次ぎに外難を遮すとは、 問う、日辰が記に云わく「蓮祖身延九箇年の間読誦する所の法華経一部手に触るる分、黒白色を分かつ。十月中旬二日九年読誦の行功を拝見せしむ」云云、此の事如何。
答う、人の言謬り多し、但文理に随わん。
天目日向問答記に云わく「大聖人一期の行法は本迹なり、毎日の勤行は方便・寿量の両品なり、御臨終の時亦復爾なり」云云。既に毎日の勤行は但是れ方便・寿量の両品なり、何んぞ九年一部読誦と云うや。
又身延山抄十八・初に云わく「昼は終日一乗妙典の御法を論談し、夜は竟夜要文誦持の声のみす」(新定二三〇六)云云。既に終日竟夜の御所作、文に在って分明なり、何ぞ一部読誦と云うや。
又佐渡抄十四・五に云わく「眼に止観・法華を曝し口に南無妙法蓮華経と唱うるなり」云云。
故に知んぬ、並びに説法習学の巻舒に由って方に触手の分有り、那ぞ一概に読誦に由ると云わんや。而も復三時の勤行、終日竟夜一乗論談、要文誦持、習学口唱の外更に御暇有れば時々或は一品一巻容に之れを読誦したもうべし。然りと雖も宗祖は是れ四重の浅深、三重の秘法源を窮め底を尽くし、一代の聖教八宗の章疏膺に服て掌に握る、故に自他の行業自在無礙なること、譬えば魚の水に練れ、鳥の虚空に翔るが如し。故に時々に之れを行ずと雖も何んの妨礙有らんや、而るに那んぞ蓮師を引いて輙く末弟に擬せんや。
法華経一部への執着を破す につづく
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