問う、方便品に借文と云い、寿量品に所用と云う各其の謂れ如何。
答う、方便品は、文は但迹の義を詮じて本の義を詮せず而も之を借用して以て本の義を顕わす、故に借文という。若し寿量品は文の上は乃ち是れ脱迹の義を詮じ、文底も亦是れ種本の義を沈む。故に二意倶に文が家の所得なり、何ぞ借用と云わんや、故に直に所用と云うなり。
問う、寿量読誦の所破所用は前代に未だ聞かず、正しく其の証文如何。
答う、本尊抄及び血脈抄の中に正しく文上を以って脱益迹門理の一念三千の教相と名づけ、但文底を以って下種本門事の一念三千の観心と名づく。此れ即ち所破所用の両意文に在りて分明なり、何ぞ更に証文を求めんや。然りと雖も且く一文を引いて之を示さん。
本尊抄に云わく「彼は脱、此れは種なり」云云。「彼は脱」豈所破に非ずや、「此れは種」寧ろ所用に非ずや。
本因妙抄に云わく「今日熟脱の本迹二門を迹と為し、久遠名字の本門を本と為し、信心強盛に唯余念無く、南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡身即ち仏身なり」云云。
又云わく「一代応仏の寿量品を迹と為し、内証の寿量品を本と為す、釈尊久遠名字即の身に約し位に約し南無妙法蓮華経と唱え奉る、是れを出離生死の一面と名づく」云云。
此の二文の正助の二行、所破所用最も之明著なり。
問う、有る抄の中に高祖の譲状を引いて云わく「方便・寿量の読誦は在世の一段、一箇の三千心破の一段是れなり」云云。此の文意何。
答う、両品の三千、事理殊なりと雖も倶に理の一念三千と名づく、故に一箇の三千と云うなり。読誦の心地所破に在り、故に心破の一段と云うなり。
問う、房州方の義に云わく「方便・寿量の両品倶に所破助行に之を用ゆ」云云、此の義如何。
答う、応に是れ所破即助行の義なるべし。若し爾らば俱に是所破の一義なり、若し所破及び助行と言わば、所破は是れ助行に非ずや。故に知んぬ、但一義を挙ぐるのみ。
迹門は実相を顕わす、本門は寿の長遠を顕わす につづく