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日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 09月 19日

九十五、時光の蘇生

  英語版

弟の突然の死があっても、時光の信心はゆるぎなかった。

彼は懸命に日蓮を援助した。熱原の法難もかげで支えた。このことは鎌倉で知らぬ者はない。

このため幕府はいよいよ時光を快く思わない。人々も悪人のように憎む。時光は地頭でありながら、幕府を公然と批判する日蓮の信徒であると。幕府は多くの公事をおしつけてせめた。

時光は乗る馬もなく、妻は衣もなくなったという。それでも彼は銭一貫文を日蓮のもとにおくった。なんという健気な信仰の若者であろう。

 日蓮は貧窮する時光をはげます。

 仏にやす()やすとなる事の候ぞ、()しへまいらせ候はん。人のものををし()ふると申すは車のおも()けれども油をぬりてまわり、ふね()を水にうかべてゆき()やすきやうにをしへ候なり。仏になりやすき事は別のやう候はず。旱魃(かんばつ)かわ()けるものに水をあたへ、寒冰(かんぴょう)こご()へたるものに火をあたふるがごとし。又二つなき物を人にあたへ、命の()ゆるに人の()にあふがごとし。<中略>月氏国に()(だつ)長者と申せし者は七度貧になり、七度長者となりて候いしが最後の貧の時は万民皆()げうせ死にをはりて、ただ、()おとこ()二人にて候いし時、五升の米あり五日のか()てとあて候いし時、迦葉(かしょう)・舎利弗・阿難・(らご)()・釈迦仏の五人、次第に入らせ給いて五升の米を()ひとらせ給いき、其の日より五天竺第一の長者となりて、祇園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)をばつくりて候ぞ、これをもつて・よろづを心()させ給へ。『上野殿御返事(須達長者御書)』

(訳)仏にたやすく成る道があるので教えて差し上げよう。人がものを教えるというのは、車が重い時でも油を塗ることによって回り、船を水に浮かべて往来し易くなる様に教えるのである。仏に成り易い道というのは特別なことではない。旱魃で(のど)の渇いた人に水を与え、寒さで凍えた人に火を与える様な事である。又二つとない物を人に与え、命が絶えようとしている時に、人に施す事である。<中略>

 インドの須達長者という人は七度貧乏になり、七度長者となったが、最後は万民が皆逃げ去り死に絶えて、夫婦二人だけになった。その時五升の米があり五日分の糧に充てようとしていた時、迦葉・舎利弗・阿難・羅睺羅・釈迦の五人が次々に入って来て、五升の米を乞われたので全て差し上げた。その日から全インド第一の長者になって祇園精舎を造ったのである。この例に(なら)って万事を心がけていきなさい。


 こうして平穏にもどったかと思われた矢先、またも悲劇がおそいかかった。

時光本人が重病となったのである。

病のしらせは前年の九月に日蓮のもとにとどいていた。

御使ひの申し候を承り候。是の所労(しょろう)難儀のよし聞こえ候。いそぎ療治(りょうじ)をいたされ候ひて御参詣有るべく候。 『南条殿御返事:弘安四年九月十一日 六十歳御作』


 周囲の期待とはうらはらに病状は重くなった。

病名は不明である。しかし確実に死にいたる病だった。薬もきかない。父兵衛七郎、弟五郎につづいて時光の番となったのである。時光はまだ二十三歳の若者なのだ。南条家はあきらかに短命の宿業をもっていた。

翌年の二月にはいり、ついに時光は危篤となった。

日蓮は事の重大さを知り、病床から身をおこして日朗に口述筆記させ、伯耆房日興に指図して時光に()を飲ませるよう指示した。

符とは経文を灰にして水にまぜた薬である。

日蓮はこのたびの時光の病がたとえ定業(寿命)であったとしても、なんとしても命を伸ばそうと必死だった。

兼ねて又此の経文は廿八字、法華経の七の巻薬王品の文にて候。然るに聖人の御乳母の、ひと()ゝせ()御所労御大事にならせ給ひ候て、やがて死なせ給ひて候ひし時、此の経文をあそばし候て、浄水をもってまいらせさせ給ひて候ひしかば、時をかへずいきかえらせ給ひて候経文なり。なんでうの七郎次郎時光は身はちいさきものなれども、日蓮に御こゝろざしふかきものなり。たとい定業なりとも今度ばかりえん()まわう(魔王)たすけさせ給へと御せい()()ん候。明日(とら)()(たつ)(こく)しや()うじがは(進河)の水とりよせさせ給ひ候て、このき()もん()はい()にやきて、水一合に入れまいらせ候てまいらせさせ給ふべく候。恐々謹言。

