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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 12月 14日

九十六、妙覚の山

英語版
九十六、妙覚の山_f0301354_21561249.jpg
     チョモランマ(エベレスト) Wikipedia より
      

身延の草庵はひっそりとしていた。

伯耆房が日蓮の部屋にはいった。

朝餉(あさげ)の支度ができました。南条殿が供養されました米をたいて・・」

伯耆房は日蓮が本尊の前で倒れているのを見た。

「お師匠」

伯耆房があわてて日蓮をだきおこす。

「だれか」


 人間だれしもかならず一度は臨終をむかえる。死は不吉だとか、死は思いたくもないとしても、のがれた者はだれもいない。生の行く末が死だと思えば、人生ははかないということになるが、死をむかえる覚悟をしたうえで、ひるがえって生を考えれば、有意義な人生をおくることができる。

 しかし人はそれに気づかない。

日蓮は信徒の松野六郎左衛門入道に手紙をおくった。松野殿は駿河国庵原郡松野の人である。娘が南条時光の父兵衛に嫁いだ縁によって日蓮に帰依した。

子供が多くいる。蓮華寺を建立した長男の六郎左衛門尉、日蓮の高弟でのちの六老僧の一人となる日持そして南条家に嫁いだ娘が知られている。

消息から推測すると、松野はかなり教養の深い人だったと思われる。また彼は日蓮と同年輩だった。それだけに日蓮は松野に親しみをこめ、妙法をたもつ者の生き方を訴える。おなじ老いをむかえる者への手紙である。


 種々の物送り給び候
(おわ)んぬ。山中のすま(住居)ゐ思ひ()らせ給ふて、雪の中ふみ分けて御訪(おんとぶら)ひ候事 御 志( おんこころざし)定めて法華経・(じゅう)羅刹(らせつ)( し)ろし()し候らん。さては涅槃経に云はく「人命の(とど)まらざることは山水にも過ぎたり。今日(こんにち)(そん)すと(いえど)も明日(たも)ち難し」文。摩耶(まや)経に云はく「譬へば旃陀(せんだ)()の羊を()って()()に至るが如く、人命も亦是くの如く歩々(ほほ)死地に近づく」文。法華経に云はく「三界は安きこと無し、(なお)火宅の如し。(しゅう)()充満(じゅうまん)して(はなは)怖畏(ふい)すべし」等云々。此等の経文は我等が慈父大覚世尊、末代の凡夫(ぼんぷ)をいさめ給ひ、いとけなき子どもをさし驚かし給へる経文なり。(しか)りと(いえど)須臾(しゅゆ)も驚く心なく、刹那(せつな)も道心を()こざす、野辺(のべ)に捨てられなば一夜の中にはだかになるべき身をかざ()らんがために、いとまを入れ衣を(かさ)ねんとはげ()む。命終はりなば三日の内に水と成りて流れ、(ちり)と成りて地にまじはり、煙と成りて天にのぼり、あと()もみへずなるべき身を(やしな)はんとて多くの(たから)たく()はふ。    『松野殿御返事
 

