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日蓮大聖人『御書』解説

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2014年 11月 30日

百一、 身延の地頭、波木井実長の謗法

英語版


身延の地頭、波木井(はきり)(さね)(なが)が信心に目ざめたのは日興の折伏による。日蓮が身延に居を移したのは日興の力があった。これはすでに述べた。このことはだれも口をはさむことはできない。

伯耆房日興が日蓮に出会ったのは、十二歳の時だった。いらい日蓮を親とも主とも師とも慕って今日まできた。日興は師亡きあと、教団の統率者として師の教えを忠実に守り、後世に伝えようとした。弟子の育成にも必死だった。

だが時の経過とともに日興からはなれていく者がでてきた。師の日蓮は「身はをちねども心をち(あるい)は心は・おちねども身はおちぬ」の言葉をのこし、信念を続けることがいかに困難かを説いていた。このことは日蓮の死後にも現実化した。


 日蓮滅後の翌年、一月下旬、遺弟等により百箇日忌法要が営まれた。この時、六老僧の内、参集したのは日興、日昭、日持の三名で、この時「墓所可守番帳事」が作成された。日興が記した正本は現在西山本門寺に所蔵されている。

 この内容は次のとおりである。(日文字法号は当方で追記)


 墓所可守番帳事


 正月  弁阿闍梨 (日昭)

 二月  大国阿闍梨 (日朗)

 三月  越前公 (日辯)

     淡路公 (日賢)

 四月  伊与公 (日頂)

 五月  蓮花阿闍梨(日持)

 六月  越後公(日賢)

 下野公 (日忍)

 七月  伊賀公

     筑前 (日合)

 八月  和泉公(日法)

 治部公 (日位)

 九月  白蓮阿闍梨 (日興)

 十月  但馬公(日實)

 卿公 (日目)

 十一月 佐土公 (日向)

 十二月 丹波公(日秀)

 寂日房 (日家)

 右守番帳次第無懈怠可令勤仕之状如件

 弘安六年正月 日


しかし「墓所可守番帳事」の取り決めにも関わらず、日興以外の五人は三年とたたずに身延を訪れることはなかった。

日昭は相模浜土へ、日朗は鎌倉へ、日頂は下総へ下っていった。彼らは若僧をつれて去ってしまった。

予想していたとおりだった。わずか三年で日蓮の墓は荒れはてる。

何事よりも身延沢の御墓の荒れはて候て鹿かせきの(ひづめ)(まのあ)たり(かか)らせ給ひ候事、目も当てられぬ事に候 『美作公御房御返事

日蓮の墓は鹿のひづめで荒廃していたのである。信じられない話だが、だれも手をつける者がいない。
 日興の困難はさらにつづく。

日興は師亡きあと、九年のあいだ身延山に住み法を弘めたが、地頭波木井実長の邪義のため、離山を余儀なくされた。

波木井の邪義とは四つあった。日興は後世のために、波木井の謗法について次のように書き残している。

釈迦如来を造立(ぞうりゅう)供養して本尊と()し奉るべし、是一。

次に聖人御在生九箇年の間停止(ちょうじ)せらるゝ神社参詣其の年に之を始む、二所(にしょ)三島(みしま)に参詣を致せり、是二。

次に一門の勧進(かんじん)と号して南部の郷内のふく()()の塔を供養奉加(ほうが)之有り、是三。

次に一門仏事の助成と号して九品(くほん)念仏の道場一宇を造立し荘厳(しょうごん)せり、甲斐国其の処なり、是四。

已上四箇条の謗法を教訓する義に云はく、日向(にこう)これを許す云々。この義に依って()ぬる其の年月、彼の波木井入道並びに子孫と永く以て師弟の義を絶し(おわ)んぬ。仍って御廟(ごびょう)(あい)(つう)ぜざるなり。  『富士一跡門徒御存知の事
  

波木井の所行は日蓮の教義とあい容れない。波木井は日蓮と同じ土地に住みながらも日蓮の精神を理解できなかった。

本尊は釈迦ではなく妙法の七字を建立する。神社参拝は災いをうける。善神はすでに社を去り、悪鬼のみがのこっているからだ。立正安国論のとおりである。まして念仏の建物を建て供養するなど、なにをかいわんやである。

さらに信じがたいのは、この邪義を五老僧の一人、民部日向が許したということだった。

日興はこの数々の謗法を『原殿御返事(以下原殿書)』に克明に記録している。以下はそれをたどってみることにする。

日興は最初、波木井の所行に愕然とした。

(そもそも)此の事の根源は去る十一月の(ころ)、南部孫三郎殿、此の御経聴聞のため入堂候の処に此の殿入道の(おおせ)と候て念仏無間(むけん)地獄の由聴き給はしめ奉る可く候なり、此の国に守護の善神無しと云ふ事云はるべからずと承り候し間、是れこそ存の(ほか)の次第に覚え候へ、入道殿の御心替らせ給ひ候かと、はつと推せられ候(原殿書)

日蓮滅後六年目の正応元年十一月の頃という。日興四十一歳のことである。

波木井一族の南部孫三郎という者が参詣し、実長の言葉を伝えた。

実長は日蓮がとなえた念仏無間地獄の義は了解したが、この国に守護の善神がいないことは納得できないという。神社参詣を肯定するかのような発言だった。日興ははじめて聞く地頭の唐突な言葉に衝撃をうけた。

