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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 01月 27日

本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可し、と明かした【唱法華題目抄】二

[唱法華題目抄 本文]その二

 其の上五種法師にも受持・読・誦・書写の四人は自行の人、大経の九人の先の四人は解無き者なり。解説は化他(けた)、後の五人は解有る人と証し給へり。疏記第十に五種法師を釈するには「或は全く未だ品に入らず」又云く「一向未だ凡位に入らず」文。文の心は五種法師は観行五品と釈すれども又五品已前の名字即の位とも釈するなり。此等の釈の如くんば義理を知らざる名字即の凡夫が随喜等の功徳も経文の一偈・一句・一念随喜の者・五十展転等の内に入るかと覚え候。何に況や此の経を信ぜざる謗法の者の罪業は譬喩品に委くとかれたり。持経者を謗ずる罪は法師品にとかれたり。此の経を信ずる者の功徳は分別功徳品・随喜功徳品に説けり。
 謗法と申すは違背の義なり、随喜と申すは随順の義なり。させる義理を知らざれども一念も貴き由申すは違背・随順の中には何れにか取られ候べき。又末代無智の者のわづかの供養・随喜の功徳は経文には載せられざるか如何。其の上天台妙楽の釈の心は他の人師ありて法華経の乃至童子戯(どうしげ)・一偈・一句・五十展転の者を爾前の諸経のごとく上聖の行儀と釈せられたるをば謗法の者と定め給へり。
 然るに我が釈を作る時、機を高く取りて末代造悪の凡夫を迷はし給わんは自語相違にあらずや。故に妙楽大師五十展転の人を釈して云く「恐らくは人謬りて解せる者、初心の功徳の大なる事を測らず而して功を上位に推(ゆず)り、此の初心を蔑(あなど)る故に・今彼の行浅く・功深き事を示して以て経力を顕わす」文。文の心は謬つて法華経を説かん人の此の経は利智精進・上根上智の人のためといはん事を・仏をそれて下根・下智末代の無智の者のわづかに浅き随喜の功徳を、四十余年の諸経の大人上聖の功徳に勝れたる事を顕わさんとして五十展転の随喜は説かれたり。故に天台の釈には外道・小乗・権大乗までたくらべ来て、法華経の最下の功徳が勝れたる由を釈せり。
 所以に阿竭多(あかだ)仙人は十二年が間・恒河(ごうが)の水を耳に留め、耆兎(ぎと)仙人は一日の中に大海の水をすいほす。此くの如き得通(とくずう)の仙人は小乗・阿含経の三賢の浅位の一通もなき凡夫には百千万倍劣れり。三明六通を得たりし小乗の舎利弗・目連等は華厳・方等・般若等の諸大乗経の未断三惑の一通もなき一偈・一句の凡夫には百千万倍劣れり。華厳・方等・般若経を習い極めたる等覚の大菩薩は、法華経を僅かに結縁をなせる未断三惑・無悪不造の末代の凡夫には百千万倍劣れる由釈の文顕然也。
 而るを当世の念仏宗等の人、我が身の権教の機にて実経を信ぜざる者は、方等般若の時の二乗のごとく自身をはぢしめてあるべき処に敢えて其の義なし。あまつさへ世間の道俗の中に、僅かに観音品・自我偈なんどを読み、適(たまたま)父母孝養なんどのために一日経等を書く事あれば、いゐさまたげて云く、善導和尚は念仏に法華経をまじうるを雑行と申し、百の時は希に一二を得・千の時は希に三五を得ん・乃至千中無一と仰せられたり。何に況や智慧第一の法然上人は法華経等を行ずる者をば祖父の履(くつ)・或は群賊等にたとへられたり・なんどいゐうとめ侍るは、是くの如く申す師も弟子も阿鼻(あび)の焔(ほのお)をや招かんずらんと申す。

