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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 10月 16日

経に云く「如我等無異」、法華経を心得る者は釈尊と斉等なり、と説いた【日妙聖人御書】

【日妙聖人御書】
■出筆時期:文永九年(西暦1272年)五月二十五日 五十一歳 御作。
■出筆場所:佐渡・一の谷、一谷入道の屋敷にて。
■出筆の経緯:本書は、寡婦で鎌倉の女性信徒の日妙が、幼い乙御前をつれて佐渡流罪中の大聖人を訪ねられた強い求道心を称えて与えられた書である。大聖人が佐渡に流罪されることにより、鎌倉の信徒に退転者が続出する中、大聖人への帰依を貫き通した一女性信徒の日妙に、大聖人は本書で聖人の号を送られている。また本書で、妙法華経方便品第二の「如我等無異」の偈を引き、法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと説き、法華経への一層の信仰を励まされている。
■ご真筆: 静岡・本成寺他、五箇所に断簡所蔵。
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[日妙聖人御書 本文]

 過去に楽法梵志(ぎょうぼうぼんじ)と申す者ありき。十二年の間・多くの国をめぐりて如来の教法を求む、時に総(すべ)て仏法僧の三宝一つもなし、此の梵志の意は渇して水をもとめ飢えて食をもとむるがごとく仏法を尋ね給いき、時に婆羅門(ばらもん)あり求めて云く我れ聖教を一偈(げ)持てり若し実に仏法を願はば当(まさ)にあたふべし、梵志答えて云くしかなり。婆羅門の云く実に志あらば皮をは(剥)いで紙とし・骨をくだ(砕)いて筆とし・髄をくだいて墨とし・血をいだして水として書かんと云はば仏の偈(げ)を説かん、時に此の梵志(ぼんじ)悦びをなして彼が申すごとくして皮をはいでほ(乾)して紙とし乃至一言(ひとこと)をもたがへず、時に婆羅門(ばらもん)・忽然(こつねん)として失(うせ)ぬ、此の梵志・天にあふぎ・地にふす、仏陀此れを感じて下方より湧出(わきいで)て・説て云く「如法は応(まさ)に修行すべし非法は行ずべからず今世若(も)しは後世・法を行ずる者は安穏なり」等云云。此の梵志・須臾(しゅゆ)に仏になる・此れは二十字なり、昔釈迦菩薩・転輪王たりし時き「夫(それ)生れて輙(すなわ)ち死す、此の滅を楽と為す」の八字を尊び給う故に身をかへて千燈にとも(燃)して此の八字を供養し給い人をすすめて石壁・要路に・かきつけて見る人をして菩提心をおこさしむ。此の光明・忉利(とうり)天に至る天の帝釈(たいしゃく)並びに諸天の燈(ともしび)となり給いき。

 昔釈迦菩薩・仏法を求め給いき。癩(らい)人あり、此の人にむかつて我れ正法を持てり、其の字二十なり我が癩病をさす(擦)りいだ(懐)きねぶ(舐)り日に両三斤の肉をあたへば説くべしと云う。彼が申すごとくして二十字を得て仏になり給う。所謂(いわゆる)「如来は涅槃(ねはん)を証し永く生死を断じ給う。若し至心に聴くこと有らば当に無量の楽を得べし」等云云。

 昔雪山(せっせん)童子と申す人ありき。雪山と申す山にして外道の法を通達せしかども・いまだ仏法をきかず、時に大鬼神ありき、説いて云く「諸行無常、是生滅法(しょぎょうむじょう・ぜしょうめっぽう)」等云云、只(ただ)八字計(ばかり)りを説いて後(あと)をとかず、時に雪山童子・此の八字を得て悦きはまりなけれども半(なかば)なる如意珠を得たるがごとく華(はな)さき菓(このみ)ならざるに・にたり、残の八字を・きかんと申す、時に大鬼神の云く我れ数日が間・飢えて正念乱るゆへに後の八字を・ときがたし食をあたへよと云う。童子問うて云く、何をか食とする、鬼答えて云く我は人のあたたかなる血肉なり、我れ飛行自在にして須臾(しゅゆ)の間に四天下を回つて尋ぬれどもあたた(温)かなる血肉得がたし、人をば天守り給う故に失(とが)なければ殺害する事かたし等云云、童子の云く我が身を布施として彼の八字を習い伝えんと云云、鬼神の云く智慧甚だ賢し、我をや・すか(賺)さんずらん、童子答えて云く瓦礫(がりゃく)に金銀をかへんに是をかえざるべしや、我れ徒に此の山にして・死しなば鴟梟虎狼(しきょうころう)に食(くら)はれて一分の功徳なかるべし。

