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日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 09月 18日

八十七、鎌倉幕府の最後

東勝寺址         
(鎌倉 東勝寺跡)


  鎌倉の饗宴はつづいていた。

人々は外にでて踊り歌った。夜は全市で(かがり)()がたかれ、おそくまで喧騒がやまなかった。

御家人たちも浮かれていた。なかば半狂乱だった。

無理もない。

一国の滅亡が目前だったのだ。しかも相手は史上最強の蒙古軍団である。それを神風が吹きとばしてくれた。浮かれない者は一人をのぞいていなかった。

その一人、北条時宗はにがい顔でいた。踊りさわいだ御家人たちは、ようやく時宗の様子がおかしいことに気づいた。

場が静粛になった。

時宗が立つ。

「おのおの方、なにをそんなに浮かれておる。秋風にわずかの水で、敵船賊船が沈んだのを勝ったと思ったか。おぬしたちは大将軍を生け取りにしたのか。祈りが成就したなどと、だれがいえる。それで戦果はどうだった。われらはほんとうに勝利したのか。蒙古大王の首は取ったのか」

一同が静まりかえった。

「おぬしらはわかっておらぬ。ここには国を愛し、案ずる者がいない」

時宗を理解する者がだれもいない。

彼はさびしく去った。

執権の苦渋が見てとれる。

時宗の最大の理解者は日蓮であった。時宗は国土防衛に全魂をこめ、日蓮は国土滅亡を叫びつづけた。どちらも国の未来を思うゆえだった。

日蓮を赦免した時宗だったが、ついに日蓮に帰依することはなかった。日蓮は言う。

 涅槃経に説き給はく、末法に入って法華経を謗じて地獄に堕つる者は大地微塵よりも多く、信じて仏になる者は爪の上の土よりも少しと説かれたり。『妙法比丘尼御返事
 

ここで鎌倉幕府の最後、すなわち滅亡の過程を見ていこう。

時宗は弘安の役の三年後に亡くなった。三十四歳の若さだった。国内の治安と蒙古の備えで一生をおわった。神経をすり減らして亡くなったという歴史家もいる。彼の毎日は焦燥でうまっていたのではないだろうか。

相談できる者はだれもいない。

家令の平頼綱は一国の未来を占う相談相手ではない。もう一人の有力者安達泰盛はしょせん外様の御家人である。うっかり胸の内を披露するには危険が大きすぎた。これでは孤独にならざるをえない。悶々とした日々であったろう。

時宗のあとにのこされたのは、わずか十四才の北条貞時だった。当然側近が口をだすことになる。平頼綱と安達泰盛の二人だった。北条の側用人と外様御家人が政務を仕切ればどうなるか。はげしい対立が決定的となった。

一時は安達泰盛が北条の分家を配流するなどして優勢だった。このため外様の御家人がいっせいに台頭しだした。これに不満をもつ北条一族が、平頼綱を先頭にして泰盛を攻撃した。日蓮滅後わずか三年のことである。

この時の状況は奥富敬之・奥富雅子両氏の著作にくわしい。

弘安八年(一二八五)十一月十七日の(さる)の刻(午後五時)、なにも知らずに常のごとくに出仕してきた泰盛親子は、頼綱が密かに伏せておいた討手に(から)め取られ、その場で惨殺された。

その直後、寸時もおかず発せられた北条軍は、鎌倉(あま)(なわ)の安達氏邸を急襲した。泰盛の弟時景、甥時長などの一族は、抵抗する間もなく誅殺(ちゅうさつ)された。

その夜、平頼綱ら御内人勢力は、これを好機として鎌倉中を荒し回った。日頃から対立する傾向のある外様御家人たちの邸を襲撃して、その勢力の削減を図ったのである。この夜誅殺された御家人の数は、五百人を超えたという。主な家名だけでも二十を優に超えている。