 問うて云く、何なるすがた並びに語を以てか法華経を世間にいゐうとむる者には侍るや・よにおそろしくこそおぼえ候へ。
 答えて云く、始めに智者の申され候と御物語候いつるこそ、法華経をいゐうとむる悪知識の語にて侍れ。末代に法華経を失うべき者は、心には一代聖教を知りたりと思いて而も心には権実二経を弁へず・身には三衣一鉢(さんねいっぱつ)を帯し・或は阿練若(あれんにゃ)に身をかくし・或は世間の人にいみじき智者と思はれて、而も法華経をよくよく知る由を人に知られなんとして世間の道俗には三明六通の阿羅漢の如く貴ばれて法華経を失うべしと見えて候。
 問うて云く、其の証拠如何。
 答えて云く、法華経勧持品に云く「諸の無智の人・悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん。我等皆当に忍ぶべし」文。妙楽大師此の文の心を釈して云く「初めの一行は通じて邪人を明す。即ち俗衆なり」文。文の心は此の一行は在家の俗男俗女が権教の比丘等にかたらはれて敵(あだ)をすべしとなり。
 経に云く「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為得たりと謂(おも)い、我慢の心充満せん」文。妙楽大師此の文の心を釈して云く「次の一行は道門増上慢の者を明す」文。文の心は悪世末法の権教の諸の比丘、我れ法を得たりと慢じて法華経を行ずるものの敵となるべしといふ事なり。
 経に云く「或は阿練若(あれんにゃ)に納衣にして空閑に在つて・自ら真の道を行ずと謂いて人間を軽賤(きょうせん)する者有らん。利養に貪著(とんじゃく)するが故に白衣(びゃくえ)の与(ため)に法を説き、世に恭敬せらるる事・六通の羅漢の如くならん。是の人悪心を懐(いだ)き・常に世俗の事を念い、名を阿練若に仮りて好んで我等が過(とが)を出さん。而も是くの如き言(ことば)を作(な)さん。此の諸の比丘等は利養を貪るを為つての故に外道の論義を説き、自ら此の経典を作りて世間の人を誑惑す。名聞を求むるを為つての故に分別して是の経を説くと。常に大衆の中に在りて我等を毀(そし)らんと欲するが故に国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議を説くと謂わん」已上。
 妙楽大師此の文を釈して云く「三に七行は僣聖増上慢の者を明す」文。経並びに釈の心は悪世の中に多くの比丘有つて身には三衣一鉢を帯し、阿練若に居して行儀は大迦葉等の三明六通の羅漢のごとく、在家の諸人にあふがれて・一言を吐けば如来の金言のごとくをもはれて法華経を行ずる人をいゐやぶらんがために、国王大臣等に向ひ奉つて此の人は邪見の者なり・法門は邪法なりなんどいゐうとむるなり。

