、今の代に世間第一の不思議は善光寺の阿弥陀如来という誑惑これなり、又釈迦仏にあだを・なせしゆへに三代の天皇・並に物部(もののべ)の一族むなしく・なりしなり又太子・教主釈尊の像・一体つくらせ給いて元興寺に居せしむ今の橘寺(たちばなでら)の御本尊これなり、此れこそ日本国に釈迦仏つくりしはじめなれ。

漢土には後漢の第二の明帝・永平七年に金神の夢を見て博士蔡愔(さいいん)・王遵等の十八人を月氏につかはして仏法を尋ねさせ給いしかば・中天竺の聖人摩騰迦(まとぎゃ)・竺法蘭と申せし二人の聖人を同永平十年丁卯(ひのとう)の歳迎へ取りて崇重ありしかば、漢土にて本(もと)より皇の御いのりせし儒家・道家の人人数千人此の事をそねみて・うつたへしかば、同永平十四年正月十五日に召し合せられしかば漢土の道士悦びをなして唐土の神・百霊を本尊としてありき、二人の聖人は仏の御舎利と釈迦仏の画像と五部の経を本尊と恃怙(たの)み給う、道士は本より王の前にして習いたりし仙経・三墳・五典・二聖・三王の書を薪に・つみこめて・やきしかば古はやけざりしが・はい(灰)となりぬ、先(さき)には水にうかびしが水に沈みぬ、鬼神を呼(よび)しも来らず、あまりのはづかしさにちょ褚善信(ちょぜんしん)・費叔才なんど申せし道士等はおもい死にししぬ、二人の聖人の説法ありしかば舎利は天に登りて光を放ちて日輪みゆる事なし、画像の釈迦仏は眉間(みけん)より光を放ち給う、呂慧通(りょけいつう)等の六百余人の道士は帰伏して出家す、三十日が間に十寺立ちぬ、されば釈迦仏は賞罰ただしき仏なり、上(かみ)に挙ぐる三代の帝(みかど)・並に二人の臣下・釈迦如来の敵とならせ給いて今生は空く後生は悪道に堕ちぬ。

 今の代も又これに・かはるべからず、漢土の道士・信費等・日本の守屋等は漢土・日本の大小の神祇を信用して教主釈尊の御敵となりしかば神は仏に随い奉り行者は皆ほろびぬ、今の代も此くの如く上に挙ぐる所の百済国の仏は教主釈尊なり、名を阿弥陀仏と云つて日本国をたぼらかして釈尊を他仏にかへたり、神と仏と仏と仏との差別こそあれども釈尊をすつる心はただ一なり、されば今の代の滅せん事又疑いなかるべし、是は未だ申さざる法門なり秘す可し秘す可し、又吾一門の人人の中にも信心も・うすく日蓮が申す事を背き給はば蘇我が如くなるべし、其の故は仏法日本に立ちし事は蘇我の宿禰(すくね)と馬子との父子二人の故ぞかし、釈迦如来の出世の時の梵王・帝釈の如くにてこそあらまじなれども、物部と守屋とを失いし故に只一門になりて位もあがり国をも知行し一門も繁昌せし故に高挙(たかあがり)をなして崇峻天皇を失いたてまつり王子を多く殺し結句は太子の御子二十三人を馬子がまご(孫)入鹿の臣下失ひまいらせし故に、皇極天皇は中臣の鎌子が計いとして教主釈尊を造り奉りてあながちに申せしかば入鹿の臣(おみ)並に父等の一族一時に滅びぬ。

 此をもつて御推察あるべし、又我が此の一門の中にも申しとをらせ給はざらん人人は・かへりて失あるべし、日蓮をうらみさせ給うな少輔房・能登房等を御覧あるべし、かまへて・かまへて此の間はよ(余)の事なりとも御起請かかせ給うべからず・火は・をびただしき様なれども暫くあればしめ(滅)る・水はのろ(鈍)き様なれども左右なく失いがたし、御辺は腹あしき人なれば火の燃るがごとし一定・人にすかされなん、又主のうらうら(遅遅)と言(ことば)和かにすか(賺)させ給うならば火に水をかけたる様に御わたりありぬと覚ゆ、きたはぬ・かねは・さかんなる火に入るればとくと(蕩)け候、冰をゆ(湯)に入るがごとし、剣(つるぎ)なんどは大火に入るれども暫くはとけず是きたへる故なり、まへ(前)にかう申すはきたうなるべし、仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なりいかに・いと(愛)をし・はなれじと思うめ(妻)なれども死しぬれば・かひなし・いかに所領を・をししと・をぼすとも死しては他人の物、すでに・さかへて年久し・すこしも惜む事なかれ、又さきざき申すがごとく・さきざきよりも百千万億倍・御用心あるべし。

 日蓮は少(わかき)より今生のいのりなし只仏にならんとをもふ計りなり、されども殿の御事をば・ひまなく法華経・釈迦仏・日天に申すなり其の故は法華経の命(いのち)を継ぐ人なればと思うなり。

 穴賢・穴賢あらかるべからず・吾が家に・あらずんば人に寄合(よりあう)事なかれ、又夜廻(よまわり)の殿原は・ひとりも・たのもしき事はなけれども・法華経の故に屋敷を取られたる人人なり、常はむつ(昵)ばせ給うべし、又夜の用心の為と申しかたがた・殿の守りとなるべし、吾方の人人をば少少の事をば・みずきかずあるべし・さて又法門なんどを聞(きか)ばやと仰せ候はんに悦んで見(まみ)え給うべからず、いかんが候はんずらん、御弟子共(ども)に申してこそ見候はめと・やわやわ(和和)とあるべし・いかにも・うれしさに・いろに顕われなんと覚え聞かんと思う心だにも付かせ給うならば火をつけて・もすがごとく天より雨の下(ふ)るがごとく万事をすてられんずるなり。
 又今度いかなる便(たより)も出来せば・したため候し陳状を上げらるべし、大事の文(ふみ)なれば・ひとさはぎ(一騒)は・かならずあるべし、穴賢穴賢。

四条金吾殿                       日 蓮 花押






by johsei1129 | 2019-11-03 22:08 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)
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