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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 12月 17日

九十一、千日尼と阿仏房

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     現在の阿仏坊妙宣寺  Wikipedia より

佐渡で日蓮に帰依した阿仏房と国府入道の夫妻は日蓮を最後まで守りとおした強信者である。夫妻は日蓮が赦免され佐渡を去ったあとも、流罪中に人目を忍んで供養した日々の事を忘れることができなかった。

聞けば日蓮は鎌倉をはなれ、甲州の身延という山にこもったという。日蓮が佐渡をはなれたときは弾圧から解放されたばかりだった。あまりに唐突な別れから一年がすぎた。いとしさは募るばかりだった。

阿仏房と国府入道は甲州行きを決意し準備にとりかかった。

これには妻の力をかりなければならない。千日尼は阿仏房を、是日尼は国府入道をはげまし甲斐へおくった。

日蓮の感激はひとかたでない。

その様子を知るのには、のこされた史料があまりにも少ない。いまはほとんど推測するだけだが、わずかに是日尼へあてた手紙の断片がのこっている。尼のおかげで夫が身延にくることができた。日蓮は妻の功に感謝する。

()()の国より此の甲州まで入道の来たりしかば、あらふしぎ(不思議)やとをも()ひしに、又今年来て()つみ、水くみ、た()ぎこり、だん()王の()()仙人(せんにん)につかへしがごとくして一月に及びぬる不思議さよ。()でをもちてつくしがたし。これひとへに又尼ぎみの御功徳なるべし。又御本尊一ぷくかきてまいらせ候。霊山浄土にてはかならずかならず()()ひたてまつるべし。恐々謹言。

卯月十二日          日蓮花押

尼是日               『是日尼御書

「法華経を我が得しことは(たきぎこり()つみ水くみつかへしぞ得し」(拾遺和歌集)

日蓮は奈良時代の高僧行基の和歌をひいている。行基は檀王が阿私仙人につかえたように、日々給仕して法華経を体読したという。

檀王とは釈迦の過去世の姿、阿私仙人は提婆達多の過去世の姿である。妙法蓮華経提婆達多品第十で、檀王は阿私仙人に千年のあいだ身を粉としてつかえ、今の釈迦仏となった。日蓮は国府入道が檀王であり「霊山浄土にてはかならずかならずゆきあひたてまつるべし」と約束している。そしてこの大功徳により是日尼も成仏すると、その志を称えている。

 提婆達多品の阿私仙人の下で檀王が修行した話は、平安時代の歌人藤原俊成も次のように和歌を詠んでいる。

「薪こり峰の木の()をもとめてぞ、()がた()法は聞きはじめける」


国府入道同様、佐渡の法友阿仏房も負けじと日蓮をたずねた。

日蓮の感激はこれまたひとかたでない。そしてその思いは妻、千日尼への深い感謝となった。

千日尼の年齢はさだかでない。だが阿仏房の年からすると、かなりの高齢であったことはまちがいない。

日蓮はつらかった佐渡の日々を述懐した。

  而るに日蓮佐渡国へながされたりしかば、彼の国の守護等は国主の御計らひに随って日蓮をあだむ。万民は其の命に随う。念仏者・禅・律・真言師等は鎌倉よりもいかにもして此へわたらぬやう計れと申しつかわし、極楽寺の良観等は武蔵(むさし)前司(ぜんじ)殿の(わたくし)御教書(みきょうしょ)を申して、弟子に持たせて日蓮をあだみなんとせしかば、いかにも命たすかるべきやうはなかりしに、天の御計らひはさてをきぬ。地頭・地頭等、念仏者・念仏者等、日蓮が庵室に昼夜に立ちそいて、かよ()う人をあるをまどわさんとせめしに、阿仏房にひつ()をしをわせ、夜中に度々御わたりありし事、いつの世かわす()らむ。只悲母(はは)の佐渡国に生まれかわりて有るか。(中略)

  法華経には過去に十万億の仏を供養せる人こそ今生には退せぬとわみへて候へ。されば十万憶供養の女人なり。其の上、人は見る眼の前には心ざし有れども、さしはなれぬれば、心は()すれずともさてこそ候に、去ぬる文永十一年より今年弘安元年まではすでに五箇年が間此の山中に候に、佐渡国より三度まで夫をつかわす。いくらほどの御心ざしぞ。大地よりもあつく大海よりもふかき御心ざしぞかし。『千日尼御前御返事

          

