人気ブログランキング | 話題のタグを見る

日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ
2015年 01月 01日

摂受をしりぞけ、折伏門をしめす 【末法相応抄上】六


問う、又日辰が記に云わく「御草案に曰わく、日興が云わく、如法一日の両経乃至(ただ)四悉(ししつ)廃立(はいりゅう)、二門の取捨宜しく時機を守るべし、()えて偏執する(なか)れ已上。但四悉の下、或る時は世界悉檀を用い王法に順じて仏法の滅を致さず、或る時は第一義悉檀を用い仏法を以て正理を立て、或る時は摂受門(しょうじゅもん)を用いて折伏門を捨つ、或る時は折伏門を用いて摂受門を捨つ。是れを四悉の廃立、二門の取捨と謂う。或るは四悉折伏之を用ゆべく(また)之を捨つべし。其の故は時に依り機に依る故なり、敢えて一偏の局見を生ずること(なか)れ。是れを(よろ)しく時機を守り敢えて偏執すること勿れと謂うなり。不読の一類但四(たんし)已下(いか)の文を見ず、故に末法と(いえど)も摂受無きに非ず、何ぞ一部読誦を制せんや」云云、此の義如何。

答う、此れは是れ辰公の邪解なり。(いま)全文を引いて以て其の意を示さん。

開山上人の五人所破抄に云わく「五人一同に云わく、如法(にょほう)一日の両経は共に法華の真文を以てす、書写読誦に(おい)て相違すべからず云云、日興が云わく、如法一日の両経は法華の真文たりと雖も正像伝持の往古(おうこ)平等摂受の修行なり、今末法の代を迎えて折伏の相を論ずれば一部読誦を専らにせず、(ただ)五字の題目を唱えて三類の強敵(ごうてき)を受くと雖も諸師の邪義を責むべきか。是れ則ち勧持・不軽の明文、上行弘通の現証なり。何ぞ必ずしも折伏の時に摂受の行を修すべけんや。(ただ)四悉の廃立、二門の取捨(よろ)しく時機を守るべし、敢えて偏執すること(なか)れ」云云。

此の文分かちて四と為す。初めに五人の(みょう)()(ちょう)し、二に「日興(いわ)く」の(しも)は興師の正義を示し、三に「何必(かひつ)の下は五人の義を破し、四に「但四悉(たんししつ)の下は重ねて五人を勧誡するなり。

前の三段は其の文見るべし。「但四悉」等とは上代は本已(ほんい)()(ぜん)の衆生にして(これ)熟益(じゅくやく)の時なり、故に退治・第一義を廃して世界・為人を立つ、宜しく(ぎょう)(よく)に随って宿善を生ぜしむべし。故に正像に於ては折伏門を捨て、摂受門を用ゆるなり。末代は(ほん)()()(ぜん)の衆生にして是れ下種の時なり、故に世界・為人を廃して退治・第一義を立つ。(よろ)しく諸宗の邪義を破して五字の正道を聞かしむべし、故に末法に於て摂受門を捨てて折伏門を用ゆべし。()えて正像摂受の行を偏執(へんしゅう)すること勿れ云云。

聖愚問答抄下に云わく「取捨宜しきを得て一向にすべからず云云。此の釈分明なり、今の世は濁世(じょくせ)なり。此の時は読誦・書写の修行は無用なり、(ただ)折伏を行じて邪義を責むべし、取捨其の旨を得て一向に執する事勿れと書かれたり」云云。故に「但四悉廃立二門取捨宜守時機」とは即ち是れ「取捨得宜」の文意なり。「敢勿(かんもつ)偏執」とは「不可一向」の文意なり。()(しか)らば重ねて五人を勧誡すること文に在って分明なり。何ぞ須く此の文を隠すべけんや。但略して引かざるのみ、日辰の、能破の文を(まぎらか)さんと欲して所破の五人の義を覆蔵(ふぞう)するに同じからざるなり。

評して曰わく、此の文分明に五人を(かん)(かい)す。然るに日辰は門弟子に約す、是れ一の不可なり。此の文の時機とは是れ正像末大段の時機なり。而るに日辰(ただ)末法の中に約す、是れ二の不可なり。此の文正しく五人の末法摂受の行を(いまし)む、而るに日辰恣に之を許す、是れ三の不可なり。

法華折伏の掟を論ず につづく

末法相応抄 目次


六巻抄 目次



by johsei1129 | 2015-01-01 14:27 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)


<< 法華折伏の掟を論ず 【末法相応...      不軽菩薩の不専読誦を説き明かす... >>