人気ブログランキング | 話題のタグを見る

日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ
2014年 12月 30日

日寛上人、われら末弟に正邪をしめす 【末法相応抄上】一


  末法相応抄第四

春雨昏々(こんこん)として山院寂々たり、客有り(だん)著述に(およ)。客の曰わく、永禄の初め洛陽の(しん)、造読論を述べ(もっぱ)ら当流を難ず、爾来(じらい)百有六十年なり、而して後門葉の学者(よも)(はびこ)り。其の間一人も之に(むく)いざるは何ぞや。予(おも)く、当家の書生の彼の難を見るや、また闇中の(つぶて)の一も(あた)ることを得ざるが如く、吾に()いて害無きが故に酬いざるか。

客の曰わく、(たと)い中らずと雖も而も(また)遠からず、恐らくは後生(こうせい)の中に(まど)いを生ずる者無きに非ず、(いずく)んぞ之を(つまび)らかにして幼稚の(たす)()さざるや。二三子も亦復(またまた)(ことば)を同じうす。予左右を(かえり)みて欣々(きんきん)(ぜん)たり。(つい)に所立の意を示して以て一両の難を(しゃ)す。余は風を望む、所以(ゆえ)に略するのみ。

末法相応抄上
                     日寛謹んで記す

問う、末法初心の行者に一経の読誦(どくじゅ)を許すや(いな)や。

答う、許すべからざるなり、(まさ)に此の義を明かさんとするに初めに文理を立て次ぎに外難(げなん)を遮す。

初めに文理とは、一には正業(しょうごう)の題目を妨ぐる故に、四信五品抄十六-六十八に(もん)九・八十を引いて云わく「初心は縁に紛動(ふんどう)せられ正業を修するを(さまた)(おそ)る、直ちに専ら此の経を持つは即ち上供養なり、()を廃し理を存ずれば所益()()なり」云云。直専(じきせん)()()(きょう)とは一経に(わた)るに非ず、専ら題目を持って余文を雑えず、(なお)一経の読誦を許さず、(いか)(いわん)んや五度をや 以上。

二には末法は折伏の時なるが故に、経(常不軽品)に曰わく「専らに経典を読誦せずして(ただ)礼拝を行ず」云云。記の十・三十一に云わく「不専等とは不読誦を顕わす故に不軽(ふきょう)を以て(せん)と為して但礼と云う」云云。

聖人知三世抄二十八-九に云わく「日蓮は不軽の(あと)(しょう)(けい)す」等云云。

開山上人の五人所破抄に云わく「今末法の()を迎えて折伏の相を論ぜば一部読誦を専らにせず、(ただ)五字の題目を唱え諸師の邪義を責むべし」云云。

 三には多く此の経の()われを知らざるが故に、一代大意抄十三・二十二に云わく「此の法華経は謂われを知らずして習い読む者は(ただ)()(ぜん)(きょう)の利益なり」云云。深秘の相伝に三重の謂われ有り云云。



 一部読誦の執着を破す  につづく

末法相応抄 目次

六巻抄 目次


by johsei1129 | 2014-12-30 22:47 | 日寛上人 六巻抄 | Trackback | Comments(0)


<< 一部読誦の執着を破す 【末法相...      三大秘法の「教法流布の先後」を... >>