 上の三人の中に第一の俗衆の毀(そしり)よりも第二の邪智の比丘の毀は猶(なお)しのびがたし。又第二の比丘よりも第三の大衣の阿練若の僧は甚し。此の三人は当世の権教を手本とする文字の法師並びに諸経論の言語道断の文を信ずる暗禅の法師・並びに彼等を信ずる在俗等四十余年の諸経と法華経との権実の文義を弁へざる故に、華厳・方等・般若等の心仏衆生・即心是仏・即往十方西方等の文と法華経の諸法実相・即往十方西方の文と語の同じきを以て義理のかはれるを知らず、或は諸経の言語道断・心行所滅の文を見て一代聖教には如来の実事をば宣べられざりけりなんどの邪念をおこす。故に悪鬼・此の三人に入つて末代の諸人を損じ・国土をも破るなり。
 故に経文に云く「濁劫悪世の中には多く諸の恐怖(くふ)有らん。悪鬼其の身に入つて我を罵詈(めりし毀辱(きにく)せん。乃至仏の方便随宜所説の法を知らず」文。
 文の心は濁悪世の時、比丘我が信ずる所の教は仏の方便随宜の法門ともしらずして、権実を弁へたる人出来すれば詈(の)り破しなんどすべし。是偏に悪鬼の身に入りたるをしらずと云うなり。されば末代の愚人の恐るべき事は刀杖・虎狼・十悪・五逆等よりも、三衣・一鉢を帯せる暗禅の比丘と並に権経の比丘を貴しと見て実経の人をにくまん俗侶等なり。
 故に涅槃経二十二に云く「悪象等に於ては心に恐怖(くふ)する事無かれ。悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ。何を以ての故に。是悪象等は唯能く身を壊りて心を破ること能わず、悪知識は二倶に壊るが故に。乃至悪象の為に殺されては三趣に至らず、悪友の為に殺されては必ず三趣に至らん」文。
 此文の心を章安大師宣べて云く「諸の悪象等は但是れ悪縁にして人に悪心を生ぜしむる事能わず。悪知識は甘談・詐媚(さび)・巧言令色(こうげん・れいしょく)もて人を牽(ひ)いて悪を作さしむ。悪を作すを以ての故に人の善心を破る。之を名づけて殺と為す。即ち地獄に堕す」文。
 文の心は悪知識と申すは甘くかたらひ・詐(いつわ)り・媚び・言を巧みにして愚癡の人の心を取つて善心を破るといふ事なり。総じて涅槃経の心は十悪・五逆の者よりも謗法闡提のものをおそるべしと誡めたり。闡提の人と申すは法華経・涅槃経を云いうとむる者と見えたり。当世の念仏者等・法華経を知り極めたる由をいふに、因縁・譬喩をもて釈し、よくよく知る由を人にしられて然して後には此の経のいみじき故に末代の機のおろかなる者及ばざる由をのべ、強き弓重き鎧(よろい)、かひなき人の用にたたざる由を申せば、無智の道俗さもと思いて実には叶うまじき権教に心を移して・僅かに法華経に結縁しぬるをも飜(ひるが)えし、又人の法華経を行ずるをも随喜せざる故に師弟倶に謗法の者となる。
 之れに依つて謗法の衆生・国中に充満して適(たまたま)仏事をいとなみ、法華経を供養し追善を修するにも・念仏等を行ずる謗法の邪師の僧来て法華経は末代の機に叶い難き由を示す。故に施主も其の説を実と信じてある間、訪(とわ)るる過去の父母夫婦兄弟等は弥(いよいよ)地獄の苦を増し、孝子は不孝謗法の者となり、聴聞の諸人は邪法を随喜し悪魔の眷属となる。日本国中の諸人は仏法を行ずるに似て仏法を行ぜず、適(たまたま)仏法を知る智者は国の人に捨てられ、守護の善神は法味をなめざる故に威光を失ひ利生を止(やめ)・此の国をすて他方に去り給い、悪鬼は便りを得て国中に入り替り・大地を動かし・悪風を興し・一天を悩まし五穀を損ず。故に飢渇出来し人の五根には鬼神入つて精気を奪ふ、是を疫病と名く。一切の諸人善心無く・多分は悪道に堕つること、ひとへに悪知識の教を信ずる故なり。

 仁王経に云く「諸の悪比丘多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。其の王別えずして此の語を信聴し・横(よこしま)に法制を作りて仏戒に依らず。是れを破仏・破国の因縁と為す」文。
 文の心は末法の諸の悪比丘、国王大臣の御前にして国を安穏ならしむる様にして終に国を損じ、仏法を弘むる様にして還つて仏法を失うべし。国王大臣・此の由を深く知(しろ)し食(め)さずして此の言を信受する故に国を破り・仏教を失うと云う文なり。此の時、日月度を失ひ、時節もたがひて夏はさむく・冬はあたたかに、秋は悪風吹き・赤き日月出で・望朔(ぼうさく)にあらずして日月蝕し・或は二つ三つ等の日出来せん、大火・大風・彗星等をこり、飢饉・疫病等あらんと見えたり。国を損じ人を悪道にをとす者は悪知識に過ぎたる事なきか。

[唱法華題目抄 本文]その三に続く




by johsei1129 | 2015-01-27 20:01 | 御書十大部(五大部除く) | Trackback | Comments(0)


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