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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 25日

即身成仏は法華経に限るとをぼしめされて候ぞ、と説いた【太田殿女房御返事】

【太田殿女房御返事(即身成仏抄)】
■出筆時期:弘安三年(西暦1280年)七月二日 五十九歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は下総国葛飾に住んでいた鎌倉武士・大田五郎左衛門尉乗明の夫人に宛てられた書です。大田乗明は富城常忍と共に下総国での中心となる強信徒で大聖人の外護に務められた。
 また子息は出家し日高となり現中山法華経寺の開基に尽力した。本書では即身成仏について「釈迦多宝・十方の諸仏・地涌・竜樹菩薩・天台・妙楽・伝教大師は、即身成仏は法華経に限るとをぼしめされて候ぞ、我が弟子等は此の事を・をもひ出にせさせ給へ。」と断じている。

■ご真筆: 中山法華経寺 所蔵(重要文化財)。

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[真筆箇所本文: 八月分の八木一石給候い了んぬ、即身成仏と申す法門は諸大乗経・並びに大日経等の経文に分明に候ぞ]

[大田殿女房御返事(即身成仏抄) 本文]

 八月分(やつきぶん)の八木(注:米)一石給(たび)候い了んぬ。
 即身成仏と申す法門は諸大乗経・並びに大日経等の経文に分明(ふんみょう)に候ぞ。爾ればとて彼の経経の人人の即身成仏と申すは二つの増上慢に堕ちて必ず無間地獄へ入り候なり。記の九に云く「然して二つの上慢・深浅無きにあらず。如と謂うは乃ち大無慙(だいむざん)の人と成る」等云云。諸大乗経の煩悩即菩提・生死即涅槃の即身成仏の法門はいみじく・をぞたかき・やうなれども此れはあえて即身成仏の法門にはあらず。其の心は二乗と申す者は鹿苑(ろくおん)にして見思(けんじ)を断じて・いまだ塵沙無明(じんじゃ・むみょう)をば断ぜざる者が、我は已に煩悩を尽したり。無余に入りて灰身滅智(けしんめっち)の者となれり。灰身なれば即身にあらず、滅智なれば成仏の義なし。されば凡夫は煩悩業もあり、苦果の依身も失う事なければ煩悩業を種として報身・応身ともなりなん。苦果あれば生死即涅槃とて法身如来ともなりなんと・二乗をこそ弾呵(だんか)せさせ給いしか。さればとて煩悩・業・苦が三身の種とはなり候はず。

 今法華経にして有余・無余の二乗が無き煩悩・業・苦をとり出して即身成仏と説き給う時、二乗の即身成仏するのみならず凡夫も即身成仏するなり。此の法門をだにも・くはしく案じほどかせ給わば、華厳・真言等の人人の即身成仏と申し候は依経に文は候へども・其の義はあえてなき事なり。僻事(ひがごと)の起こり此れなり。

 弘法・慈覚・智証等は此の法門に迷惑せる人なりとみ(見)候。何に況んや其の已下の古徳・先徳等は言うに足らず。但天台の第四十六の座主・東陽の忠尋と申す人こそ此の法門はすこし・あやぶまれて候事は候へ。然れども天台の座主・慈覚の末をうくる人なれば・いつわりをろ(愚)かにて・さてはてぬるか。其の上・日本国に生を受くる人はいかでか心には・をもうとも言(ことば)に出だし候べき。
しかれども釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌・竜樹菩薩・天台・妙楽・伝教大師は、即身成仏は法華経に限ると・をぼしめされて候ぞ。我が弟子等は此の事を・をもひ出にせさせ給へ。

 妙法蓮華経の五字の中に諸論師・諸人師の釈まちまちに候へども・皆諸経の見を出でず。但竜樹菩薩の大論と申す論に「譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」と申す釈こそ此の一字を心へさせ給いたりけるかと見へて候へ。毒と申すは苦集の二諦、生死の因果は毒の中の毒にて候ぞかし。此の毒を生死即涅槃・煩悩即菩提となし候を妙の極とは申しけるなり。
 良薬と申すは毒の変じて薬となりけるを良薬とは申し候いけり。此の竜樹菩薩は大論と申す文の一百の巻に華厳・般若等は妙にあらず、法華経こそ妙にて候へと申す釈なり。此の大論は竜樹菩薩の論、羅什三蔵と申す人の漢土へわたして候なり。天台大師は此の法門を御らむあつて南北をば・せめさせ給いて候ぞ。

