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日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 11月 30日

百五、本門弘通の大導師

               英語版
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            (富士宮から見る富士山)

 日興は生前、師の日蓮と同じように後継者として六人の弟子を定めている。
 この事は永仁六年(一二九八年)に述作した『弟子分本尊目録』に、日興第一の弟子として六名の名が記載されている。尚、ここでの日興第一の弟子とは、日興が認めた優れた弟子の意で、日興は南条時光にも、日興第一の弟子として日蓮に御本尊の授与を願い出ている。

日興は文永十一年二十四歳の時、南条時光の甥であった十五歳の日目に出会っている。師匠日蓮が五十三歳で身延山中に草庵を構えたときである。そしてこの二年後の建治二年四月八日、釈尊の生誕日に日興は日目を得度した。
 晴れて日興の弟子となった日目だったが、日興はその年の十一月二十四日、早々と日目を身延の大聖人の元で常随(じょうずい)給仕(きゅうじ)させた。おそらく日目の資質を見極め、自分の後を(ゆだ)ねるのは日目であると決断し、自分と同じ道を歩ませようと考えてのことだと推察される。

日興は元弘二年(一三三二年)十一月十日「日興跡条条事」で、日蓮から付属された「日蓮一期の弘法」を日目に付属する旨を記した。

一、本門寺建立の時は新田(にいだ)(きょう)阿闍(あじゃ)()日目を座主(ざす)と為し、日本国乃至(いち)閻浮提(えんぶだい)の内、山寺等に()いて、半分は日目嫡子分(ちゃくしぶん)として管領せしむべし、残るところの半分は自余の大衆等之れを領掌(りょうしょう)すべし。
一、日興が身に()て給はるところの弘安二年の大御本尊は日目に之れを相伝す、本門寺に()け奉るべし。
一、大石寺は御堂(みどう)と云い墓所(むしょ)と云い、日目之れを管領し、修理を加え勤行を致し広宣流布を待つべきなり。
 右日目は十五の(とし)、日興に()い法華を信じてより以来、七十三才の老体に至るも()えて違失の義無し。十七の(とし)、日蓮聖人の所に詣で(甲州身延山)御在生七年の間常随給仕し、御遷化(ごせんげ)の後、弘安八年より元徳二年に至る五十年の間、奏聞(そうもん)の功他に異なるに依つて此くの如く書き置くところなり、()つて後の()め証状(くだん)の如し。
十一月十日        日  興 判


本抄の最後に日興は日目を後継者として定めた理由を明確に記している。

この文言は、日蓮が「百六箇抄」の末尾に、六老僧の中で日興を唯受(ゆいじゅ)一人(いちにん)の後継者に定めた由縁(ゆえん)を記した次の文言を彷彿(ほうふつ)させる。


就中(なかんづく)六人の(ゆい)(てい)を定むる表事は、先先に沙汰(さた)するが如し云云。(ただ)直授(じきじゅ)(けつ)(ちょう)付属は唯一人なり。白蓮阿闍(あじゃ)()日興を以て(そう)貫首(かんず)と為し、日蓮が正義(ことごと)く以て毛頭(ほど)も之れを残さず、悉く付属せしめ(おわ)んぬ。上首已下並に末弟等異論無く(じん)未来際に至るまで、予が存日の如く、日興嫡嫡(ちゃくちゃく)付法の上人を以て惣貫首と仰ぐ可き者なり。

又五人並に已下の諸僧等、日本乃至一閻浮提(えんぶだい)の外・万国に之を流布(るふ)せしむと雖も、日興が嫡嫡相承の曼荼羅(まんだら)を以て本堂の正本尊と為す可きなり。所以(ゆえん)(いかん)、在世・滅後(こと)なりと雖も付属の儀式(これ)同じ。譬えば四大六万の(じき)(てい)の本眷属(けんぞく)有りと雖も、上行(さつた)を以て(けつ)(ちょう)付属の大導師と定むるが如し。今以つて是くの如し。六人以下数輩の弟子有りと雖も、日興を以て結要付属の大将と定むる者なり。

(こう)(ちょう)配流(はいる)の日も、文永流罪(るざい)の時も、其の外諸処の大難の折節(おりふし)も、先陣をかけ、日蓮に影の形に随うが如くせしなり。誰か之を疑わんや。

延山(えんざん)地頭発心の根元は日興(きょう)()の力用なり。遁世(とんせ)の事、甲斐の国()(まき)は日興(こん)()の故なり。


日興はこうして日蓮の法義を寸分違わず踏襲し次の世代日目に相承、広宣流布の血脈(けちみゃく)を絶やすことなく次の世代に引き継いだまた日興は八十八歳と長命で、自ら定めた六老僧の多くに先立たれたため、滅度する直前に新六老僧を定め、令法(りょうぼう)()(じゅう)を確かなものとしている。その新六老僧の名前は大石寺十七世日精上人の「家中抄」に日代(西山本門寺開基)、日澄(重須(おもす)初代学頭)、日道(大石寺四世)、日妙(北山本門寺二世)日毫(にちごう)(保田妙本寺開基)、日助(重須西之坊開基)と記されている。


