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日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 09月 19日

九十二、南条時光の信仰

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                            (日蓮大聖人御一代記より)

 南条時光は北条家の家臣で氏は平氏である。伊豆国南条郷(静岡県田方郡韮山町)を本領とするため南条と名のった。また父の兵衛七郎が、駿河国富士郡上野郷(静岡県富士宮市上野)に地頭として移住したので上野殿とも呼ばれた。
 南条家の信心はこの父兵衛七郎からはじまる。

彼は性格温厚で情がふかく、夫人も温良な人柄で、五男四女に恵まれた。

兵衛七郎は鎌倉在勤の時に日蓮に帰依して行増と名のった。しかしそれまでの念仏を捨てきれず病床に伏していたが、日蓮から消息をおくられた事を機縁に、念仏の執情を断ち切って法華経の信仰をつらぬいた。

当時、四十三歳だった日蓮は病床の兵衛に慈愛に満ちた消息をおくっている。


もしさき()()ゝせ給はゞ、梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王等にも申させ給ふべし、日本第一の法華経の行者日蓮房の弟子なりと()()らせ給へ。よも()しん()なきことは候はじ。(ただ)一度は念仏、一度は法華経( )()へつ、二心ましまし、人の聞くには()かりなんどだにも候はゞ、よも日蓮が弟子と申すとも御用ゐ候はじ、のちにうら()みさせ給ふな。但し又法華経は今生のいの()りとも成り候なれば、もしやとして()きさせ給ひ候はゞ、あはれとくとく見参(げんざん)して、み()から申しひらかばや。語は()みに()くさず、ふみは心をつくしがたく候へばとゞめ候ひぬ。恐々謹言。 『南条兵衛七郎殿御書;文永元年十二月十三日』 

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芳心とはかんばしい心、美しい心、親切な心をいう。日蓮は兵衛に『もし日蓮より先に旅立たれたならば、梵天・帝釈天・四大天王・閻魔大王等に申しあげなさい。日本第一の法華経の行者日蓮房の弟子なりと名乗りなさい。よもや粗末に扱われることはないであろう」と約束した。
 しかし日蓮の励ましをうけながらもすでに兵衛の病状は重く、この消息を送られた三ケ月後の翌文永二年三月八日、短い生涯を閉じることになる。
 おしまれる死去だった。

長男の時光が七歳、弟の五郎がまだ母のお腹にいる時だった。兵衛は三十歳になっていたかどうかの若さで世を去ったのである。

妻のなげきはつきなかったが、兵衛の臨終の相はすばらしかったという。
 このとき日蓮は、富士上野の南条家にわざわざ下向し兵衛の墓に参った。
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そして夫亡きあと、末永く信心をたもち立派に子供を育てている南条後家尼御前を激励する。くわえて成長した長男の時光が亡き兵衛と瓜二つだったと記している。

鵞目(がもく)十連・かわ()のり()二帖(にじょう)・し()うかう二十束給び候ひ(おわ)んぬ。

かまくら(鎌倉)にてかりそめの御事とこそ()もひまひらせ候ひしに、(思 )もひわす()れさせ給はざりける事申すばかりなし。こう(故上)()どの(殿)だにも()はせしかば、つねに申しうけ給はりなんとなげ()きをもひ候つるに、をん()かた()()に御みをわか()くしてとゞめをかれけるか。す(姿)たの()がわせ給はぬに、御心さえ()られける事いうばかりなし。法華経にて仏にならせ給ひて候とうけ給はりて、御はか()にまいりて候ひしなり。又この御心ざし申すばかりなし。今年の( )かち()にはじめたる山中(さんちゅう)に、()のもとにこの()()うち()しきたるやうなるす()か、をもひやらせ給へ。このほど()み候御経の一分を()との(殿)()(こう)しまいらせ候。あはれ人はよき()()つべかりけるものかなと、な()だかきあえずこそ候へ。(みょう)荘厳(しょうごん)(のう)は二子にみ()びかる。かの王は悪人なり。()うえの(上野)どの(殿)は善人なり。()れには()るべくもなし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。 『南条後家尼御前御返事

七歳の時光は父兵衛の家督をつぎ、後家尼御前にあたたかく守られて成長していく。

また時光は驚くことに、父の純粋無垢な信心をそのままうけついだ。法華経を信仰することにまったくの疑いがない。物心ついたときから日蓮のもとに供養をおくりつづけた。

日蓮も時光の純粋無垢な信仰心に心打たれる。まるで父兵衛の純信が、子の時光にのりうつったかのようであると。

時光は地頭職の公務のかたわら、甲斐身延の山中に里芋(さといも)を送ったことがある。時光十六歳、日蓮五十四歳の時だった。

日蓮は書をおくり、時光を激励した。そこには早くも時光の信心に反対する勢力があったことがしるされている。

若い彼になにかと意見する者がいる。ことに人々が忌みきらう日蓮に肩入れをしてはいかがなものか、といってくる者がいた。上野郷のある駿河は幕府高官の所領がちらばっている。日蓮が弾圧されている渦中に、法華経をたもつには難儀な環境だった。

