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日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 11月 30日

百二、五老僧の邪義

さて日蓮没後、(さね)(なが)(たが)がはずれたかのようにつぎつぎと謗法をおかしていく。実長は日蓮の法義を軽く見ていた。

やがて其の次に南部郷の内福士の塔供養の奉加(ほうが)に入らせをはしまし候、以っての外の僻事(ひがごと)に候、(そう)じて此の廿(にじゅう)余年の間、()(さい)法師、影をだに指さざりつるに御信心如何様(いかよう)にも弱く成らせ給ひたる事の候にこそ候ぬれ。』

南部郷の内福士の塔供養とは波木井領の福士に建てられた念仏の石塔の事である。

現存はしない。奈良時代から鎌倉時代にかけて、富士山に登って法悦を得ようとする行者の修行が発展して山中や山麓に道場が建ち、記念の石塔がつくられた。

実長はこれを支援した。謗法の供養である。

この二十年、邪宗の僧が身延山に入ったことはなかった。いまそれが破られたのだ。実長は奉加帳にはっきりと自分の名をしるした。彼は自慢したろうが、日興の目には師日蓮の教えと(たが)てしまったとしか映らなかった。

日興はいう。これら謗法の所以は、まったく五老僧の一人、民部(みんぶ)日向(にこう)の堕落からきたものであると。

『是と申すは彼の民部阿闍梨世間の欲心深くして、へつらひ(てん)(ごく)したる僧、聖人の御法門を立つるまでは思ひも寄らず(おおい)に破らんずる(ひと)よと此の二三年見つめ候て、さりながら折々は法門の曲りける事を(いわ)れ無き由を申し候つれども(あえ)て用ひず候、今年の大師講にも(けい)(びゃく)の祈願に天長地久(ちきゅう)御願(ごがん)円満、左右大臣文武百官、各願成就(じょうじゅ)とし給ひ候ひしを此の(いのり)は当時(いた)すべからずと再三申し候しに(いかで)か国の恩をば知り給はざるべく候とて制止を破り給ひ候し間、日興は今年問答講(つかまつ)らず候き(原殿書)』

日興はしばしば訓戒を垂れたが、日向は聞く耳をもたない。日向の祈りは悪を退治しないで世界平和を祈るのとおなじである。国のためを思うならば、(こうべ)を破る折伏しか方法はないのだ。

日興としても、自分とともに弘教に励んだ日向を簡単に処分することはためらった。いつかは目ざめるかもしれないからだ。釈迦が提婆逹多をさとし、日蓮が三位房を訓戒したのとおなじである。残念ながら二人は退転し報いをうける。

地頭実長は最後に釈迦の仏像をつくるという謗法をおかす。

日興は破折した。師の本懐である三大秘法の文字曼荼羅の御本尊を安置し、題目を唱えるのが日蓮の遺志を継ぐことであると。

()()()()()()()()()()()()()()『聖人の文字にてあそばして候を御安置候べし、いかに聖人御出世の本懐、南無妙法蓮華経の教主釈尊の木像を最前には破らせ給ふ可きと()ひて申して候し(原殿書)』

「教主釈尊の木像」とは御本尊のことである。にもかかわらず実長は日朗に奪いさられた仏像を再現しようとした。日興は師日蓮の御本尊のほかに信心の対象はないといさめたが、実長は聞かない。


 こうして日蓮亡きあと、正法の破壊がはじまった。

釈尊の弟子にもこれと似た逸話がある。

釈迦が入滅して四十年のことだった。

十大弟子の一人、阿難はすでに老齢の域に達していた。

彼はとある竹林の中にはいった。

そこに一人の比丘(びく)がいるのをみとめた。この比丘は一つの法句をとなえていた。

()し人生じて百歳なりとも水の潦涸(ろうかく)を見ずんば、生じて一日にして之を賭見(とけん)することを得るに()かず。

潦涸とは生滅をいう、賭見は見ることである。水がたまり、蒸発するのを見なければ、生きている甲斐がないという意味である。比丘はこんなつまらない法句をくりかえし唱えていた。