日興は懸命に孫三郎を説得した。いま神社には悪鬼しか住みついていない。これは亡き師日蓮の教えではないか。

しかし実長と同心の孫三郎は納得しない。

ここで孫三郎は重大なことをいった。この神社参詣について、身延と鎌倉で異論がおこっているというのである。

『孫三郎殿、念仏無間の事は深く信仰(つかまつ)り候(おわん)ぬ、守護の善神此の国を捨去(しゃこ)すと云ふ事は不審未だ晴れず候、其の故は鎌倉に御座(おわ)し候御弟子は諸神此の国を守り給ふ(もっと)も参詣すべく候、身延山の御弟子は堅固に守護神此の国に無き由を仰せ立てらる条、日蓮阿闍梨は入滅候、誰に()ってか実否を決す可く候と(くわ)しく不審せられ候(原殿書)』

当時、鎌倉の弟子たちは神社参拝を認め、日興のいる身延は断固として認めなかった。

日興の強い教導にも関わらず孫三郎の迷走は止まらない。

孫三郎の言い分は「師の日蓮はすでにこの世を去った。神社参りが是か非かは決められないではないか。根本の師が世を去ったのだ。それならば新たな法義を立てるべきだ」といいたいのである。心中に後継者の日興を軽視する態度がみえる。

日興はこれにたいし、すべては師日蓮の遺言をもとに判断すべきであると訴える。いわゆる立正安国論をはじめとした御書とよばれる指針である。

『二人の弟子の相違を定め玉ふべき事候、師匠は入滅候と申せども其の遺条(ゆいじょう)候なり、立正安国論是れなり、私にても候はず三代に披露し玉ひ候と申して候しかども尚御心中不明に候て御帰り候ひ畢んぬ。(原殿書)』

日興は熱をこめて説いたが、孫三郎は疑念をいだいたまま帰ってしまった。

日蓮滅後わずか六年後にして、早くも日蓮の法義が危うくなっていたのには驚かされる。神社参詣についても宗門の中で意見がわかれていたのである。

この遠因は孫三郎が三島の神社に参詣しようとしたことがはじまりだった。日興はこれを聞き、夜半おなじ波木井一族の弟子である越後公をつかわして叱責した。

『是れと申し候は此の殿三島の社に参詣渡らせ給ふべしと承り候し(あいだ)夜半に出で候て越後公を以ていかに此の法門安国論の正意、日蓮聖人の大願をば破し給ふ可きを御存知ばし渡らせをはしまさず候かと申して永く留め(まい)らする(原殿書)』

三島とは静岡県三島市伝馬町にある三島神社のことである。かつて源頼朝が平家追討の挙兵にあたって戦勝を祈願した。いらい鎌倉幕府の崇拝をうけ、伊豆山神社とともにニ所(もうで)として毎年正月、将軍自らが参詣した。そのため多くの武士の崇拝をうけていた。

孫三郎も幕府の一員として気軽に参賀しようとしたのである。

日興はこれをきびしく叱った。

あなたはなぜ日蓮聖人の御心を御存知ないのか。神社不敬は師日蓮の法義であることを、なぜわからないのか。

孫三郎は甲斐源氏の血をひく名門南部氏の一人である。日興の忠告はおもしろくない。

この出来事が実長の耳に入った。ここで実長は五老僧の一人民部日向(にこう)の意見をきいた。

驚くことに日向は日興の義をしりぞけた。

彼いわく、日興は師匠日蓮の法門を理解しておらず、仏法の極みを知らないという。

()『民部阿闍梨に問わせ給い候いける程に、御返事申され候ける事は、守護の善神此の国を去ると申す事は安国論の一篇にて候へども、白蓮阿闍梨()(てん)(よみ)に片方を読んで至極を知らざる者にて候、法華の行者参詣せば諸神も彼の社壇に(らい)()す可し(もっと)も参詣す可し(原殿書)』

日興は実長に直談判して神社参詣を問いただしたが、実長はこれを日向の教えであると反論した。日向と実長は身延山の主である日興を見下していた。

日向は五老僧の中でただ一人、甲斐にもどってきていた。日興は喜んで彼を学頭職につけている。日興と日向とは熱原の法難で苦楽をともにした仲だったのだ。うれしくないはずがない。学頭とは僧侶教育の要職である。その日向が日蓮の法義を曲げようとしていたのである。

日興にとって神社不参拝は当たり前のことである。このことは日蓮のもとで幾度も薫陶を受けていた。耳には今も日蓮の言葉がのこる。

其の上此の国は謗法の土なれば、守護の善神法味に()へて(やしろ)をすて天に上り給へば、悪鬼入り()はりて多くの人を導く。仏陀は化をやめて寂光土へ帰り給へば、堂塔寺社は(いたずら)に魔縁の(すみか)と成りぬ。国の(つい)え民の(なげ)きにて、い()かを並べたる計りなり。(これ)私の言にあらず経文にこれあり、習ふべし。諸仏も諸神も謗法の供養をば全く()け取り給はず、况んや人間としてこれを()くべきや。 『新池御書



                   百二、 五老僧の邪義  につづく


by johsei1129 | 2014-11-30 15:13 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)


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