 後の八字にかえなば糞(ふん)を飯(はん)にかふるがごとし、鬼の云く我いまだ信ぜず、童子の云く証人あり過去の仏も・たて給いし大梵天王・釈提桓因(しゃくだいかんにん)・日月・四天も証人にたち給うべし、此の鬼神後(あと)の偈(げ)をとかんと申す、童子身にきたる鹿の皮を・ぬいで座にしき踞跪(こき)合掌して此の座につき給へと請す、大鬼神・此の座について説て云く「生滅滅已(しょうめつめっち)・寂滅為楽(じゃくめついらく)」等云云、此の偈を習ひ学して若しは木・若しは石等に書き付けて身を大鬼神の口になげいれ給う。

 彼の童子は今の釈尊・彼の鬼神は今の帝釈(たいしゃく)なり。
薬王菩薩は・法華経の御前に臂(ひじ)を七万二千歳が間とも(燃)し給い。不軽菩薩は多年が間・二十四字の故に無量無辺の四衆に罵詈(めり)・毀辱(きにく)・杖木(じょうもく)・瓦石(がしゃく)・而打擲之(にだちょうし)せられ給いき。所謂二十四字と申すは「我深く汝等を敬う敢(あえ)て軽慢せず、所以(ゆえん)は何(いか)ん汝等皆菩薩の道を行じて当に作仏することを得べし」等云云。かの不軽菩薩は今の教主釈尊なり。昔の須頭檀王(すずだんのう)は妙法蓮華経の五字の為に千歳が間・阿私仙人にせめつかはれ身を床となさせて給いて今の釈尊となり給う。

 然るに妙法蓮華経は八巻なり、八巻を読めば十六巻を読むなるべし。釈迦・多宝の二仏の経なる故へ、十六巻は無量無辺の巻軸なり。十方の諸仏の証明ある故に一字は二字なり、釈迦・多宝の二仏の字なる故へ・一字は無量の字なり、十方の諸仏の証明の御経なる故に。譬えば如意宝珠の玉は一珠なれども二珠乃至無量珠の財(たから)をふらすこと・これをなじ。法華経の文字は一字は一の宝・無量の字は無量の宝珠なり。

 妙の一字には二つの舌まします、釈迦・多宝の御舌なり。此の二仏の御舌は八葉の蓮華なり、此の重(かさ)なるこの蓮華の上に宝珠あり妙の一字なり。
 此妙の珠は昔釈迦如来の檀波羅蜜(だんはらみつ)と申して身をうえたる虎にか(飼)ひし功徳・鳩にか(貿)ひし功徳、尸羅(しら)波羅蜜と申して須陀摩(しゅだま)王として・そらこと(虚言)せざりし功徳等、忍辱(にんにく)仙人として・歌梨王(かりおう)に身をまかせし功徳、能施(のうせ)太子・尚闍梨(じょうじゃり)仙人等の六度の功徳を妙の一字にをさめ給いて末代悪世の我等衆生に一善も修せざれども六度万行を満足する功徳をあたへ給う。今此三界(こんしさんがい)・皆是我有(かいぜがう)・其中衆生(ごちゅうしゅじょう)・悉是吾子(しつぜごし)これなり、我等具縛(ぐばく)の凡夫忽(たちまち)に教主釈尊と功徳ひとし彼の功徳を全体うけとる故なり。

 経に云く「如我等無異(にょがとうむい)」等云云、法華経を心得る者は釈尊と斉等(さいとう)なりと申す文なり。譬えば父母和合して子をうむ、子の身は全体父母の身なり誰か是を諍(あらそ)うべき。
牛王(ごおう)の子は牛王なりいまだ師子王とならず、師子王の子は師子王となる・いまだ人王・天王等とならず。
 今、法華経の行者は其中衆生・悉是吾子と申して、教主釈尊の御子なり。教主釈尊のごとく法王とならん事、難かるべからず。但し不孝の者は父母の跡をつがず尭王(ぎょうおう)には丹朱(たんしゅ)と云う太子あり、舜王(しゅんおう)には商均(しょうきん)と申す王子あり、二人共に不孝の者なれば父の王にすてられて現身に民となる。重華(ちょうか)と禹(う)とは共に民の子なり、孝養の心ふかかりしかば尭舜の二王・召して位をゆづり給いき、民の身・忽(たちま)ち玉体にならせ給いき。民の現身に王となると凡夫の忽に仏となると同じ事なるべし。一念三千の肝心と申すはこれなり。なをいか(如何)にとしてか此功徳をばうべきぞ、楽法梵志・雪山童子等のごとく皮をはぐべきか・身をなぐべきか臂(ひじ)をやくべきか等云云。

