問う、内外の得脱、同とせんや異とせんや。
答う、此れ即ち天地水火の不同なり。
本尊抄に云わく「久遠を以て下種と為し、大通・前四味・迹門を熟と為し、本門に至って等妙に登らしむるを脱と為す」云云。
解して云わく、等覚に登らしむとは即ち体外の意なり、妙覚に登らしむるとは即ち体内の意なり、若し体外の意は常の所談の如し。在世の衆生、寿量品を聞き但二住乃至等覚に至る、而も妙覚に至るの人は都て経文に之無きなり。
然るに体内の意は霊山一会の無量の菩薩、体内の寿量を聴聞して但文上脱迹を信ずるのみに非ず、復文底秘沈の種本を了し、久遠元初の下種の位に立ち還って本地難思境智の妙法を信ずる故に皆悉く名字妙覚の極位に至るなり、是れ即ち体内得脱の相なり。故に荊渓の云わく「故に長寿を聞いて復宗旨を了す」云云。又云わく「若し但事中の遠寿を信ぜば、何ぞ能く此の諸の菩薩等をして増道損生して極位に至らしめん、故に本地難思の境智を信解す」等云云。
吾が祖、祈祷抄に諸菩薩皆妙覚の位に上って釈迦如来の悟りと等しと判じたもう是なり。当流の口伝(本因妙口決・富要二巻八三頁)に云わく「等覚一転名字妙覚」云云。