多くは、武蔵・上野・信濃に本領をもつものであった。しかし中には、三河・近江・播磨・美作・因幡・安芸などの武士もあり、さらには九州諸国の武士にまでおよんでいた。

続いて、各地の外様御家人のもとにも、追手が差し向けられた。筑前岩門(いわと)では(しょう)()氏の間に合戦が行われている。

外様御家人たちの完全なる敗退であった。鎌倉幕府は、御内人勢力のものとなった。これが後に「霜月騒動」といわれた顛末である。

以後の幕政は御内人の利害のみを追求する形で行われた。一般凡下(ぼんげ)非職(ひしょく)はもちろん、御家人の利害すらも無視されていた。賄賂が盛行し、不正な裁判が行われた。密偵がばらまかれ、拷問が行われた。弾圧の恐怖に、諸人はおびえることになった。

かつて源頼朝が新興の東国武士の府として建設した鎌倉は、一転して奸佞(かんねい)邪悪がはびこる暗黒の世界と化した。

弘安合戦のあと、権勢の人になったのは平頼綱であった。しかし、彼の権勢も長くは続かなかった。若年だった北条時宗の嫡男、北条貞時はこの時すでに二十二歳になっていた。霜月騒動から八年後の正応六年(一二九三)四月二十二日、貞時の手が動いた。

この日の早朝、かつての安達泰盛親子と同様、なにも知らずに出仕してきた平頼綱・頼盛(資宗(すけむね))親子は、殿中(でんちゅう)に伏せてあった討手に生け捕りにされ、頼綱は自害した。

時を移さず、鎌倉経師ケ谷(けいしがやつ)の頼綱邸は、貞時の発した軍勢にひしひしと包囲された。近隣の小野・笠井などの館に火がかけられ、やがて頼綱の一族郎党九十三人は、猛火に包まれて斬り死にしていった。

奇しくもこの頼綱邸は、かつて安達泰盛の追捕を受けた佐介時元の旧邸だったのではないかと考えられる。

この時頼綱はすでに出家し、平禅門果円と称していた。これによって後にこの乱を平禅門の乱という。

貞時は得宗家御家人の筆頭である執事に()()誅戮(ちゅうりく)を加えて、得宗貞時は幕政の実権を回復した。しかし、すでに御内人たちは権力と腐敗の味を知ってしまっていたのである。

以降,事実上、鎌倉幕政の実権を掌握していた御内人に(おど)らされて、虚位と虚名を争う北条氏一門諸家における対立と暗闘が続いた。しかしそれは迫りくる運命の前には、なにほどの影響も与えなかった。すでにして鎌倉は清新の気を失い、絶え間なく続いた戦火と(けっ)(こん)(いろど)られて、腐敗と汚職に(まみ)れ果てていたのである。

弘安の役の五十二年後に鎌倉幕府は滅ぶ。

新田義貞率いる倒幕軍は海岸線をとおり、鎌倉に突入した。この海岸は竜の口の法難の時、日蓮が裸馬に乗り処刑場まで送られた道だった。

道とはいっても海がせまっていたため、大軍は通れない。しかし不思議なことに、この日は海の水がひいて一気に鎌倉を陥れることができたという。

鎌倉を守るのは時宗の孫、高時だった。防戦一方となった幕府軍は、東のはての東勝寺にたてこもる。

ついに倒幕軍は寺を包囲、幕府軍はここで観念し、高時はじめ北条一族と御家人の五百名はそろって自決し、幕府は滅びた。

北条一族はもともと伊豆の片田舎の出だった。それが国を支配するほどにまでなった。今でいえば山あいの村長が、総理大臣にのぼりつめるようなものである。まったくの成りあがりだが、北条氏は武士団を統率し国内を懸命におさめた。

一族の娘政子が頼朝に嫁いだのがきっかけとはいえ、名もない部族が長きにわたって日本国を統治できるものではない。

日蓮はその理由を一族から名君がでたことをあげている。日蓮の人物評はどれも手きびしいが、北条実時と泰時の親子は評価している。実時は承久の変を平定し、武家の世をひらいた。日蓮は実時のことを「文武きはめ尽くせし人」といってほめている。また泰時は御成敗式目を制定し、自らも公平なさばきをみせて名君とよばれた。道理を大切にし、武道の高揚に努めたのだ。

しかし時頼、時宗の代になり、衰退がはじまった。平頼綱のような御内人を起用し、血のつながらない外様御家人を徹底的にほろぼした。あげくはその御内人にあやつられて腐敗堕落していく。