師の日蓮は生前、日興のことを

「万年救護(くご)(しゃ)(びょう)の弟子」

と呼び

(けっ)(ちょう)付属の大導師」

とも呼んだ。

写瓶とは(かめ)の水をそのままうつすように、法の水をあやまたず後世に伝えることをいう。

結要付属とは釈迦が法華経において地涌(じゆ)千界の上首、上行菩薩に末法の要法をさずけた儀式をいう。

結要とは南無妙法蓮華経の題目である。

日蓮は日興を結要の法をそなえた大導師と呼んだ。日蓮の目にくるいはなかったのだ。そしてその日興は後を託した日目を「一閻浮提の御座主」と呼んだ。

ここで波木井(はきり)氏のその後をしるす。

南部氏ともいわれた波木井氏は鎌倉幕府滅亡後、南北朝の争乱にまきこまれた。かれらは後醍醐天皇の南朝側について戦ったが、南朝は足利尊氏率いる北朝に敗れた。南北朝の統一後も、南部氏は足利ひきいる北朝に臣従の態度を見せなかった。

こうして一三九三年、南部一族はついに甲斐の所領のいっさいを捨て、はるか東北に去っていった。日興離山後、百四年目のことである。

また波木井氏の中に日蓮がのこした身延山久遠寺を守る一族がいたが、一五二七年、武田信玄の父信虎によって討伐され、波木井氏は完全に滅亡した。理由は波木井が隣国の駿河今川氏に内通したというかどだった。「自業自得果」「還著於(げんちゃくお)本人(ほんにん)」の経文どおりあろう。


日興は日蓮滅後五十二年後の元弘三年(一三三三)二月七日、八十八歳で世を去った。

伊豆、佐渡と、過酷な流罪地を日蓮とともに過ごした事、さらに飢饉・疫病が蔓延(まんえん)したこの頃の時代状況を考慮すると、驚くべきほど長命だったと言える。

この時、五老僧はすでにこの世にはいなかった。

最長老の日昭は日興に先立つこと十年前に八十八歳で亡くなった。日朗は十三年前七十六歳で亡くなり、日頂は十六年前に六十六歳で、日向は十九年前に六十二歳で生涯を終えている。尚、日持は(から)(ふともしくは蝦夷(えぞ)地で亡くなったと思われる。

この前年の五月一日には、熱原の法難でともに戦い、出家僧と在家信徒という関係を超えた生涯の法友ともいえる南条時光が七十四歳で生涯を終えている。

日興が長命たり得たのは、師日蓮の(ゆい)(めい)である本門の戒壇を大日蓮華山富士の(ふもと)、大石が原に実現すべく、その確実な礎が築かれるのを見とどける使命があったからだと強く推察される。


元弘三年は内外ともに大事件がおきた年である。
 四月十六日には日興の死をまっていたように、足利尊氏が北条幕府に反旗をひるがえした。五月二十一日には新田義貞が鎌倉をおとしいれ、翌日に北条氏は滅ぶ。六月五日、天皇後醍醐は京都に還幸し、建武の新政がはじまった。そして十一月十五日、日興のあとをついだ三祖日目が天奏のため京都に旅立つがその途上、美濃(たる)()の地であえなく入滅、後代の弟子に永遠の範をしめした。

日興は臨終の時、まどろみながら師の日蓮を思った。八十八年の星霜が流れたが、不思議なことに師の思い出しかのこっていない。

十二歳で師に出会い、日興の名をうけた。いらい鎌倉、伊豆、佐渡、甲州と身と影のごとく日蓮に付きしたがった。あの充実が今も胸にやどる。

思えば師匠日蓮は苦悩をよろこびにかえ、大衆を希望にみちびく雄大な人格だった。その人のそばにいた幸せ。日興にとってこの悦びは未来永劫に消えない。

同時に日興は切なさにつつまれた。

「ああ、いつまた聖人に会えるのだろう・・」

四条金吾が竜の口で別れの惜しさに泣いたというが、日興もまた同じだった。

日興は師がのこした本尊に祈る。

法華経化城喩品には、つぎの偈がある。

彼仏滅度後   彼の仏の滅度の後

是諸聞法者   是の諸の法を聞きし者は

在々(ざいざい)諸仏土  在在(ここかしこ)の諸の仏土に

常与師倶生(じょうよしぐしょう)   常に師と(とも)に生ぜん

 つぎの世でも師とともに、おなじ仏国土に生まれ、めぐりあうという。

日興はこの経文を命に刻み、題目をとなえた。乾いた大地が慈雨を求めるように、師にまた会いたいとひたすら渇仰した。

日興はさらに思う。

「それにしても、この世でよくぞ師匠にお会いできたものだ。師があの岩本実相寺をおとずれなければ、いまの自分はなかった。いや永劫の時の中で、よくぞ師とめぐり会えたものだ。仏法に奇跡はないというが、これほどの偶然がまたとあるだろうか。三千年に一度咲く優曇(うどん)()の花を見るよりも、一眼の亀が大海の浮き木に出会うよりもまれではないか。自分はなんという幸せ者か」

上野郷の夜は満天の星空だった。

日興はこの大宇宙に存在する確かな一つの当体として、己自身を見つめていた。


                  
         百六 日興遺誡置文 につづく


下巻目次

                                        




by johsei1129 | 2014-11-30 15:31 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)


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