問う、日賙略要集に玄文第七の文を釈して云わく「迹権本実より非権非実に至る、是れ一往なり。但約此法性の下は是れ再往なり。例せば興師の御草案に、但し四悉の廃立、二門の取捨宜しく時機を守り、敢えて偏執すること勿れと云うが如し、又十章抄に、円の行区なり、砂を数え大海を見る、尚円の行なり、何に況や爾前経を読み弥陀等の諸仏の名号を唱うるをや、但し此等は時々の行なるべし、真実の円の行に順じ口号にすべき事は南無妙法蓮華経なりと云うが如し」已上、此の義如何。
答う、十章抄を以て用いて玄文に例す、此れ則ち然るべし、但し四悉を以て十章抄に同ず、此れ則ち不可なり。若し強いて一例を言わば、難じて云わく、悲しい哉痛ましい哉、但唱五字の題目空しく弥陀の名号に同じく、不惜身命の立行も算砂の修行に異ならず、勧持・不軽の明文徒に爾前権説の如く、上行弘通の現証還って虚戯の行と成る、何に為ん、何に為ん、学者思量せよ。
本因妙抄に云わく「彼は安楽・普賢の説相に依り、此れは勧持・不軽の行相を用ゆ」云云。三位日順詮要抄に云わく「迹化は世界悉檀に准じて摂受の行を修し、高祖は法華折伏の掟に任せて謗法の邪義を破す。彼は安楽・普賢の説相に依るとは摂受門の修行なり、読誦等の因に依って六根清浄の位に至る。此れは勧持・不軽の行相を用ゆとは折伏門を本と為し、不専読誦の上に不軽の強毒を抽んず」云云。然らば則ち末法の折伏は法華流通の明鏡、時機相応の綱格なり、何ぞ此れを以て一往の義と為すや。
問う、若し爾らば「但四悉」等の例文如何。
答う、譬喩品に云わく「但楽って大乗経典を受持して乃至余経の一偈をも受けざらん」云云。「但楽受持大乗経典」とは是れ勧門なり、即ち「但四悉廃立二門取捨宜守時機」に同じ。「乃至不受余経一偈」とは是れ誡門なり、即ち「敢勿偏執」に同じ云云。止観に云わく「但法性を信じて其の諸を信ぜず」云云。会疏に云わく「取捨得宜不可一向」云云。並びに勧誡の二門有り、学者説に准じて知るべし。
ふたたび一部読誦の私情を破す につづく
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