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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 12日

法華経は随自意なり一切衆生を仏の心に随へたり、と説いた御書【新池殿御消息】

【新池殿御消息(にいけどの・ごしょうそく)】
■出筆時期:弘安2年(西暦1279年)5月2日 五十八歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■鎌倉幕府直参武士(御家人)で地頭であった新池左衛門尉が、亡くなった子の追善のため米三石(現在の約300㌔)をご供養されたことへの返書となっております。新池左衛門尉は遠江国・磐田郡新池(現静岡県袋井市)に居住されていて、日興上人の教化により妻の新池尼ともども大聖人に帰依されたと思われます。本書で大聖人は「諸経は随他意なり、仏一切衆生の心に随ひ給ふ故に。法華経は随自意なり、一切衆生を仏の心に随へたり。諸経は仏説なれども是を信ずれば・衆生の心にて永く仏にならず。法華経は仏説なり仏智なり。一字一点も是を深く信ずれば我が身・即ち仏となる」と法華経への一途な信仰をするよう諭されておられます。尚、新池左衛門尉は弘安三年二月には長文の 「新池御書」を送られているほどの強信徒でありました。
■ご真筆: 現存しておりません。

[新池殿御消息 本文]

 八木(こめ)三石送り給い候。今一乗妙法蓮華経の御宝前に備へ奉りて南無妙法蓮華経と只一遍唱えまいらせ候い畢んぬ、いとをしみ(最愛)の御子を霊山浄土へ決定無有疑(けつじょう・むうぎ)と送りまいらせんがためなり。
 抑(そもそも)因果のことはりは、華と果(このみ)との如し。千里の野の枯れたる草に螢火(ほたるび)の如くなる火を一つ付けぬれば、須臾に一草・二草・十・百・千万草につきわたりて・も(燃)ゆれば・十町・二十町の草木一時にやけつきぬ。竜は一渧(てい)の水を手に入れて天に昇りぬれば・三千世界に雨をふらし候。小善なれども法華経に供養しまいらせ給いぬれば功徳此くの如し。

 仏滅後・一百年と申せしに月氏国に阿育大王と申せし王ましましき。一閻浮提・八万四千の国を四分が一御知行ありき。竜王をしたがへ・鬼神を召し仕はせ給う。六万の羅漢を師として八万四千の石塔を立て、十万億の金(こがね)を仏に供養し奉らんと誓はせ給いき。かかる大王にてをはせし其の因位の功徳をたづぬれば、ただ土の餅一(ひとつ)・釈迦仏に供養し奉りし故ぞかし。
 釈迦仏の伯父(おじ)に斛飯(こくぼん)王と申す王をはします。彼の王に太子あり阿那律となづく。此の太子生れ給いしに御器(ごき)一つ持ち出でたり。彼の御器に飯あり。食すれば又出でき又出でき・終に飯つくる事なし。故にかの太子の・をさな(幼)名をば如意となづけたり。法華経にて仏に成り給ふ普明如来是なり。此の太子の因位を尋ぬれば、う(飢)へたる世にひえ(稗)の飯を辟支仏(びゃくしぶつ)と申す僧に供養せし故ぞかし。辟支仏を供養する功徳すら此くの如し。況んや法華経の行者を供養せん功徳は無量無辺の仏を供養し進(まい)らする功徳にも勝れて候なり。

 抑日蓮は日本国の者なり。此の国は南閻浮提七千由旬の内に八万四千の国あり。十六の大国・五百の中国・十千の小国・無量の粟散(ぞくさん)国あり。其の中に月氏国と申す国は大国なり。彼の国に五天竺あり、其れより東海の中に小島あり・日本国是なり。中天竺よりは十万余里の東なり。仏教は仏滅度後・正法一千年が間は天竺にとど(留)まりて余国にわたらず。正法一千年の末・像法に入つて一十五年と申せしに漢土へ渡る。漢土に三百年すぎて百済国に渡る。百済国に一百年已上一千四百十五年と申せしに、人王三十代・欽明天皇の御代に日本国に始めて釈迦仏の金銅の像と一切経は渡りて候いき。今七百余年に及び候、其の間一切経は五千余巻・或は七千余巻なり、宗は八宗・九宗・十宗なり。国は六十六箇国・二つの島、神は三千余社・仏は一万余寺なり。男女よりも僧尼は半分に及べり。仏法の繁昌は漢土にも勝れ天竺にもまさ(勝)れり。

 但し仏法に入つて諍論あり。浄土宗の人人は阿弥陀仏を本尊とし、真言の人人は大日如来を本尊とす、禅宗の人人は経と仏とをば閣(さしお)いて達磨(だるま)を本尊とす。余宗の人人は念仏者・真言等に随へられ・何れともなけれども、つよ(強)きに随ひ・多分に押されて阿弥陀仏を本尊とせり。現在の主師親たる釈迦仏を閣(さしお)きて他人たる阿弥陀仏の十万億の他国へにげ行くべきよしをねがはせ給い候。阿弥陀仏は親ならず・主ならず・師ならず。されば一経の内、虚言(そらごと)の四十八願を立て給いたりしを、愚(おろか)なる人人・実(まこと)と思いて物狂はしく金拍子をたたき、おど(踊)りはねて念仏を申し、親の国をば・いと(厭)ひ出でぬ。来迎(らいごう)せんと約束せし阿弥陀仏の約束の人は来らず、中有のたびの空(そら)に迷いて謗法の業にひかれて・三悪道と申す獄屋(ひとや)へおもむけば、獄卒・阿防・羅刹、悦びをなし、とら(捉)へ・から(搦)めてさひなむ事限りなし。