 而るを漢土唐の中(なかごろ)・日本弘仁已後の人人の誤りの出来し候いける事は唐の第九・代宗皇帝の御宇不空三蔵と申す人の天竺より渡して候論あり、菩提心論と申す。此の論は竜樹の論となづけて候。此の論に云く「唯真言法の中にのみ即身成仏する故に是れ三摩地(まじ)の法を説く。諸教の中に於て闕(かい)て書せず」と申す文あり。此の釈にばか(誑)されて弘法・慈覚・智証等の法門はさんざんの事にては候なり。但し大論は竜樹の論たる事は自他あらそう事なし。菩提心論は竜樹の論・不空の論と申すあらそい有り。此れはいかにも候へ・さてをき候ひぬ。

 但不審なる事は大論の心ならば即身成仏は法華経に限るべし。文と申し道理きわまれり。菩提心論が竜樹の論とは申すとも、大論にそむいて真言の即身成仏を立つる上、唯の一字は強(つよし)と見へて候。何(いずれ)の経文に依りて唯の一字をば置いて法華経をば破し候いけるぞ、証文尋ぬべし。

 竜樹菩薩の十住毘婆娑論に云く「経に依らざる法門をば黒論」と云云。自語相違あるべからず。大論の一百に云く「而も法華等の阿羅漢の授決作仏・乃至譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」等云云。此の釈こそ即身成仏の道理はかかれて候へ。

 但菩提心論と大論とは同じ竜樹大聖の論にて候が、水火の異をば・いかんせんと見候に、此れは竜樹の異説にはあらず・訳者の所為なり。羅什は舌やけず、不空は舌やけぬ。妄語はやけ、実語はやけぬ事顕然なり。月支より漢土へ経論わたす人・一百七十六人なり。其の中に羅什一人計りこそ教主釈尊の経文に私の言入れぬ人にては候へ。一百七十五人の中・羅什より先後・一百六十四人は羅什の智をもつて知り候べし。羅什来たらせ給いて前後一百六十四人が誤りも顕はれ、新訳の十一人が誤りも顕はれ、又こざかしくなりて候も羅什の故なり。此れ私の義にはあらず。感通伝に云く「絶後光前」と云云。前を光らすと申すは後漢より後秦までの訳者、後を絶すと申すは羅什已後・善無畏・金剛智・不空等も羅什の智をうけて・すこしこざかしく候なり。

 感通伝に云く「已下の諸人並びに皆俊(しゅん)なり」されば此の菩提心論の唯の文字は設い竜樹の論なりとも不空の私の言なり。何に況んや次下に「諸教の中に於て闕(か)いて書せず」と・かかれて候、存外のあやまりなり。

 即身成仏の手本たる法華経をば指(さし)をいて、あとかたもなき真言に即身成仏を立て・剰(あまつさ)え唯の一字を・をかるる条・天下第一の僻見(びゃっけん)なり。此れ偏に修羅根性の法門なり。天台智者大師の文句の九に寿量品の心を釈して云く「仏三世に於て等しく三身有り。諸教の中に於て之を秘して伝えず」とかかれて候。此れこそ即身成仏の明文にては候へ。不空三蔵・此の釈を消さんが為に事を竜樹に依せて「唯真言の法の中にのみ即身成仏するが故に是の三摩地の法を説く。諸教の中に於て闕(か)いて書せず」とかかれて候なり。されば此の論の次下に即身成仏をかかれて候が・あへて即身成仏にはあらず、生身得忍に似て候。此の人は即身成仏は・めづらしき法門とはきかれて候へども即身成仏の義はあへて・うかがわぬ人人なり。いかにも候へば二乗成仏・久遠実成を説き給う経にあるべき事なり。天台大師の「於諸教中・秘之不伝」の釈は千且(しゃ)千且。恐恐。

 外典三千余巻は政当(せいどう)の相違せるに依つて代は濁ると明す、内典五千・七千余巻は仏法の僻見(びゃっけん)に依つて代濁るべしとあかされて候。今の代は外典にも相違し、内典にも違背せるかのゆへに、この大科・一国に起りて已に亡国とならむとし候か。不便(ふびん)不便。

 七月二日            日 蓮  花押


 太田殿女房御返事




by johsei1129 | 2019-11-25 22:38 | 大田乗明・尼御前 | Trackback | Comments(0)


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