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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 01日

「恩を棄て無為に入るは真実に恩を報ずる者なりと仏定め給いぬ」と説いた【下山御消息】一

【下山御消息(しもやまごしょうそく)】
■出筆時期:建治三年六月(西暦1277年) 五十六歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:父親に信仰を反対された弟子因幡房日永に代わって、大聖人が日永の父で甲斐下山の地頭、下山兵庫五郎に送られた長文の陳状書である。
本書末尾で「恩を棄て無為に入るは真実に恩を報ずる者なりと仏定め給いぬ」と記し、日永が父親の下山兵庫五郎が信仰する念仏を捨て、法華経に帰依することこそ真の報恩であると断じている。
■ご真筆: 本圀寺、小湊・誕生寺等二十箇所に断簡が分散されて所蔵。時代写本:日澄筆(北山本門寺所蔵)、日法筆(光長寺所蔵)。
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[真筆本文:下記緑字箇所]

[下山御消息 本文] その一

 「例時に於ては尤(もっと)も阿弥陀経を読まる可きか」等云云。此の事は仰せ候はぬ已前より親父の代官といひ・私の計(はからい)と申し・此の四五年が間は退転無し。例時には阿弥陀経を読み奉り候しが去年(こぞ)の春の末へ・夏の始めより、阿弥陀経を止めて一向に法華経の内・自我偈・読誦し候。又同じくば一部を読み奉らむとはげみ候。これ又偏に現当の御祈祷の為なり。
 但し阿弥陀経念仏を止めて候事は此れ日比(ひごろ)・日本国に聞こへさせ給う日蓮聖人、去ぬる文永十一年の夏の比(ころ)、同じき甲州飯野・御牧(みまき)・波木井(はきり)の郷の内・身延の嶺と申す深山に御隠居せさせ給い候へば、さるべき人人御法門承わる可きの由・候へども御制止ありて入れられず、おぼろげの強縁ならでは・かなひがたく候しに、有る人見参の候と申し候しかば信じまいらせ候はん・れう(料)には参り候はず。ものの様(よう)をも見候はんために閑所より忍びて参り、御庵室の後(うしろ)に隠れ・人人の御不審に付きてあらあら御法門とかせ給い候き。

 法華経と大日経・華厳・般若・深密・楞伽(りょうが)・阿弥陀経等の経経の勝劣・浅深等を先として説き給いしを承り候へば、法華経と阿弥陀経等の勝劣は一重二重のみならず天地雲泥に候けり。譬へば帝釈と猿猴(えんこう)と、鳳凰(ほうおう)と烏鵲(かささぎ)と、大山(たいざん)と微塵(みじん)と、日月と螢炬(ほたるび)等の高下勝劣なり。彼彼の経文と法華経とを引き合はせて・たくらべさせ給いしかば、愚人も弁えつ可し。白白なり・赤赤なり。されば此の法門は大体人も知れり、始めておどろくべきにあらず。又仏法を修行する法は必ず経経の大小・権実・顕密を弁うべき上、よくよく時を知り・機を鑑みて申すべき事なり。而るに当世日本国は人毎に阿みだ経・並びに弥陀の名号等を本として法華経を忽諸(こっしょ)し奉る。世間に智者と仰がるる人人・我も我も時機を知れり・知れりと存ぜられげに候へども、小善を持て大善を打ち奉り、権経を以て実経を失ふとがは小善還つて大悪となる、薬変じて毒となる、親族還つて怨敵と成るが如し、難治の次第なり。又仏法には賢(かしこげ)なる様なる人なれども時に依り・機に依り・国に依り・先後の弘通に依る事を弁へざれば、身心を苦めて修行すれども験(しるし)なき事なり。

 設い一向に小乗流布の国には大乗をば弘通する事はあれども、一向大乗の国には小乗経をあながちにい(忌)む事なり。しゐてこれを弘通すれば国もわづらひ、人も悪道まぬかれがたし。又初心の人には二法を並べて修行せしむる事をゆるさず。月氏の習いには一向小乗の寺の者は王路を行かず、一向大乗の僧は左右の路をふむ事なし。井の水・河の水同じく飲む事なし。何に況んや一房に栖(す)みなんや。されば法華経に初心の一向大乗の寺を仏説き給うに「但大乗経典を受持せんことを楽(ねが)つて乃至余経の一偈をも受けざれ」又云く「又声聞を求むる比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に親近せざれ」又云く「亦問訊(もんじん)せざれ」等云云。設い親父たれども一向小乗の寺に住する比丘・比丘尼をば・一向大乗の寺の子息これを礼拝せず・親近せず。何に況んや其の法を修行せんや。大小兼行の寺は後心の菩薩なり。

