2017年 09月 18日
甲斐の山中はさびしい。 人里はなれ、おとずれる者はなく、館には日目らの小僧がいるだけである。 外に聞こえるのは、山猿や鹿のかすかな声だけ。 静寂があたりを支配していた。 人間が幾年もこの中にいるとき、どうしても内省的にならざるをえない。また自然に外からの知らせをまちわびる気持ちがわき、無性に人恋しくなる。 こんな時、なによりもありがたいのは手紙だった。いにしえの人が手紙を大切に保存していたことがうなずける。この時代、手紙とは墨によって人の息づかいや心までも包含する伝達手段だった。つまり手紙自体が生きていた。音信ともいうがまさにそのとおりであったろう。平家物語にも「はかなき筆の跡こそ後の世までの形見」とある。現代人にはわからない感覚である。そのような手紙をうけとった人のよろこびは尋常ではなかった。 日蓮も同じである。 とりわけ、うちとけた故郷の人からの手紙には、なんども心をなぐさめている。 光日房は日蓮の故郷安房の天津の人である。彼は山中の日蓮を思って手紙をおくった。内容は安房の人々の近況をつづったものであろう。 冬の甲斐山中は雪深く、おとずれる者はいない。手紙をうけとった日蓮の感激はひとかたでない。日蓮は幼少の頃すごした故郷安房に思いを馳せ、自身の波乱万丈の人生をふりかえりながら、長文の返書をしたためた。 この手紙はのちに「種々御振舞御書」と名づけられる。海音寺潮五郎はこの日蓮の「種々御振舞御書」を日本で最初の自伝といっている。この消息がなければ、おそらく本、小説「日蓮の生涯」は書けなかった。現在、日蓮を信奉するわれわれは光日房に感謝しなければならない。 日蓮は消息の末尾に山中における心情をありのままにしるす。 されば鹿は味ある故に人に殺され、亀は油ある故に命を害せらる。女人はみめ形よければ嫉む者多し。国を治むる者は他国の恐れあり。財有る者は命危ふし。法華経を持つ者は必ず成仏し候。故に第六天の魔王と申す三界の主、この経を持つ人をば強ちに嫉み候なり。此の魔王、疫病の神の目にも見えずして人に付き候やうに、古酒に人の酔ひ候如く、国主・父母・妻子に付きて法華経の行者を嫉むべしと見えて候。少しも違はざるは当時の世にて候。日蓮は南無妙法蓮華経と唱ふる故に、二十余年所を追はれ、二度まで御勘気を蒙り、最後には此の山にこもる。此の山の体たらく、西は七面の山、東は天子のたけ、北は身延山、南は鷹取の山。四つの山高きこと天に付き、さがしきこと飛鳥もとびがたし。中に四つの河あり。所謂富士河・早河・大白河・身延河なり。其の中に一町ばかり間の候に庵室を結びて候。昼は日をみず、夜は月を拝せず。冬は雪深く、夏は草茂り、問ふ人希なれば道をふみわくることかたし。殊に今年は雪深くして人問ふことなし。命を期として法華経計りをたのみ奉り候に御音信ありがたく候。しらず、釈迦仏の御使ひか、過去の父母の御使ひかと申すばかりなく候。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。 日蓮は山中から信徒に手紙をおくった。手紙は真筆や古写本として今にのこるだけでも五百通になんなんとする。 その中でもとりわけ在家・出家の女性にあてた手紙は驚くほど多い。日蓮は「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらうべからず」といったが、そのとおり女性にたいしても男同様、強い信心をうながした。 この仏法は信徒一人一人の信力によってかがやく。信徒は日蓮がのこした本尊に祈ることによって法華経へ導かれ「福はかさなり候べし」つまり仏性を開き福運を積み重ねることができるという。 だが信徒によっては、法華経信仰のとらえ方が異なっていたのもまた事実であった。 日厳尼もそうだった。 彼女は念仏宗のように、だれかが助けてくれると誤解していた。これでは自身の仏界はひらけない。 日蓮は「叶ひ叶はぬは御信心により候べし。全く日蓮がとがにあらず」と、日厳尼に強い信心をうながす。日蓮五十九歳の手紙である。 弘安三年十一月八日、尼日厳の立て申す立願の願書、並びに御布施の銭一貫文、又たふかたびら一つ、法華経の御宝前並びに日月天に申し上げ候ひ畢んぬ。其の上は私に計り申すに及ばず候。叶ひ叶はぬは御信心により候べし。全く日蓮がとがにあらず。水すめば月うつる。風ふけば木ゆるぐごとく、みなの御心は水のごとし。信のよはきはにごるがごとし。信心のいさぎよきはすめるがごとし。木は道理のごとし、風のゆるがすは経文をよむがごとしとをぼしめせ。恐々。 十一月二十九日 日蓮花押 日厳尼御前御返事
by johsei1129
| 2017-09-18 21:08
| 小説 日蓮の生涯 下
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