  二月廿五日          日朗花押

謹上 はわき公御房            『伯耆公御房御消息

日蓮はこの書で「たとえ寿命だとしても、今度ばかりは閻魔大王助け給え、と御誓願候」とまで言い切っている。
 符の由来は、教主釈尊が乳母であり育ての母だった
摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)、マハープラジャーパティーの重病を救った故事による。

日蓮が符をつかうのははじめてではない。

十年前、四条金吾の妻日眼女が懐胎した時、安産のための符をおくっている。

 懐胎(かいたい)のよし承り候い(おわ)んぬ、それについては符の事仰せ候、日蓮相承(そうじょう)の中より(えら)み出して候、()く能く信心あるべく候。たとへば秘薬なりとも毒を入れぬれば薬の用すくなし、つ()ぎなれども、わる(臆病)びれたる人のためには何かせん、就中(なかにも)夫婦共に法華の持者なり、法華経流布あるべきたね()をつぐ所の玉の子出で生れん()()(たく)覚え候ぞ。色心二法をつぐ人なり、(いかで)かをそなはり候べき、とくとくこそうまれ候はむずれ、此の薬をのませ給はば疑いなかるべきなり 『四条金吾女房御書


 そして符を与えた翌日、四条家に無事女の子が誕生し、日蓮はよろこんで生まれた子を(つき)(まろ)御前と名づけている。

日蓮は自らしたためた法華経薬王品の経文を焼き、その灰を寅卯辰の刻すなわち午前三時から午前九時までの間に、精進河の水一合で調合し、時光にあたえるよう指示した。精進河は今も「静岡県富士宮市精進川」として地名がのこる。

薬王品の二十八字の経文とはおそらくつぎの文であろう。

 此経則為。閻浮提人。病之良薬。若人有病。得聞是経。病則消滅。不老不死。

(此の経は則ち閻浮提(えんぶだい)人の病の良薬なり。()人病有らんに、此の経を聞くこと得ば、病(すなわち消滅して不老不死ならん)

()の効用とは一体なにか。日蓮は晩年、自分の「やせやまい」に関して、医師でもあった四条金吾が調合した薬を服用して良くなったと消息に書いている。また病気の起こる原因について次のように記している。

 病の起る因縁を明すに六有り、一には四大順(環境不順)ならざる故に病む、二には飲食(おんじき)(せつ)ならざる故に病む、三には坐禅調わざる故に病む、四には鬼(伝染病)便(たよ)りを得る、五には魔の所為(精神病)、六には業(宿業)の起るが故に病む 『大田入道殿御返事

 このうち一から五までは医療で治すことができる。六番目の業(宿業)が原因の病だけは法華経の信仰で罪障消滅しなければ治らない。

では符の効用はとは何か 日蓮はどのような効用があると考えていたのか 
 実際に日蓮が実際に符を使った例は極めて少ない。日眼女が懐胎した時に使用した例を考えれば、これは精神的な不安を取り除くために提供したのではないかと推察される。懐妊は病気ではない。しかし初産であれば不安がつのる。そのため日眼女は大聖人に符のご下付を願い、日蓮も応じたと思われる。
 では時光の場合はどうであったろう。
 時光は病が重篤であると使いの者を日蓮のもとに行かせた際、一頭の馬を供養している。時光が日蓮に馬の供養を記した御書はこの時だけで、極めて異例である。この馬の供養は、時光が自身の命が残り少ないと感じ、自身の身代わりとして自分と共にした愛馬を贈ったのではないかと推察される。日蓮はそれほどまで追い詰められた時光に、
「まだ諦めるのは早い。私がついている」
と時光の生きる気力を奮い立たせるために、()
われたわけではないが、自ら進んで符を与えたのではないか。日眼女に与えた符は特にどの経文とも記していない。しかし時光に与えた符は「此の経文廿八字、法華経の七の巻薬王品の文にて候」と明示している。
 色心不二は仏法の基本原理である。日興から日蓮の言葉を聞き、符を受けとった時光は、まちがいなく今一度生きる気力を奮い立たせ、内在する自然治癒(ちゆ)
力を増したことであろう。
 一般的に新薬を治験するとき、必ず治験薬を飲むグループと
でんぷんなどで作ったプラセボ
(偽薬)を飲むグループに分けて比較し、厳密な効果を計測するという。つまり偽薬と知らせないで治験薬だとして飲ませても、人によっては薬を飲んだという安心感で自然治癒力を引き出し効果がでるケースがあるという。