阿難は比丘を破折(はしゃく)した。

「これは仏説ではない。汝は修行してはならない」

比丘は聞いた。

「では仏はなんと説かれたのですか」

阿難はこたえた。

  若し人生じて百歳なりとも生滅の法を()せずんば、生じて一日にして之を解了(げりょう)することを()んには()かず。

「これが仏説である。汝が唱えたのはこれを誤ったのだ」

比丘はこのことを自分の師匠に語った。

師は答えた。

「余が汝に教えたのは、まことの仏説である。阿難がとなえたのは仏説ではない。阿難は老衰して言葉にあやまりが多い。信じてはならぬ」

この比丘は阿難の教えを捨て、もとの誤った法句を唱えた。

阿難はふたたびおとずれた竹林でこれを聞きおどろいた。

「わたしが教えたものではない」

阿難はかさねて比丘にさとしたが、比丘は信用しなかった。阿難は亡き釈尊を思い、なげいたという。釈迦の死後わずか四十年の出来事だった。

かつて日蓮はこの故事を引き、法をあやまりなく伝えていくことが、いかに困難かを説いている。あたかも今の身延山の惨状を予言しているかのように。くわえてこの窮状に苦しむ日興をなぐさめるかのように。

仏の滅後四十年にさえ既に(あやま)出来(しゅったい)せり、(いか)(いわ)んや仏の滅後既に二千余年を過ぎたり、仏法天竺より唐土に至り唐土より日本に至る論師(ろんし)・三蔵・人師等伝来せり、定めて謬り無き法は万が一なるか、(いか)(いわん)や当世の学者・(へん)(しゅう)を先と為して我慢を(さしはさ)み、火を水と(あらそ)い之を(ただ)さず(たまたま)仏の教の如く教を()ぶる学者をも之を信用せず、故に謗法(ほうぼう)ならざる者は万が一なるか。十法界明因果抄

正法をたもつ者は万の中の一という。日興は身にしみて師の教えを思いだしていた。

それにしてもこのままでは師の正義が消えうせてしまう。訓戒しても地頭実長は聞く耳をもたない。もはや一つ所に住める相手ではなくなっていた。

日興は師の遺言を思いだしていた。


地頭の不法ならん時は我れも住むまじき由、御遺言とは承り候  富要第五巻『美作公御房御返事


日興はかつて日蓮からこの言葉をきいた時、まさか実長が謗法を犯すなどとは思いもよらなかった。実長は自分が折伏した人である。化導にも自信があった。なおかつ日蓮にも従順だったのだ。それが師亡きあと、人がかわったように反逆しようとは。

日興がこれ以上に憤ったのは、六老僧の一人日向(にこう)が波木井の謗法を容認したことだった。日向は熱原の法難の時、日興とともに戦いの矢面に立った人物である。教団内の人望もあった。日興でさえ、ひさびさに身延にかえってきた時、よろこんで要職につけたほどだったのだ。実長はこの日向を盾にして日興に対抗した。

日向は日蓮の法門を理解していなかった。題目を唱えれば、すべて許されるというのが彼の考えである。本尊は釈迦にしてもよい。神社参詣も自由である。こうなれば念仏を唱えても、真言を呪しても、座禅を組んでも、律を固持してもよいことになっていく。

日向は波木井に教えた。妙法をたもてばすべて許され、正も邪もなくなると。日向の法門の理解度が知れよう。

かたや師の日蓮は正邪をきびしく分けよといった。

又立つ浪吹く風・万物に()いて本迹(ほんじゃく)を分け勝劣を弁ず可きなり   富要第一巻『百六箇抄

日向は一切経を本迹に立て分け勝劣を極める日蓮の教えを追及することはなかった。おそらく百人前後になんなんとする日蓮の弟子の中から、六老僧と指名された弟子でさえ、このありさまだった。日興をのぞいた五老僧は日蓮を単に法華経の行者としか見ていなかった。日蓮が末法の本仏などと想像だにしていなかった。

日興はこの経緯について悲憤をこめてしるす。

(そう)じて此の事は三の子細にて候、一には安国論の正意破れ候ぬ、二には久遠(くおん)(じつ)(じょう)の釈尊の木像最前に破れ候、三には謗法の()始めて(ほどこ)され候ぬ、此の事共に入道殿の御(とが)にては渡らせ給ひ候はず、(ひとえ)謟曲(てんごく)したる法師の(とが)にて候へば(おぼ)()しなをさせ給ひ候て、自今以後安国論の如く聖人の御存知在世廿(にじゅう)年の様に信じ(まいら)せ候べしと改心の御状をあそばして()(えい)の御宝前に進らせさせ給へと申し候を御信用候はぬ上、軽しめたりとや思し食し候ひつらん、我れは民部(みんぶ)阿闍(あじゃ)()を師匠にしたるなりと仰せの由承り候し間、さては法花経の御信心逆に成り候ひぬ。




           百三、正義を伝うる者 につづく


下巻目次



by johsei1129 | 2014-11-30 15:21 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)


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