この消息で日蓮は千日尼を「十万億供養の女人」とよんでいる。これほどの賛辞がほかにあろうか。

夫の阿仏房は弘安二年三月二十一日、亡くなった。九十一歳と伝えられる。日蓮はふかい悔やみをのべて回向した。

日蓮は未亡人となった千日尼に手紙を書く。

されば故阿仏房の聖霊は今いづくむにかをはすらんと人は疑ふとも、法華経の明境をもって其の影をうかべて候へば(りょう)鷲山(じゅせん)の山の中に多宝仏の宝塔の内に、東()きにをはすと日蓮は見まいらせて候。若し此の事そら()ごと()にて候わば、日蓮がひがめにては候はず、釈迦如来の『()尊法(そんほう)久後(くご)要当説(ようとうせつ)真実(しんじつ)()御舌(おんした)と、多宝仏(たほうぶつ)の『妙法華経、(かい)()真実(しんじつ)』の舌相(ぜっそう)と、四百万億那( な)()()の国土にあさ()のごとく、()ねのごとく、星のごとく、竹のごとくぞく()()くとすきもなく(つら)なりゐてをはしましゝ諸仏如来の、一仏も()け給はず(こう)長舌(ちょうぜつ)大梵(だいぼん)王宮(のうぐう)()し付けてをはせし御舌(おんした)どもの、く()らの死にてくさ()れたるがごとく、い()しのよりあつまりてくされたるがごとく、皆一時に()ちくされて、十方(じっぽう)世界(せかい)の諸仏如来大妄語の罪に()とされて、寂光の浄土の金るり(瑠璃)の大地、はたと()れて、提婆(だいば)がごとく無間(むけん)大城(だいじょう)にかぱと入り、(ほう)(れん)(こう)比丘尼(びくに)(注)がごとく身より大妄語の猛火ぱといでて、実報(じっぽう)()(おう)(注)の花のその()一時に(かい)じん()の地となるべし。いかでかさる事は候べき。故阿仏房一人を寂光の浄土に入れ給はずば諸仏は大苦に()ち給ふべし。たゞをいて物を見よ物を見よ。仏のま()と・そら()事は此にて見奉るべし。『千日尼御返事


いま阿仏房は霊鷲山にある多宝仏の宝塔の中にいるという。阿仏房はそこで東むきの座にいて成仏しているという。もしこの事がいつわりならば、釈迦をはじめすべての諸仏の舌がくさるという。そしてすべての諸仏が無間地獄に突き落とされるという。阿仏房は必ず成仏するという日蓮の確信が、文中にみなぎっている。
 夫がいかに日蓮を慕っていたかを間近に見ていた千日尼にとって、これほどまでに称える日蓮の手紙は、夫を支えてきた自分自身の人生をも讃えられていると感じいったことだろう。


いへにをとこなければ人のた()しゐなきがごとし。くう()()をばたれ()にか()ゐあわせん。よき物をばたれにかやしなうべき。一日二日たが()いしをだにもをぼつかなしとをもいしに、こぞ(去年)の三月廿一日にわかれにしが、こぞもまちくらせどもみゆる事なし。今年もすで()に七つき()になりぬ。たといわれこそ来たらずとも、いかにをと()づれ()はなかるらん。ちりし花も又さきぬ。をちし(このみ)も又なりぬ。春の風もかわらず、秋のけしきもこぞのごとし。いかにこの一事のみかわりゆきて、本のごとくなかるらむ。月は入りて又いでぬ。雲はきへて又来たる。この人の出でてかへらぬ事こそ天もうらめしく、地もなげかしく候へとこそをぼすらめ。いそぎいそぎ法華経をら()れう()とたのみまいらせ給ひて、り()()ん浄土へまいらせ給ひて、みまいらせさせ給ふべし。 『千日尼御返事

千日尼は日蓮の称賛にこたえるように信心の灯を絶やさない。

彼女は子の遠藤藤九郎守綱に託して、はるか甲斐身延山に夫の遺骨をおさめた。そしてまた翌年、守綱に墓を弔わせている。

おそらく阿仏房は自分の遺骨は佐渡ではなく、はるか離れた日蓮のもとに置くよう遺言していたものと思われる。それほど阿仏房は日蓮に帰依する思いが強かった。またそれを支えた千日尼の信仰心もただものではない。
 守綱青年は千日尼の薫陶もあって強盛な信徒に育った。佐渡・北陸の弘教につとめ、のちに出家して後阿仏房と称した。さらに自邸をあらためて阿仏坊妙宣寺としたといわれる。

日蓮は、夫亡き後も強盛な信をつらぬく千日尼及び子藤九郎守綱への賛辞を惜しまない。


 而るに故阿仏聖霊は日本国北海のい()すの()りしかども、後世ををそれて出家して後世を願ひしが、流人(るにん)日蓮に()ひて法華経を持ち、去年(こぞ)の春仏になりぬ。尸陀(しだ)(さん)()(かん)(注)は仏法に()ひて、生をいとい死を願ひて帝釈(たいしゃく)と生まれたり。阿仏上人は濁世(じょくせ)の身を(いと)ひて仏になり給ひぬ。其の子藤九郎(とうくろう)(もり)(つな)は此の(あと)をつぎて一向法華経の行者となりて、去年は七月二日、父の舎利(しゃり)(くび)()け、一千里の山海を経て甲州波木井身延山に登りて法華経の道場に此をおさめ、今年は又七月一日身延山に登りて慈父のはかを拝見す。子にすぎたる(たから)なし、子にすぎたる財なし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。  『千日尼御返事

 ちなみに現在の佐渡市・妙宣寺には、日蓮のご消息文三巻(国府尼御前御返事、千日尼御前御返事、千日尼御返事:国重要文化財)と、千日尼、阿仏房にそれぞれ与えられた日蓮直筆の御本尊二幅が所蔵されている。



               九十二、南条時光の信仰 につづく


下巻目次


法蓮香比丘尼

宝蓮香比丘尼とも書く。大仏頂首楞厳経巻八に説かれている尼。大妄語の罪により、体の節節から猛火を出して、生きながらにして無間地獄に堕ちたという。

実報華王

 実報は実報土・蓮華蔵世界、華王は華厳経の教主・盧遮那仏のこと。

 尸陀山の野干

尸陀山はインドの毘摩(びま)大国にあった山。夜干は狐の一種。未曾有経巻上によると、この山に住んでいた野干が師子王に追われて(かれ)井戸に落ち、三日を経て餓死する寸前に、万物の無常を嘆き、仏に帰命して罪障消滅を願う一偈を説いた。これを聞いた帝釈は諸天を率いて説法を請うたといわれる。



by johsei1129 | 2019-12-17 06:46 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)


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