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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 01日

「恩を棄て無為に入るは真実に恩を報ずる者なりと仏定め給いぬ」と説いた【下山御消息】五

[下山御消息 本文] その五

 自讃には似たれども本文に任せて申す、余は日本国の人人には上は天子より下は万民にいたるまで三の故あり。一には父母なり、二には師匠なり、三には主君の御使ひなり。経に云く「即ち如来の使ひなり」と。又云く「眼目なり」と。又云く「日月なり」と。章安大師の云く「彼が為に悪を除くは則ち是れ彼が親なり」等云云。而るに謗法一闡提・国敵の法師原が讒言を用いて其の義を弁えず、左右なく大事たる政道を曲げらるるは・わざと・わざはひを・まねかるるか、墓無し・墓無し。然るに事しづまりぬれば科なき事は恥づかしきかの故にほどなく召し返されしかども、故最明寺の入道殿も又早く・かくれさせ給いぬ。
 当御時に成りて或は身に疵(きず)をかふり・或は弟子を殺され・或は所所を追(おわ)れ・或はやどをせめしかば、一日片時も地上に栖むべき便りなし。是に付けても仏は「一切世間・怨多くして信じ難し」と説き置き給う。諸の菩薩は「我不愛身命・但惜(たんじゃく)無上道」と誓へり。「加刀杖瓦石・数数見擯出」の文に任せて流罪せられ、刀のさきにかかりなば・法華経一部よみまいらせたるにこそとおもひきりて、わざと不軽菩薩の如く・覚徳比丘の様に、竜樹菩薩・提婆菩薩・仏陀密多・師子尊者の如く、弥(いよいよ)強盛に申しはる。

 今度・法華経の大怨敵を見て経文の如く父母・師匠・朝敵・宿世の敵の如く・散散に責むるならば、定めて万人もいかり、国主も讒言を収(いれ)て流罪し、頚にも及ばんずらん。其の時・仏前にして誓状せし梵釈・日月・四天の願をも・はたさせたてまつり、法華経の行者をあだまんものを須臾ものがさじと起請せしを身にあてて心みん。釈尊・多宝・十方分身の諸仏の・或は共に宿し、或は衣を覆(おお)ひ、或は守護せんとねんごろに説かせ給いしをも・実(まこと)か虚言(そらごと)かと知つて信心をも増長せんと退転なくはげみし程に、案にたがはず去る文永八年九月十二日に、都て一分の科もなくして佐土の国へ流罪せらる。外には遠流と聞こえしかども内には頚を切ると定めぬ。余又兼て此の事を推せし故に弟子に向つて云く、我が願既に遂(とげ)ぬ、悦び身に余れり、人身は受けがたくして破れやすし、過去遠遠劫より由なき事には失いしかども、法華経のために命をすてたる事はなし。我・頚を刎(はね)られて師子尊者が絶えたる跡を継ぎ、天台伝教の功にも超へ、付法蔵の二十五人に一を加えて二十六人となり、不軽菩薩の行にも越えて釈迦・多宝・十方の諸仏にいかがせんと・なげかせまいらせんと思いし故に、言(ことば)をも・おしまず、已前にありし事・後に有るべき事の様を平の金吾に申し含めぬ。此の語しげければ委細にはかかず。

