【こう入道殿御返事】
■出筆時期:文永12年(1275)4月12日 五十四歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は佐渡で大聖人に帰依し、阿仏房夫妻と共に、夜中に人目を忍んで食べ物などを供養し、大聖人を外護した「こう(国府)入道夫妻」に宛てたご消息文です。国府入道は大聖人が佐渡流罪をご赦免になり身延に草庵を構えると、ご供養の品々を持って大聖人に見参している。本書はその志を称えるとともに、国府入道を身延まで送り出した妻の尼御前をも称えておられる。
さらに子息のない国府入道夫妻に対し、もし蒙古が攻め込んだ場合は、ここ身延に来てくださいとまで伝えるとともに「いづくも定めなし。仏になる事こそつゐのすみかにては候へと・をもひ切らせ給ふべし」と、法華経の信仰を貫き成仏する事こそが肝心であると諭されておられる。
■ご真筆: 愛知県・妙勝寺 所蔵。

[こう入道殿御返事 本文]
あまのり(海紫菜)のかみぶくろ(紙袋)二、わかめ(裙帯菜)十でう(帖)、こも(小藻)のかみぶくろ一、たこ(霊芝)ひとかしら(一頭)。
人の御心は定めなきものなれば・うつる心さだめなし。さどの国に候ひし時、御信用ありしだにもふしぎにをぼへ候ひしに、これまで入道殿をつかわされし御心ざし、又国もへだたり・年月もかさなり候へば、たゆむ御心もやと・うたがい候に・いよいよいろ(色)をあらわし・こう(功)をつませ給ふ事、但一生二生の事にはあらざるか。
此の法華経は信じがたければ仏・人の子となり、父母となり、女(め)となりなんどしてこそ信ぜさせ給ふなれ。しかるに御子もをはせず・但をや(親)ばかりなり。其中衆生・悉是吾子(ごちゅうしゅじょう・しつぜごし)の経文のごとくならば、教主釈尊は入道殿・尼御前の慈父ぞかし。
日蓮は又御子にてあるべかりけるが、しばらく日本国の人をたすけんと中国(なかつくに)に候か。宿善たうと(尊)く候。
又蒙古国の日本にみだれ入る時はこれへ御わたりあるべし。又子息なき人なれば御とし(齢)のすへには・これ(此処)へとをぼしめすべし。
いづくも定めなし。仏になる事こそ・つゐ(終)のすみか(栖)にては候へと・をもひ切らせ給ふべし。恐々謹言。
卯月十二日 日 蓮 花押
こう(国府)入道殿御返事