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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 01月 04日

大聖人一身の御当体全く是れ十界互具の大曼荼羅なり 【末法相応抄下】七


次に邪難を破すとは、妙楽云わく「凡そ一義を(しょう)するに、皆一代を(こん)じて其の始末を(きわ)む」等云云。(しか)るに(にっ)(しん)何ぞ教機時国をも思量せず、在滅三徳の有無をも(わきま)えずして(そつ)()僻難(びゃくなん)(おこ)すや 是一。

今の文は正しく正像未弘(みぐ)の三大秘法を明かす。故に是れ文底秘沈(もんていひちん)の法門にして文の上の所談に非ず、日辰如何(いかん)(ただ)文上を論じて文底を論ぜざるや 是二。

今の文は正しく末法下種の本因(ほんにん)の教主を明かす、日辰(なん)在世(ざいせ)脱益(だっちゃく)の教主と()や 是三。

今の文は正しく末代理即の観心の本尊を明かす、日辰(なん)ぞ身子等の教相の本尊に約するや 是四。

今の文は分明(ふんみょう)に法を以て人を釈す、故に人法体一の自受用身なり、日辰(なん)ぞ色相荘厳の仏と為すや 是五。

日辰重難の文に云わく、()し蓮祖を以て本尊とせば左右に釈迦・多宝を安置するや云云。今反詰(はんきつ)して云わく、若し脱益の釈尊を以て本尊と()さば左右に亦釈迦・多宝を安置するや 是六。

又重難の文に云わく「若し爾らば名字(みょうじ)の凡僧を以て中央に安置し、左右は身(みな)金色の仏菩薩ならんや」云云。今謂わく、当文の(こころ)云わく、蓮祖一身の当体全く是れ十界(じゅっかい)()()の大曼荼羅なり云云。故に蓮祖の(ほか)に別に釈迦・多宝等有るに非ず、(なん)ぞ左右身皆金色の仏菩薩と云わんや 是七。

吾が祖諸抄の中に示して云わく「日蓮は日本国の一切衆生の主師父母()なり」云云、日辰如何ぞ三徳の大恩を忘却して(たやす)く名字の凡僧と云うや 是八。

血脈抄に云わく「本地自受用報身の垂迹(すいじゃく)、上行の再誕日蓮」云云。日辰如何ぞ(ただ)示同凡夫(ぼんぷ)の辺を執して本地自受用の辺を抑止(よくし)するや 是九。

撰時抄に云わく「(きん)(めい)より当帝に至る七百余年未だ聞かず未だ見ず、南無妙法蓮華経と唱えよと(すす)めたるの智人無し、日蓮は日本第一の法華経の行者なること()えて疑い無し。之を以て之を推するに漢土、(がっ)()一閻浮提の内に肩を並ぶるもの有るべからず」と云云。(まさ)に知るべし、第一は即ち是れ最極(さいごく)の異名なり。妙楽云わく「一部最極の理(あに)第一に非ずや」云云。最極豈亦(あにまた)究竟(くきょう)の異名に非ずや。若し爾らば一閻浮提第一とは即ち是れ名字究竟の本仏なり、日辰、如何ぞ(かろ)しめて名字の(ぼん)(そう)と云うや 是十。

知三世抄に云わく「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり、我が弟子(あお)いで之を見よ」云云。吾が()現に三度の高名有り、自余の兼讖(けんしん)(ごう)(まつ)(たが)わず、豈兼知(けんち)未萠(みぼう)の大聖に非ずや。日辰如何ぞ蔑如(べつじょ)して凡僧と云うや、豈魯人(ろひと)に異なるべけんや 是十一。

()血脈抄に云わく「我が内証の寿量品とは文底本因妙の事なり、其の教主は(それがし)なり」云云。又云わく「本因妙の教主日蓮」云云。既に是れ本因妙の教主なり、日辰那ぞ本尊と為ることを(こば)むや 是十二。

金剛(こんごう)般若(はんにゃ)経に云わく「若し三十二相を以て如来と見、若し色を以て我と見るは是れ則ち邪道を行ず」云云。日辰(ただ)色相に執して真仏の想いを成す、若し経文の如くんば(むし)ろ邪道を行ずるに非ずや 是十三。

法蓮抄に云わく「愚人(ぐにん)の正義に(たが)う、昔も今も異ならず、然れば則ち迷者の習い、外相を貴んで内智を貴まず」(編者注:この御文、御書に拝せず。録内十五・三ヲ)等云云。(あに)日辰の見、(まさ)しく蓮祖の所破に()たるに非ずや 是十四。


 日蓮大聖人を御本尊となすべし   につづく



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by johsei1129 | 2015-01-04 18:23 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)


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