 章安大師云く「取捨宜(よろ)しきを得て一向にすべからず」等これなり。正法を修して仏になる行は時によるべし。日本国に紙なくば皮をはぐべし。日本国に法華経なくて知れる鬼神一人出来せば身をなぐべし。日本国に油なくば臂をも・ともすべし、あつき紙・国に充満せり皮を・はいで・なにかせん、然るに玄奘(げんじょう)は西天に法を求めて十七年・十万里にいたれり、伝教御入唐但(ただ)二年なり波涛(はとう)三千里をへだてたり。

 此等は男子なり・上古なり・賢人なり・聖人なり、いまだきかず女人の仏法をもとめて千里の路をわけし事を。竜女が即身成仏も摩訶波闍波提比丘尼(まかはじゃはだいびくに)の記別(きべつ)にあづかりしも、しらず権化にや・ありけん、又在世の事なり。男子・女人其の性本より別れたり、火はあたた(暖)かに・水はつめ(冷)たし海人(あま)は魚をとるにたくみなり、山人(かりうど)は鹿をとるに・かしこし。女人は物をそね(嫉)むに・かしこしとこそ経文には・あかされて候へ。いまだきかず仏法に・かしこしとは、女人の心を清風に譬えたり風はつなぐとも・とりがたきは女人の心なり。女人の心をば水にゑがくに譬えたり、水面には文字とどまらざるゆへなり、女人をば誑人(おうじん)にたとへたり、或時は実なり或時は虚なり、女人をば河に譬えたり、一切まがられる・ゆへなり。

 而るに法華経は、正直捨方便(しょうじきしゃほうべん)等・皆是真実(かいぜしんじつ)等・質直意柔軟(しちじきいにゅうなん)等・柔和質直者(にゅうわしちじきしゃ)等と申して、正直なる事・弓の絃のはれるがごとく、墨のなは(縄)を・うつがごとくなる者の信じまいらする御経なり。糞(ふん)を栴檀(せんだん)と申すとも栴檀の香なし、妄語の者を不妄語と申すとも不妄語にはあらず、一切経は皆仏の金口の説・不妄語の御言なり、然れども法華経に対し・まいらすれば妄語のごとし・綺語(きご)のごとし・悪口のごとし・両舌のごとし、此の御経こそ実語の中の実語にて候へ、実語の御経をば・正直の者心得(こころえ)候なり。今実語の女人にて・おはすか、当(まさ)に知るべし須弥山(しゅみせん)をいただ(戴)きて大海をわたる人をば見るとも、此の女人をば見るべからず。砂をむ(蒸)して飯となす人をば見るとも此の女人をば見るべからず。当に知るべし釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏・上行・無辺行等の大菩薩・大梵天王・帝釈(たいしゃく)・四王等・此女人をば影の身に・そうがごとく・まほり給うらん。日本第一の法華経の行者の女人なり、故に名を一つつけたてまつりて不軽(ふきょう)菩薩の義になぞらへん・日妙聖人等云云。

 相州鎌倉より北国佐渡の国・其の中間・一千余里に及べり。山海はるかに・へだて山は峨峨(がが)・海は涛涛(とうとう)・風雨・時にしたがふ事なし。山賊・海賊・充満せり、宿宿と(泊)まり・とまり・民の心・虎のごとし・犬のごとし、現身に三悪道の苦をふ(経)るか。其の上当世は世乱れ去年より謀叛の者・国に充満し今年二月十一日合戦、其れより今五月のすゑ・いまだ世間安穏(あんのん)ならず、而れども一(ひとり)の幼子(おさなご)あり・あづ(預)くべき父も・たのもしからず、離別すでに久し。
 かた・がた筆も及ばず心弁(わきま)へがたければとどめ畢(おわ)んぬ。

文永九年太歳壬申五月二十五日  日 蓮 花押
日妙聖人




by johsei1129 | 2019-10-16 21:17 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
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