 抑(そもそ)も日本国の主となりて万事を心に任せ給へり。何事も両方を召し合せてこそ勝負を決し御成敗をなす人の・いかなれば日蓮一人に限つて諸僧等に召し合はせずして大科に行わるらん。是れ偏にただ事にあらず。たとひ日蓮は大科の者なりとも国は安穏なるべからず。御式目を見るに五十一箇条を立てて終りに起請文を書き載せたり。第一・第二は神事・仏事乃至・五十一等云云。神事仏事の肝要たる法華経を手ににぎれる者を・讒人(ざんにん)等に召し合はせられずして彼等が申すままに頚に及ぶ。然れば他事の中にも此の起請文に相違する政道は有るらめども・此れは第一の大事なり。日蓮がにくさに国をかへ・身を失はんとせらるるか。魯の哀公が忘事(わするる)の第一なる事を記せらるるには「移宅(わたまし)に妻をわする」と云云。孔子の云く「身をわするる者あり、国主と成りて政道を曲ぐる是なり」云云。将(はた)又国主は此の事を委細には知らせ給はざるか。いかに知らせ給はずとのべらるるとも、法華経の大怨敵と成り給いぬる重科は脱るべしや。多宝・十方の諸仏の御前にして教主釈尊の申す口として末代当世の事を説かせ給いしかば、諸の菩薩記して云く「悪鬼其の身に入つて我を罵詈毀辱(めり・きにく)せん。乃至数数擯出(しばしば・ひんずい)せられん」等云云。又四仏釈尊の所説の最勝王経に云く「悪人を愛敬し・善人を治罰するに由るが故に乃至・他方の怨賊来つて国人喪乱に遭わん」等云云。

 たとい日蓮をば軽賤(きょうせん)せさせ給うとも、教主釈尊の金言・多宝・十方の諸仏の証明は空(むなし)かるべからず。一切の真言師・禅宗・念仏者等の謗法の悪比丘をば前より御帰依ありしかども、其の大科を知らせ給はねば少し天も許し・善神もすてざりけるにや。而るを日蓮が出現して一切の人を恐れず、身命を捨てて指し申さば、賢なる国主ならば子細を聞き給うべきに、聞きもせず用いられざるだにも不思議なるに、剰へ頚に及ばむとせし事は存外の次第なり。
 然れば大悪人を用いる大科・正法の大善人を耻辱(ちじょく)する大罪、二悪・鼻を並べて此の国に出現せり。譬(たとえ)ば修羅を恭敬(くぎょう)し、日天を射奉るが如し。故に前代未聞の大事・此の国に起るなり。是又先例なきにあらず。夏の桀王は竜蓬が頭を刎ね、殷の紂王は比干が胸をさき、二世王は李斯(りし)を殺し、優陀延(うだえん)王は賓頭盧(びんずる)尊者を蔑如し、檀弥羅(だんみら)王は師子尊者の頚をきる。武王は慧遠法師と諍論し、憲宗王は白居易を遠流し、徽宗皇帝は法道三蔵の面に火印(かなやき)をさす。此等は皆諌暁を用いざるのみならず、還つて怨を成せし人人、現世には国を亡ぼし・身を失ひ、後生には悪道に堕つ。是れ又人をあなづり讒言を納れて理を尽さざりし故なり。

 而るに去る文永十一年二月に佐土の国より召し返されて、同四月の八日に平金吾に対面して有りし時、理不尽の御勘気の由・委細に申し含めぬ。又恨むらくは此の国すでに他国に破れん事のあさましさよと歎き申せしかば、金吾が云く、何(いつ)の比(ころ)か大蒙古は寄せ候べきと問いしかば、経文には分明に年月を指したる事はなけれども、天の御気色を拝見し奉るに、以ての外に此の国を睨(にら)みさせ給うか、今年は一定(いちじょう)寄せぬと覚ふ。若し寄するならば一人も面を向う者あるべからず。此れ又天の責めなり。日蓮をば・わどのばら(和殿原)が用いぬ者なれば力及ばず。穴賢(あなかしこ)穴賢。真言師等に調伏行わせ給うべからず。若し行わするほどならいよいよ悪(あし)かるべき由・申し付けてさて帰りてありしに、上下共に先の如く用いざりげに有る上、本より存知せり、国恩を報ぜんがために三度までは諌暁すべし、用いずば山林に身を隠さんとおもひしなり。又上古の本文にも三度のいさめ用いずば去れといふ本文にまかせて且(しばら)く山中に罷(まか)り入りぬ。其の上は国主の用い給はざらんに・其れ已下に法門申して何かせん。申したりとも国もたすかるまじ、人も又仏になるべしともおぼへず。