日蓮は北条の末路について、古今の王の例をひきながら予言している。

周の(ぶん)(おう)は老いたる者をやしなひていくさに勝ち、其の末三十七代八百年の間、()()ゑには、ひが事ありしかども、根本の功によりてさか()へさせ給ふ。阿闍(あじゃ)()(おう)は大悪人たりしかども、父びん()()さら(沙邏)王の(ほとけ)を数年や()なひまいらせし故に、九十年の間位を持ち給ひき。当世も又かくの如く、法華経の御かたきに成りて候代なれば、須臾(しゅゆ)も持つべしとはみえねども、故(ごんの)太夫(たいふ)殿・武蔵前司(むさしのぜんじ)入道(にゅうどう)殿の御ま()ごと()いみじくて(しばら)く安穏なるか。其れも始終は法華経の(かたき)と成りなば(かな)ふまじきにや。此の人々の御(びゃく)(あん)には、念仏者等は法華経に()いん()なり、日蓮は念仏の敵なり、我等は何れをも信じたりと云々。日蓮()めて云く、代に大禍(だいか)なくば(いにしえ)にすぎたる疫病・飢饉・大兵乱はいかに。(めし)も決せずして法華経の行者を二度まで大科に行ひしはいかに、不便(ふびん)不便。 『日女御前御返事

権太夫とは北条実時、武蔵前司入道とは泰時のことである。この二人がすぐれていたので北条は世をたもつと見えたが、今は法華経の敵になったのであるから永続はしないという。

幕府の人々はおろかにもいう。念仏者は法華経をよく知っている。日蓮は念仏の敵である。われらはどちらも信じているから罪はないと。

彼らは目の前にある危機がわからない。飢饉・疫病・兵乱の規模が前代未聞であることがみえない。日蓮は開目抄をしるしたが、彼らの目にはなにも見えなかったのである。

北条は滅ぶべくしてほろびた。

『太平記』はその最後を華麗に綴るが、じっさいの光景は悲惨きわまりない。

時宗の孫、高時は出家して相模入道と呼ばれた。討幕軍の猛攻の中、彼はしばし躊躇(ちゅうちょするが、長崎新左衛門という若者に手本をしめされて自害した。新左衛門は、あの平頼綱の遠戚である。

高時が自害したあと、一族はつぎつぎにとりつかれたように死を選ぶ。

この小冠(こかん)に義を進められて、相模入道も()り給へば、城入道つづいて切る。これを見て、堂上に座を列ねたる一門・他家の人々、雪の如くなる(はだえ)(おし)(はだ)脱ぎ脱ぎ、腹を截る人もあり、自ら首をかき落とす人もあり。思ひ思ひの最後の(てい)、ことにゆゆしくぞみえたりし。

(中略)この人々を始めとして、已上百三十余人、総じてその門葉たる人三百八十余人、我(さき)にと腹切って、屋形屋形に火をかけたれば、猛炎(さか)りに燃え上り、黒煙天を(かす)めり。庭上門前に並み居たる兵どもこれを見て、あるいは自ら腹を()()って炎の中に飛び入る者もあり、あるいは父子兄弟さし違へ、重なり()すもあり。血は流れて大地に(あふ)れ、袞々(こんこん)として(こう)()の如く(かばね)は行路に横たはって、累々として(こう)(げん)の如し。死骸は()けて見えざれども、後に名字を尋ぬれば、この一所に死する者、八百七十余人なり。この(ほか)門葉、恩顧の僧俗・男女、聞き伝へ聞き伝へ、泉下(せんか)に恩を報ずる者の、世上に悲しみを促す人、遠国の事は知らず、鎌倉中を考ふるに、総じて六千余人なり。     


 鎌倉幕府北条氏惣領(そうりょう)の家系(得宗(とくそう))に関わる者全てが、討幕の戦火の渦中で自害して果てた。

元弘三年五月二十二日、日蓮没後五十一年目のことだった。



     八十八、女性信徒への手紙 一、光日房 へつづく


下巻目次



by johsei1129 | 2017-09-18 20:59 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)
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