 日蓮はあらゆる弟子とおなじく、強盛な志をもてという。

此の身のぶ()さわ()は石なんどはおほく候。されどもかゝるものなし。その上夏のころなれば民のい()まも候はじ。又御造営と申し、さこそ候らんに、山里の事ををも()ひやらせ給ひて()りたびて候。所詮は()をや()のわかれのをしさに、父の御ために釈迦仏・法華経へまいらせ給ふにや、孝養の御心か。さる事なくば、梵王・帝釈・日月・四天その人の家をす()かとせんとちか()はせ給ひて候。いふにかひなきものなれども、約束と申す事はたがへぬ事にて候に、さりともこの人々はいかでか仏前の御約束をばたが()へさせ給ふべき。もし此の事まことになり候はゞ、わが大事とおもはん人々のいし(制止)候。又おほ()きなる難来たるべし。その時すでに此の事かなうべきにやとおぼ()()して、いよいよ強盛なるべし。さるほどならば聖霊・仏になり給ふべし。成り給ふならば来たりてま()り給ふべし。其の時一切は心にまか()せんずるなり。かへすがへす人のせいし(制止)あらば心にうれしくおぼすべし。恐々謹言。

同じ年の七月、時光は白麦一俵、小白麦一俵、河海苔(のり)五帖をおくった。白麦とは精白した麦のこと。河海苔は山間の渓流の石上に生ずる緑藻である。

日蓮は感謝の書をおくった。追伸には人生の先輩として、処世の心がまえをのべている。そこにはわが子のような心情がよみとれる。遠い甲斐にいながら、父にかわって若い時光に目をかけようとしたのだろう。

この()の中は、いみじかりし時は何事かあるべきと()えしかども、当時はことにあぶなげにみえ候ぞ。いかなる事ありともなげ()かせ給ふべからず。ふつとおも()ひきりて、()りょ()うなんどもたが()ふ事あらば、いよいよ悦びとこそをもひて、()うそ()ぶきてこれへわたらせ給へ。所地しらぬ人もあまりにすぎ候ぞ。当時つくし(筑紫)へむかひてなげ()く人々は、いかばかりかとおぼす。これは皆日蓮を、かみの()なづらせ給ひしゆえなり。『南条殿御返事

手紙のとおり、いまだ世情は安定していない。しかしどんな逆境にあっても、よろこびの心で対処せよという。所領さえも惜しんではならないという。そして自分のところに会いにきなさいといっている。

蒙古の不安もつづいていた。この災いの根本は執権時宗が日蓮を(さげす)んで見ているからだという。

 水が清ければ月はやどる。

時光の富士の清流のような汚れのない信仰心は、日蓮を突き動かした。日蓮はそんな時光がかわいくてしかたがない。

同じ五十四歳の時の手紙には、賢人・聖人とよばれる振舞を説いている。仏法の四恩、外道の四徳、いずれも現代人が忘れた教えである。

日蓮は父親のかわりとなって説く。

三世の諸仏の世に出でさせ給ひても、皆々四恩を報ぜよと説き、三皇・五帝・孔子・老子、(がん)(かい)等の(いにしえ)の賢人は四徳を修せよとなり。四徳とは、一には父母に孝あるべし、二には主に忠あるべし、三には友に()って礼あるべし、四には劣れるに逢ふて慈悲あれとなり。

 一に父母に孝あれとは、たとひ親はものに覚えずとも、()しざまなる事を云ふとも(いささか)も腹を立てず、誤る顔を見せず、親の云ふ事に一分も(たが)へず、親によき物を与へんと思ひて、せめてやる事なくば一日に二三度()みて向かへとなり、二に主に合ふて忠あるべしとは、いさゝかも主にう()ろめたなき心あるべからず。たとひ我が身は失はるとも、主には()まへて()かれと思ふべし。かく()れての信あれば、あらわれての徳あるなりと云云。三には友にあふて礼あれとは、友達の一日に十度二十度来たれる人なりとも、千里二千里来たれる人の如く思ふて、礼儀いさゝか()()に思ふべからず。四に劣れる者に慈悲あれとは、我より劣りたらん人をば我が子の如く思ひて一切あはれみ慈悲あるべし。此を四徳と云ふなり。是くの如く振る舞ふを賢人とも聖人とも云ふべし。此の四の事あれば、余の事にはよからねどもよき者なり。是くの如く四の徳を振る舞ふ人は、外典(げてん)三千巻をよまねども、読みたる人となれり。 『上野殿御消息(四徳四恩御書):建治元年』

 日蓮は、時光が幼い時に父親を失ったために、身近な教訓をうけることができない虚しさを知っていた。そのため自分が父親がわりになって立派に成長させようと懸命だった。


        九十三、青年時光への薫陶 につづく


下巻目次



by johsei1129 | 2017-09-19 06:57 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)


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