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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 09月 06日

蒙古襲来という国難を調伏すべき方を知るは日本国で日蓮ただ一人であると宣言された書【安国論御勘由来】

【安国論御勘由来】
■出筆時期:文永五年(西暦1268年)四月五日 四十七歳御作 
■出筆場所:鎌倉にて
■出筆の経緯:本書ではこの年の一月十八日、蒙古国から牒状が鎌倉幕府に到来、大聖人が立正安国論で予言してから九年を経て「他国侵逼難」が現実になった事態を受け「日蓮復之を対治するの方之を知る、叡山を除いて日本国には但一人なり」と断言。この国難を打開するためには日蓮を用いる事であると迫っている。さらに「文永元年の七月五日、彗星東方に出で余光・大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり。内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず。予弥(いよい)よ悲歎を増長す」と、日本に難が及んでいることに警鐘を鳴らしている。
 尚、本書の対告衆・法鑒(ほうがん)御房は平頼綱の父と言われており、本文に「禅門(宿屋左衛門入道光則)に対面を遂ぐ故に之を告ぐ。之を用ひざれば定めて後悔有るべし」とあることから、宿屋左衛門と近しい関係にあったと推察されます。
■ご真筆: 中山法華経寺 所蔵
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[安国論御勘由来 本文]

 正嘉元年太歳丁巳八月廿三日戌亥(いぬい)の時、前代に超え大に地振す。同二年戊午八月一日大風・同三年己未大飢饉・正元元年己未大疫病・同二年庚申四季に亘つて大疫已まず万民既に大半に超えて死を招き了んぬ。而る間国主之に驚き内外典に仰せ付けて種種の御祈祷有り。爾りと雖も一分の験(しるし)も無く還つて飢疫等を増長す。
  日蓮世間の体を見て粗一切経を勘うるに御祈請・験(しるし)無く還つて凶悪を増長するの由、道理文証・之を得了んぬ。終に止むこと無く勘文一通を造り作して其の名を立正安国論と号す。文応元年庚申七月十六日辰時屋戸野(やどや)入道に付けて古最明寺入道殿に奏進申し了んぬ。此れ偏に国土の恩を報ぜんが為なり。
 其の勘文の意は日本国・天神七代・地神五代・百王百代・人王第卅代欽明天皇の御宇に始めて百済国より仏法此の国に渡り、桓武天皇の御宇に至つて其の中間五十余代・二百六十余年なり。其の間一切経並びに六宗之れ有りと雖も天台真言の二宗未だ之れ有らず。桓武の御宇に山階寺の行表僧正の御弟子に最澄と云う小僧有り、後に伝教大師と号す。已前に渡る所の六宗並に禅宗之を極むと雖も未だ我が意に叶わず。聖武天皇の御宇に大唐の鑒真(がんじん)和尚渡す所の天台の章疏・四十余年を経て已後、始めて最澄之を披見し粗仏法の玄旨を覚り了んぬ。最澄、天長地久の為に延暦四年叡山を建立す。桓武皇帝之を崇め天子本命の道場と号し、六宗の御帰依を捨て一向に天台円宗に帰伏し給う。
  同延暦十三年に長岡の京を遷して平安城を建つ。同延暦廿一年正月十九日高雄寺に於て南都七大寺の六宗の碩学・勤操(きんそう)・長耀(ちょうよう)等の十四人を召し合せ勝負を決談す。六宗の明匠・一問答にも及ばず・口を閉ずること鼻の如し。華厳宗の五教・法相宗の三時・三論宗の二蔵・三時の所立を破し了んぬ。但自宗を破らるるのみに非ず皆謗法の者為ることを知る。同じき廿九日皇帝勅宣を下して之を詰(なじ)る。十四人謝表を作つて皇帝に捧げ奉る。其の後代代の皇帝、叡山の御帰依は孝子の父母に仕うるに超え、黎民(れいみん)の王威を恐るるに勝れり。或御時は宣明を捧げ・或御時は非を以て理に処す等云云。殊に清和天皇は叡山の恵亮(えりょう)和尚の法威に依つて位に即き、帝王の外祖父・九条右丞相は誓状を叡山に捧げ、源の右将軍は清和の末葉なり。鎌倉の御成敗是非を論ぜず叡山に違背せば天命恐れ有る者か。
 然るに後鳥羽院の御宇・建仁年中に法然・大日とて二人の増上慢の者有り。悪鬼其の身に入つて国中の上下を誑惑(おうわく)し代を挙げて念仏者と成り、人毎に禅宗に趣く。存の外に山門の御帰依浅薄なり。国中の法華真言の学者棄て置かれ了んぬ。故に叡山守護の天照太神・正八幡宮・山王七社・国中守護の諸大善神・法味を食らわずして威光を失い、国土を捨て去り了んぬ。悪鬼便りを得て災難を致し、結句他国より此の国を破る可き先相勘うる所なり。
 又其の後文永元年甲子七月五日彗星東方に出で、余光大体一国土に及ぶ。此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり。内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず、予弥よ悲歎を増長す。而るに勘文を捧げて已後九ケ年を経て今年後の正月、大蒙古国の国書を見るに日蓮が勘文に相叶うこと宛かも符契(ふけい)の如し。
 仏記して云く「我が滅度の後・一百余年を経て阿育(あそか)大王出世し我が舎利を弘めん」と。周の第四昭王の御宇・大史蘇由が記に云く「一千年の外・声教此の土に被(こうむ)らしめん」と。聖徳太子の記に云く「我が滅度の後二百余年を経て山城の国に平安城を立つ可し」と。天台大師の記に云く「我が滅後二百余年の已後(のち)東国に生れて我が正法を弘めん」等云云。皆果して記文の如し。
 日蓮、正嘉(しょうか)の大地震、同じく大風、同じく飢饉、正元元年の大疫等を見て記して云く。他国より此の国を破る可き先相なりと。自讃に似たりと雖も若し此の国土を毀壊(きえ)せば復た仏法の破滅疑い無き者なり。
 而るに当世の高僧等、謗法の者と同意の者なり。復た自宗の玄底を知らざる者なり。定めて勅宣・御教書(みきょうしょ)を給いて此の凶悪を祈請するか。仏神、弥(いよい)よ瞋恚(しんに)を作し、国土を破壊(はえ)せん事疑い無き者なり。
  日蓮、復之を対治するの方之を知る。叡山を除いて日本国には但一人なり。譬えば日月の二つ無きが如く、聖人肩を並べざるが故なり。若し此の事妄言ならば日蓮が持つ所の法華経守護の十羅刹の治罰・之を蒙らん。但偏に国の為・法の為・人の為にして身の為に之を申さず。復禅門に対面を遂ぐ故に之を告ぐ。之を用いざれば定めて後悔有る可し、恐恐謹言。

文永五年太歳戊辰四月五日

法鑒御房                 日 蓮 花押


by johsei1129 | 2019-09-06 21:52 | 立正安国論(御書五大部) | Trackback | Comments(0)


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