われわれは屠殺場へおもむく羊であるという。またこの世界は火炎が充満する苦しみの世界であると。

現代の文明は死から逃避している。人々は死を忌み嫌い、遠ざける。終焉がないかのように。

日蓮は雪山童子の故事をひいて死の尊厳を説いている。くわえて仏法をもとめず、いたずらに生を終える人のはかなさをしるす。おなじ松野への手紙である。


(つらつら)世間を観ずるに、生死無常の理なれば生ずる者は必ず死す。されば()()のあだにはかなき事、譬へば電光(いなびかり)の如く、朝露に向かひて消ゆる似たり。風の前の(ともしび)の消えやすく、芭蕉の葉の破れやすきに異ならず。人皆此の無常を(のが)れず。(つい)に一度は黄泉(よみじ)(たび)(おもむ)くべし。(しか)れば冥土の旅を思ふに、闇々として()らければ日月星宿(せいしゅく)の光もなく、せめて灯燭(とうしょく)とてとも()す火だにもなし。かゝる(くら)き道に又()もなふ人もなし。(しゃば)にある時は、親類・兄弟・妻子・眷属(けんぞく)集まりて父は(あわ)れみの志高く、母は悲しみの情深く、夫妻は偕老同穴(かいろうどうけつ)(ちぎ)りとて、大海にあるえび()は同じ畜生ながら夫妻ちぎり細やかに、一生一処にともなひて離れ去る事なきが如し。鴛鴦(えんおう)(ふすま)の下に枕を並べて遊び(たわむ)る仲なれども、彼の冥途の旅には伴ふ事なし。冥々として(ひと)り行く。誰か来たりて是非を(とぶら)はんや。(あるい)老少(ろうしょう)不定(ふじょう)の境なれば、老いたるは先立ち若きは留まる。是は順次の道理なり。歎きの中にもせめて思ひなぐさむ(かた)も有りぬべし。老いたるは留まり、若きは先立つ。されば恨みの至って恨めしきは幼くして親に先立つ子、(なげ)きの至って歎かしきは老いて子を先立つる親なり。是くの如く生死無常、老少不定の境、あだ()にはかなき世の中に、但昼夜に今生の(たくわ)へをのみ思ひ、朝夕に現世の(わざ)のみなして、仏をも敬はず、法をも信ぜず、無行(むぎょう)無智(むち)にして(いたずら)に明かし暮らして、閻魔(えんま)の庁庭に引き迎えられん時は、何を以てか資糧として三界の長途(ちょうと)を行き、何を以て(せん)(ばつ)として生死の(こう)(かい)を渡りて、実報(じっぽう)寂光(じゃっこう)の仏土に至らんや

 海にいるエビは雄雌そろっておなじ穴にいる。これを偕老同穴という。転じて夫婦仲のむつまじいことをあらわす。夫婦が一生を共にし、おなじ墓穴にはいる意味である。それでも世を去るときは一人なのだ。

 鴛鴦の衾とは男女(とも)()の夜具をいう。鴛鴦とはオシドリのこと。これまた良い夫婦仲の形容詞だが、死にのぞめばはなれてしまう。

 日蓮は仏法の根本命題である死について、若い時から思索をかさねていた。現代人が忘れているテーマである。

例えば日蝕がある。古代の人々は突然太陽が欠け始め、ついには昼なのに真っ暗になると、この世の終わりが来たと恐れをなしたただろう。
 しかし現代の人間は、日蝕は天体の運行で起きる現象で「月が地球と太陽の間に入り、月の影に入った地域では太陽が欠け、あるいは全く見えなくなる」ことを知っている。また将来おきる日食の日時と地球上の位置を正確に知ることができ、日蝕を天体ショーとして楽しんでいる。これは天体の運行という法則を把握しているからできることである。

釈尊は妙法蓮華経方便品第二で「仏所成就。第一希有(けう)難解(なんげ)之法(しほう)唯仏(ゆいぶつ)与仏(よぶつ)乃能(ないのう)究尽(くじん)。諸法実相」と説く。

() 仏が成就した所業とは、最高の稀有で難解な法で、唯、仏と仏のみが、()く諸法の実相を極め尽くしたことである。
 つまり人々は、生と死の法則がわからないので死に対し不安になり恐れる。釈尊も日蓮も命の法則を極めているから死に対し恐れることはないとする。なぜなら仏法は生命は一つでなく、(ほっ)(しん)(ほう)(しん)(おう)(じん)の三身と見る。無始無終の魂魄(こんぱく)である法身、一個の受精卵として母親の胎内で生まれ、老いて朽ち果てていく有始有終の応身、そして修行し悟り、仏となって衆生を救う有始無終の報身。つまり我々が通常、人とみる応身は必ず死んで行くが、魂魄としての法身は現世の所業=善行または悪行の結果を受け、新たな生として誕生するとする。それ故現世での所業が大事になってくる。