日蓮は思う。

自分の死後、弟子たちにさまざまな苦難があるだろう。だが日蓮の弟子と名のる者はあらゆる困難をこえねばならない。こえなければ未来はない。

またその弟子たちをささえるのは信徒檀那である。日蓮はその法華講衆の要となるのが南条時光であるとみた。それゆえになんとしてでも時光を蘇生させねばならぬ。

日朗に口述筆記させた三日後の二月二十八日、日蓮は寝たきりだったが時光のためにおきた。そして最後の力をふりしぼり、消息を書く。

宛先はだれでもなく、時光に巣くう病魔鬼神にむけたものである。

文字どおり生きるか死ぬか、生かすか殺すかの書である。
 全編鬼気がせまる。

かなる過去の宿習にて、かかる身とは生るらむと悦びまいらせ候、上の経文は過去に十万億の仏にあいまいらせて供養をなしまいらせて候いける者が、法華経計りをば用いまいらせず候いけれども、仏くやう(供養)の功徳莫大なりければ・謗法の罪に依りて貧賎の身とは生れて候へども、又此の経を信ずる人となれりと見へて候、此れをば台の御釈に云はく「人の地に倒れて(かえ)って地より起つが如し」等云云。地に()うれたる人は、かへりて地よりをく。法華経謗法の人は三悪並びに人天の地には( )うれ候へども、かへりて法華経の御手(みて)にかゝりて仏になるとこと()わられて候。

 しかるにこの上野の七郎次郎は末代の凡夫、武士の家に生まれて悪人とは申すべけれども心は善人なり。其の故は、日蓮が法門をば上一人より下万民まで信じ給はざる上、たまたま信ずる人あれば(あるい)は所領或は田畠等にわづらいをなし、結句(けっく)は命に及ぶ人々もあり。信じがたき上、ちゝ()・故上野は信じまいらせ候ひぬ。又此の者嫡子(ちゃくし)となりて、人もすゝめぬに心中より信じまいらせて、上下万人に、あるいはいさめ或はをどし候ひつるに、ついに捨つる心なくて候へば、すでに仏になるべしと見へ候へば、天魔・外道が病をつけてをどさんと心み候か。

命はかぎりある事なり。すこしもをどろく事なかれ。又鬼神めらめ、此の人をなやますは、剣をさかさまにのむか、又大火をいだくか、三世十方の仏の大怨敵(おんてき)となるか。あなかしこあなかしこ。此の人のやまいを(たちま)ちになをして、かへりてま()りとなりて、鬼道の大苦をぬくべきか。其の義なくして現在には頭破(ずは)(しち)()(とが)に行なはれ、後生には大無間地獄に()つべきか。永くとゞめよ永くとゞめよ。日蓮が(ことば)をいやしみて後悔あるべし。後悔あるべし。

  二月二十八日

 伯耆房に下す        『法華証明抄

 日蓮は弘安二年十月十二日の大御本尊の建立で出世の本懐を成し遂げた。また弟子に対して末法の本仏としての法華経の講義も弘安三年五月二十八日に終えている。自身滅後の後を託す日興には一月十一日「百六箇抄」の口伝を終えている。ここで滅度しても全く悔いはない。あるいは日蓮は、時光の寿命を延ばすことができるなら、残された寿命は時光に与えても構わないと祈ったとしても不思議ではない。熱原の三烈士は日蓮に大御本尊建立の機縁を与えた。その熱原の農民信徒を外護したのは弟子の日興であり、信徒では南条時光その人だった。
 日蓮は竜の口に向かう途中、馬からおりて八幡大菩薩を叱りつけた。「日蓮今夜
(くび)切られて霊山浄土へまいりてあらん時は、まづ天照太神、正八幡こそ起請(きしょう)を用いぬかみ()にて候いけれと、さしきりて(指し示して)教主釈尊に申し上げ候はんずるぞ。いたしとおぼさばいそぎいそぎ御計(おんはか)らいあるべし(種々御振舞御書)」と。このたびも「
鬼神」らを叱りつけたのである。

南条時光は快方にむかった。見事に時光は蘇生した。彼はこの日からちょうど五十年の寿命をうけ、一生を法華経の信心で貫き通した。日蓮亡き後、自分の領地を提供して伯耆房日興をまねき、今の大石寺の基礎を築いた。そして時光は七十四歳で波乱に満ちた、しかし日蓮に生涯殉じた潔い生涯を終える。彼の所領だった富士の麓の上野郷はいま、日蓮大聖人、日興上人を慕う世界各国の信徒であふれている。

法華経如来寿量品に「(きょう)()寿命」とある。さらに寿命を(たま)うの意味である。

釈迦は阿闍(あじゃ)()王に四十年の命をあたえ、天台大師は兄に十五年の命をあたえたと伝えられている。そして日蓮は母の寿命を四年のばし、南条時光に五十年の命をあたえたのである。


        九十六、妙覚の山 につづく


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by johsei1129 | 2017-09-19 21:56 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)


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