 これをあらあら経文に任せてかたり申せば、日本国の男女・四十九億九万四千八百二十八人ましますが、某(それがし)一人を不思議なる者に思いて、余の四十九億九万四千八百二十七人は皆敵と成りて主師親の釈尊をもちひぬだに不思議なるに、かへりて或はのり・或はうち・或は処を追ひ・或は讒言して流罪し・死罪に行はるれば、貧なる者は富めるを・へつらひ、賤しき者は貴きを仰ぎ、無勢は多勢にしたがう事なれば、適(たまたま)法華経を信ずる様なる人人も世間をはばかり、人を恐れて多分は地獄へ堕つる事不便なり。

 但し日蓮が愚眼にてやあるらん、又宿習にてや候らん「法華経最第一」「已今当説難信難解」「唯我一人能為救護(ゆいが・いちにん・のういくご)」と説かれて候文は如来の金言なり。敢へて私の言にはあらず。当世の人は人師の言を如来の金言と打ち思ひ、或は法華経に肩を並べて斉(ひと)しと思ひ、或は勝れたり、或は劣るなれども機にかなへりと思へり。
 しかるに如来の聖教に随他意・随自意と申す事あり。譬えば子の心に親の随うをば随他意と申す。親の心に子の随うをば随自意と申す。諸経は随他意なり、仏・一切衆生の心に随ひ給ふ故に。法華経は随自意なり、一切衆生を仏の心に随へたり。諸経は仏説なれども是を信ずれば衆生の心にて永く仏にならず。法華経は仏説なり・仏智なり。一字一点も是を深く信ずれば我が身・即ち仏となる。譬えば白紙を墨に染むれば黒くなり、黒漆(うるし)に白き物を入るれば白くなるが如し。毒薬変じて薬となり、衆生変じて仏となる。故に妙法と申す。

 然るに今の人人は高きも賤きも・現在の父たる釈迦仏をばかろ(軽)しめて、他人の縁なき阿弥陀・大日等を重んじ奉るは是れ不孝の失(とが)にあらずや、是れ謗法の人にあらずや、と申せば日本国の人一同に怨ませ給うなり。其れもことはりなり。まがれる木はすなを(直)なる繩をにくみ、いつは(偽)れる者は・ただ(直)しき政りごとをば心にあはず思うなり。 

 我が朝人王・九十一代の間に謀叛の人人は二十六人なり。所謂大山の王子、大石の小丸、乃至将門・すみとも・悪左府等なり。此等の人人は吉野・とつ(十津)河の山林にこもり、筑紫・鎮西の海中に隠るれば、島島のえびす浦浦のもののふども・うたんとす。然れどもそれは貴き聖人・山山・寺寺・社社の法師・尼・女人はいたう敵と思う事なし。日蓮をば上下の男女・尼・法師・貴き聖人なんど伝はるる人人は殊に敵となり候。

 其の故は、いづれも後世をば願へども男女よりは僧・尼こそ願ふ由はみえ候へ。彼等は往生はさてをきぬ、今生の世をわたる・なかだち(中人)となる故なり。智者聖人又我好(われよし)・我勝(われすぐれ)たりと申し、本師の跡と申し、所領と申し、名聞利養を重くして・まめやかに・道心は軽し。仏法はひがさまに心得て愚癡の人なり。謗法の人なりと言をも惜まず人をも憚らず「当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり」の金言を恐れて「我は是世尊の使ひなり。衆に処するに畏るゝ所無し」と云う文に任せていたくせむる間、「未だ得ざるを為(こ)れ得たりと謂(おも)ひ・我慢の心充満せん」の人人争でか・にくみ・嫉(ねた)まざらんや。されば日蓮程・天神七代・地神五代・人王九十余代にいまだ此れ程・法華経の故に・三類の敵人にあだまれたる者なきなり。

 かかる上下万人一同のにくまれ者にて候に、此れまで御渡り候いし事、おぼろげの縁にはあらず。宿世の父母か昔の兄弟にておはしける故に思い付かせ給うか。又過去に法華経の縁深くして今度仏にならせ給うべきたね(種)の熟せるかの故に、在俗の身として世間ひまなき人の公事(くじ)のひまに・思い出ださせ給いけるやらん。

 其の上遠江(とおとうみ)の国より甲州波木井の郷・身延山へは道三百余里に及べり。宿宿のいぶせさ・嶺(みね)に昇れば日月をいただき、谷へ下(くだ)れば穴へ入るかと覚ゆ。河の水は矢を射るが如く早し、大石ながれて人馬むかひ難し。船あやうくして紙を水にひた(浸)せるが如し。男は山かつ、女は山母(やまうば)の如し。道は縄の如くほそく、木は草の如くしげし。かかる所へ尋ね入らせ給いて候事、何なる宿習なるらん。釈迦仏は御手を引き、帝釈は馬となり、梵王は身に随ひ、日月は眼となりかはらせ給いて入らせ給いけるにや。ありがたし・ありがたし。事多しと申せども此の程風おこりて身苦しく候間、留め候い畢んぬ。

 弘安二年己卯五月二日   日 蓮 花押

 新池殿御返事




by johsei1129 | 2019-11-12 21:55 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)


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