日蓮はこの法報応(ほっぽうおう)(さん)(じん)を月に見立てて説いている。


 三身の事、()(げん)経に云く「仏・三種の身は方等(ほうどう)より生ず是の大法印は涅槃(ねはん)海を印す、此くの如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず、此の三種の身は人天の福田(ふくでん)にして応供(おうぐ)の中の最なり」云云、三身とは一には(ほっ)(しん)如来、二には(ほう)(しん)如来、三には(おう)(じん)如来なり。此の三身如来をば一切の諸仏必ず()()す、(たと)へば月の体は法身、月の光は報身、月の影は応身にたとう。一の月に三のことわりあり、一仏に三身の徳まします。『四條金吾釈迦仏供養事:
建治二年七月十五日』五十五歳御作)

 言い換えると、法身とは生命の本質そのもの、報身は生命の智慧、境涯と言え、応身とは生命の色心(実際に生きている当体)をいう。
 例えば七十五億人とも言われている今生きている地球上の人々には誰しもが生まれたばかりの赤ん坊の瞬間があった。しかしその赤ん坊は今どこにもいない。応身とはまさにそういう身なのだ。それ故恐るべきは死ではなく、現在どのように生きているかを恐るべきなのだ。現在の生き様が次の生を決めるのだから。
 この生命の法を知り尽くした日蓮は、いま妙法蓮華経に帰命しているかどうかを恐れている。
仏法は人間の再誕を説き、
再誕後の世界はその人の臨終の相から予見できるという。日蓮は法華経の鏡で人の死後を当てることができるといった。信じる法の邪正によって臨終の相がきまると。

死をむかえるためによりよい人生をおくる。これはだれしも願うことである。よりよい人生とは、妙法をたもつことで初めて叶えられる。


 とても此の身は
(いたずら)に山野の土となるべし。惜しみても何かせん。惜しむとも惜しみとぐべからず。人久しといえども百年には過ぎず。其の間の事は(ただ)一睡(いっすい)の夢ぞかし。受けがたき人身を受けて(たまたま)出家せる者も仏法を学し謗法の者を責めずして(いたずら)遊戯(ゆげ)雑談(ぞうだん)のみして明かし暮らさん者は、法師の皮を()たる畜生なり。法師の名を借りて世を渡り身を養ふといへども、法師となる義は一つもなし。法師と云ふ名字をぬすめる盗人なり。()づべし恥づべし、恐るべし。

日蓮はここで妙法をたもつ者の臨終を説いている。妙法を唱えきった者には苦渋に満ちたこの娑婆世界が、実は寂光土であったことがわかるという。

(しか)るに在家の御身は但余念なく南無妙法蓮華経と御唱へありて、僧をも供養し給ふが肝心にて候なり。それも経文の如くならば随力演説も有るべきか。世の中もの()からん時も今生の( く)さへかなしし。()してや来世の苦をやと(おぼ)()しても南無妙法蓮華経と唱へ、悦ばしからん時も今生の悦びは夢の中の夢、霊山浄土の悦びこそ(まこと)の悦びなれと思し食し合はせて又南無妙法蓮華経と唱へ、退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ。妙覚の山に走り登りて四方をきっと(屹度)見るならば、あら(おも)(しろ)や、法界寂光土にして瑠璃(るり)を以て地とし(こがね)の縄を以て八つの道を(さか)へり。(そら)より四種の花ふり、虚空に音楽聞こえて、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき、娯楽快楽(けらく)し給ふぞや。我等も其の数に(つら)なりて遊戯(ゆげ)し楽しむべき事、はや近づけり。信心弱くしてはかゝる目出たき所に行くべからず、行くべからず。不審の事をば尚々(なおなお)承るべく候。(あな)(かしこ)穴賢。

                  九十七、身延下山  につづく


下巻目次



by johsei1129 | 2019-12-14 10:36 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)


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