 今日本国は最初に仏法渡りて候し比(ころ)・大小雑行にて候しが、人王四十五代聖武天皇の御宇(ぎょう)に唐の揚州・竜興寺の鑑真和尚と申せし人、漢土より我が朝に法華経天台宗を渡し給いて有りしが、円機未熟とやおぼしけん、此の法門をば己心に収めて口にも出だし給はず。大唐の終南山の豊徳(ぶとく)寺の道宣律師の小乗戒を日本国の三所に建立せり。此れ偏に法華宗の流布すべき方便なり。大乗出現の後には肩を並べて行ぜよとにはあらず。例せば儒家の本師たる孔子老子等の三聖は仏の御使ひとして漢土に遣(つかわ)されて・内典の初門に礼楽(れいがく)の文を諸人に教えたりき。止観に経を引いて云く「我・三聖を遣はして彼の震旦を化す」等云云。妙楽大師云く「礼楽前(さき)に馳せ真道後に啓く」と云云。
 仏は大乗の初門に且らく小乗戒を説き給いしかども、時すぎぬれば禁めて云く、涅槃経に云く「若し人有つて如来は無常なりと言わん。云何(いか)んぞ是の人・舌堕落せざらん」と等云云。其の後・人王第五十代桓武天皇の御宇に伝教大師と申せし聖人出現せり。始めには華厳・三論・法相・倶舎・成実・律の六宗を習い極め給うのみならず、達磨宗の淵底を探り・究境(くきょう)するのみならず、本朝未弘の天台法華宗・真言宗の二門を尋ね顕らめて浅深勝劣を心中に存じ給へり。

 去ぬる延暦二十一年正月十九日に桓武皇帝、高雄山に行幸ならせ給い・南都七大寺の長者・善議・勤操(ごんそう)等の十四人を最澄法師に召し合はせ
給いて六宗と法華宗との勝劣・浅深・得道の有無
を糾明せられしに、先は六宗の碩学・各々宗々ごとに我が宗は一代超過の由・立て申されしかども澄公の一言に万事破れ畢んぬ。
 其の後・皇帝重ねて口宣(くせん)す。和気弘世(わけのひろよ)を御使ひとして諌責(かんせき)せられしかば、七大寺・六宗の碩学一同に謝表を奉り畢んぬ。一十四人の表に云く「此の界の含霊・而今而後(いまよりのち)悉く妙円の船に載り、早く彼岸に済(わた)ることを得」云云。教大師云く「二百五十戒忽ちに捨て畢んぬ」云云。又云く「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り」又云く「一乗の家には都て権を用いず」又云く「穢食(えじき)を以て宝器に置くこと無し」又云く「仏世の大羅漢・已に此の呵嘖(かしゃく)を被むれり。滅後の小蚊虻(もんもう)何ぞ此れに随わざらん」云云。此れ又私の責めにはあらず。法華経には「正直に方便を捨て但無上道を説く」云云。涅槃経には「邪見の人」等云云。邪見方便と申すは華厳・大日経・般若経・阿弥陀経等の四十余年の経経なり。捨とは天台の云く「廃(すて)るなり」又云く「謗とは背くなり」。正直の初心の行者の法華経を修行する法は、上に挙ぐるところの経経・宗宗を抛(なげう)つて一向に法華経を行ずるが真の正直の行者にては候なり。而るを初心の行者・深位の菩薩の様に、彼彼の経経と法華経とを並べて行ずれば不正直の者となる。世間の法にも賢人は二君に仕へず、貞女は両夫に嫁(とつ)がずと申す是なり。又私に異議を申すべきにあらず。




by johsei1129 | 2019-11-01 20:16 | 御書十大部(五大部除く) | Trackback | Comments(0)


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