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日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 09月 19日

九十七、身延下山

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                      身延山

 日蓮の病状は悪化していくばかりだった。

弘安五年九月、日蓮はついに下山を決意した。九年すごした身延山を去ることにしたのである。この約九か月前の弘安四年十一月二十四日には、十間四面の大坊が完成したばかりだった。下山の理由は常陸(ひたち)の国に湯治に行くためという。
 日蓮は自身がそう遠くない日に遷化することは自覚していた。その場合、身延の僧坊ではあまりに地の利が悪い。また幼い所化たちが日々仏道修行に励んでいる。それに差し障りがあることは避けなければならない。また多くの信徒が集まるには鎌倉の信徒の大きな屋敷が良い。
 釈尊は自身の滅度の後、荼毘(だび)に付し遺骨を分けて舎利(しゃり)塔を立てることを遺言していた。しかしそれらの諸事は
()()(そく)()()()、つまり在家の男女信徒に任せるよう弟子たちに話している。弟子はあくまで修行、布教を続けなさいという意味である。鎌倉の信徒で大きな屋敷と言えば作事奉行、池上宗仲の屋敷であった。もし不穏なことが起きたとしても、幕府直轄の作事奉行の屋敷に手を出すことは考えられない。常陸の国の湯治とは、地主として長年世話になった波木井(はきり)(さね)(なが)(おもんぱか)ってのことだろうと思われる。

日蓮が弟子に担がれ栗毛の馬にのった。伯耆房らの弟子たちがきびしい表情でついた。常陸まで何日かかるのか。病身の日蓮にとって決して楽な旅ではない。

地頭の波木井(はきり)(さね)(なが)は突然の知らせにおどろいたが日蓮の意思はかたい。波木井はあきらめて自分の子を付添いとし同行させた。

出発の時、実長はなおもいった。

「上人。なにも急いで発たれることはないのではありませぬか。もう少しゆるりとされては」

日蓮が弱々しく首をふった。

「病気でありますからもしやのこともありましょう。さりながら日本国の多くが扱いかねるわが身を、九年まで外護していただいた志は申すばかりもございませぬ。いずこにて死ぬるとも、墓はこの身延の沢といたしまする」

日蓮は一時の家主であった実長に深々と頭をさげた。しかし実情は違っていた。日蓮はこの九年間、飢えと寒さに苦しんだ。地主の実長は日蓮の窮状に無頓着だった。後代の信徒は波木井の冷淡さを非難している。だが日蓮は実長にいっさいの不平をもらさなかった。

九月八日、一行が山をおりた。波木井実長が呆然と見送った。

一行は人気のない道をすすんだ。日蓮が下山するとあってはどんなさわぎがおきるか知れない。一行を指揮する伯耆房は身を隠すように()山道を選んだ。

身延山の急な坂を下る。

日蓮が眠るように馬にのっている。伯耆房が手綱をはなさず見守った。

さらに一行は富士川をこえる。

日蓮は弟子に背負われて川をこえた。

彼らは武蔵野にでた。一行が壮大な夕日を背にすすむ。

富士山がしだいに小さくなっていった。

武蔵の池上宗仲邸は林にかこまれた武家屋敷だった。今の東京都大田区である。

身延出立から十日後の九月十八日、日蓮は敬愛する信徒、宗仲の屋敷にたどりついた。

宗仲は弟の宗長とそろって門に立っていた。二人は師を自らの屋敷に迎える喜びは大きかったが、師の病を考えると手放しでは喜べない。しかし二人は精いっぱいの笑顔で日蓮を出迎えた。

日蓮が兄弟の笑顔を見てわずかにほほえんだ。

「お世話になり申す」

かつてきびしく指導した兄弟に深々と頭をさげた。

日蓮はこの武蔵から甲斐の波木井に生涯最後の手紙をおくった。かつての家主にこまやかな配慮がよみとれる。

(かしこ)み申し候。みち()ほど()べち()事候はで、池上までつきて候。みちの間、山と申し、かわ()と申し、そこばく大事にて候ひけるを、きう()だち()()護せられまいらせ候ひて、難もなくこれまでつきて候事、をそれ入り候ながら悦び存じ候。さてはやがて()へりまいり候はんずる道にて候へども、所()うの()にて候へば、不ぢ()うなることも候はんずらん。さりながらも日本国にそこばくもてあつかうて候()を、九年まで御きえ(帰依)候ひぬる御心ざし申すばかりなく候へば、いづくにて死に候とも()かをば()のぶさわ(延沢)にせさせ候べく候。又くり()かげ(鹿毛)の御馬はあまり()しろ()くをぼへ候程に、いつまでもうし()なふまじく候。ひたち(常陸)()()かせ候はんと思ひ候が、もし人にもぞとられ候はん。又そのほか()いたはしくをぼへば、()よりかへり候はんほど、かづさ(上総)もばら(藻原)殿のもとにあづけをきたてまつるべく候に、しらぬ()ねり()をつけて候ひては、()ぼつか()なくをぼへ候。まかりかへり候はんまで、此の()ねり()()けをき候はんとぞんじ候。そのやうを御ぞんぢのために申し候。恐々謹言。

九月十九日          日蓮

進上 波木井殿御侍

()うのあいだ、はん()()うをく()へず候事、恐れ入って候。 『波木井殿御報            

やっとのことで池上に到着した。九年のあいだ養われたことは感謝にたえない。ついては、いずこの地で死のうと墓は身延におくといっている。また栗毛の馬がひときわ気にいったので馬使いをつけた。存知のために前もってお知らせしたという。当時、馬泥棒が頻発していた。

さらに病気のために自分の印、すなわち花押をしるすことができないことをわびている。なんという腰の低さだろう。


 日蓮が池上宗仲邸に入ってまもなく事件が起きた。
 幕府役人・二階堂伊勢守の子で比叡山学僧・二階堂伊勢法印が、日蓮が滞在していることを聞きつけ、池上宗仲邸に大勢の供を引き連れ、法論をいどんできたのである。その時日蓮は「卿公に相手させよ」と言いつけ、問答に勝れた日目上人が日蓮の身代わりで伊勢法印と問答に臨むことになった。
 問答は、第一番の「即往安楽世界、阿弥陀仏」の経文に始まり、十番ほど行われたが、全て法印を
屈伏させたという。この結果についは日蓮もさぞ満足したものと思われる。
 日蓮は日目を極めて重要視していた。後を託した日興は別格としても、他の五老僧よりもむしろ日目を重要視している。
 そのことがよくわかるのは日目に下付した御本尊にある。

 日蓮は弘安二年二月、日目に御本尊を下付している。他の弟子には授与名を「沙門○○授与之」と図現した年月を右脇に小さくしたためているが、それに対し、日目に下付した御本尊には「釈子日目授与之」と右側にほとんど中央の日蓮の文字と同じ大きさで明確にしたためている。弘安三年十一月に下付した日昭にも釈子日昭伝之と左下に記しているが極めて小さい。
 おそらく日蓮は、日目は日興の後継者となり、三代で日本広布の基礎を築くことができると確信していたと思われる。


          九十八、日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興へ相承 につづく


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by johsei1129 | 2017-09-19 22:07 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)


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