末法相応抄第四
春雨昏々として山院寂々たり、客有り談著述に及ぶ。客の曰わく、永禄の初め洛陽の辰、造読論を述べ専ら当流を難ず、爾来百有六十年なり、而して後門葉の学者四に蔓り。其の間一人も之に酬いざるは何ぞや。予謂えらく、当家の書生の彼の難を見るや、また闇中の礫の一も中ることを得ざるが如く、吾に於いて害無きが故に酬いざるか。
客の曰わく、設い中らずと雖も而も亦遠からず、恐らくは後生の中に惑いを生ずる者無きに非ず、那んぞ之を詳らかにして幼稚の資けと為さざるや。二三子も亦復辞を同じうす。予左右を顧みて欣々然たり。聿に所立の意を示して以て一両の難を遮す。余は風を望む、所以に略するのみ。
末法相応抄上
日寛謹んで記す
問う、末法初心の行者に一経の読誦を許すや否や。
答う、許すべからざるなり、将に此の義を明かさんとするに初めに文理を立て次ぎに外難を遮す。
初めに文理とは、一には正業の題目を妨ぐる故に、四信五品抄十六-六十八に文の九・八十を引いて云わく「初心は縁に紛動せられ正業を修するを妨げんことを畏る、直ちに専ら此の経を持つは即ち上供養なり、事を廃し理を存ずれば所益弘多なり」云云。直専持此経とは一経に亘るに非ず、専ら題目を持って余文を雑えず、尚一経の読誦を許さず、何に況んや五度をや 以上。
二には末法は折伏の時なるが故に、経(常不軽品)に曰わく「専らに経典を読誦せずして但礼拝を行ず」云云。記の十・三十一に云わく「不専等とは不読誦を顕わす故に不軽を以て詮と為して但礼と云う」云云。
聖人知三世抄二十八-九に云わく「日蓮は不軽の跡を紹継す」等云云。
開山上人の五人所破抄に云わく「今末法の代を迎えて折伏の相を論ぜば一部読誦を専らにせず、但五字の題目を唱え諸師の邪義を責むべし」云云。
三には多く此の経の謂われを知らざるが故に、一代大意抄十三・二十二に云わく「此の法華経は謂われを知らずして習い読む者は但爾前経の利益なり」云云。深秘の相伝に三重の謂われ有り云云。
一部読誦の執着を破す につづく
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