 又念仏無間地獄・阿弥陀経を読むべからずと申す事も私の言にはあらず。夫れ弥陀念仏と申すは源(も)と釈迦如来の五十余年の説法の内、前四十余年の内の阿弥陀経等の三部経より出来せり。然れども如来の金言なれば定めて真実にてこそ・あるらめと信ずる処に、後八年の法華経の序分たる無量義経に仏・法華経を説かせ給はんために、先づ四十余年の経経・並びに年紀等を具(つぶさ)に数へあげて「未だ顕真を顕わさず乃至終に無上菩提を成ずることを得ず」と若干の経経並びに法門を唯一言に打ち消し給う事、譬えば大水の小火をけし、大風の衆(もろもろ)の草木の露を落すが如し。

 然後(しこうして・のち)に正宗の法華経の第一巻に至つて「世尊の法は久しくして後・要(かなら)ず当に真実を説きたもうべし」又云く「正直に方便を捨てゝ但だ無上道を説く」と説き給う。譬へば闇夜に大月輪の出現し、大塔立てゝ後・足代(あししろ)を切り捨つるが如し。
 然して後・実義を定めて云く「今此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり。而も今此の処は諸の患難(げんなん)多し。唯我一人のみ能く救護(くご)を為す。復教詔すと雖も・而も信受せず。乃至経を読誦(どくじゅ)し・書き・持つこと有らん者を見て・軽賤憎嫉(きょうせん・ぞうしつ)して而も結恨を懐(いだ)かん。其の人命終して阿鼻獄に入らん」等云云。
 経文の次第・普通の性相の法には似ず。常には五逆・七逆の罪人こそ阿鼻地獄とは定めて候に、此れはさにては候はず、在世滅後の一切衆生・阿弥陀経等の四十余年の経経を堅く執(しゅう)して法華経へうつらざらんと、たとひ法華経へ入るとも本執を捨てずして彼彼の経経を法華経に並べて修行せん人と、又自執の経経を法華経に勝れたりといはん人と、法華経を法の如く修行すとも法華経の行者を恥辱(ちじょく)せん者と、此れ等の諸人を指しつめて「其の人命終して阿鼻獄に入らん」と定めさせ給いしなり。

 此の事はただ釈迦一仏の仰(おおせ)なりとも、外道にあらずば疑うべきにてはあらねども、已今当の諸経の説に色をかへて重き事をあらはさんがために宝浄世界の多宝如来は自(みずから)はるばる来たり給いて証人とならせ給う。釈迦如来の先判たる大日経・阿弥陀経・念仏等を堅く執して後の法華経へ入らざらむ人人は、入阿鼻獄は一定(いちじょう)なりと証明し、又阿弥陀仏等の十方の諸仏は各各の国国を捨てて霊山・虚空会(こくうえ)に詣で給い、宝樹下に坐して広長舌を出だし・大梵天に付け給うこと・無量無辺の虹の虚空に立ちたらんが如し。

 心は四十余年の中の観経・阿弥陀経・悲華経等に、法蔵比丘の諸菩薩・四十八願等を発(おこ)して凡夫を九品の浄土へ来迎(らいごう)せんと説く事は、且く法華経已前のやすめ言なり。実には彼れ彼れの経経の文の如く十方西方への来迎はあるべからず。実(まこと)とおもふことなかれ。釈迦仏の今説き給うが如し。実には釈迦・多宝・十方の諸仏・寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんが為なりと出だし給う広長舌なり。
 我等と釈迦仏とは同じ程の仏なり。釈迦仏は天月の如し、我等は水中の影の月なり。釈迦仏の本土は実には娑婆世界なり。天月動き給はずば我等もうつるべからず。此の土に居住して法華経の行者を守護せん事、臣下が主上を仰ぎ奉らんが如く、父母の一子を愛するが如くならんと出だし給う舌なり。其の時・阿弥陀仏の一二の弟子、観音・勢至等は阿弥陀仏の塩梅(あんばい)なり、雙翼(つばさ)なり・左右の臣なり・両目の如し。

[下山御消息 本文] その六に続く




by johsei1129 | 2019-11-01 21:02 | 御書十大部(五大部除く) | Trackback | Comments(0)


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