日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 09月 18日

八十六、亡国の始まり

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                                (日蓮大聖人御一代記より)

 日蓮はつねづね蒙古が日本を滅ぼすといった。謗法による罪科が極まったのだ。日蓮はこの二十余年、国主に三度警告し、あらゆる場で妙法を説いたが聞き入れられなかった。事ここにいたってなすすべはなかった。

日本が滅びてもよい。日本国が滅亡しても仏法はのこる。それでよいと考えていた。蒙古がどのような占領施策をとるのかはわからない。ただみじめな敗戦を機に、日本人が根本をあらためることに期待をいだいていた。

それにしても人間は目の前にある危機を正面から見ない。この(さが)はどこからくるのか。この期におよんでも彼らは目覚めない。仏法は迷いの根本を「元品(がんぽん)無明(むみょう)」と呼ぶ。底知れない無明が日本をおおっていた。

日蓮は彼らの不明をなげく。

いまにしもみよ。大蒙古国数万(そう)(ひょう)(せん)をうかべて日本国をせめば、上一人より下万民にいたるまで一切の仏寺・一切の神等をばなげすてゝ各々声をつる()()て南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱へ(たなごころ)を合わせてたすけたまえ日蓮の御房、日蓮の御房とさけび候はんずるにや。例せば月支の大族王は(よう)(にち)(おう)に掌をあわせ、日本の(むね)(もり)(かげ)(とき)うや()まう、大慢(だいまん)のものは敵に随ふという、このことわりなり。彼の軽毀(きょうき)大慢の比丘等は始めには杖木をとゝのへて不軽菩薩を打ちしかども、後には掌をあわせて(とが)くゆ()。提婆達多は釈尊の御身に血をいだししかども、臨終の時には南無と唱へたりき。仏とだにも申したりしかば地獄には堕つべからざりしを、(ごう)ふか()くして(ただ)南無とのみと()へて仏とはいわず。今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも、南無(ばか)りにてやあらんずらん。ふびんふびん。『撰時抄

月あかりの下、蒙古船どうしが太綱でつながれた。夜襲にそなえるためである。

船内では将校たちが上機嫌で酒に酔い大笑した。机上には戦利品の兜がならべられてある。将校が剣をとって舞った。博多の征服は目前だった。

いっぽう日本の軍勢は北条光時ら幕府首脳が円陣をくんで軍議の真っ最中だった。彼らはこの一日の激戦で疲労困憊している。まわりに意気消沈した兵士が充満した。

手下が無言で酒をついでまわる。

光時が盃をかかげる。

「あれほどの大軍じゃ。どうすることもできぬ。明日はわれらの最後の日となろう。鎌倉武士として、名に恥じない戦いをしてみせようぞ」

しかし光時の檄にこたえる者はわずかだった。

甲州身延では日蓮が燭台の明かりのもと、伯耆房日興を筆頭とした六老僧に講義をしていた。

法華経二十八品の文々句々にわたる講義だった。これはのちに「御義口伝」として日興が筆録し、日蓮の裁可を得てまとめられる。

伯耆房は全身で日蓮の講義をきいた。ここに一切衆生を救う方途がある。彼は日蓮の言葉を一言ももらすまいと、全身を耳にするかのような覚悟で聞いていた。

日蓮は齢六十となった。日々衰弱がつづいている。下り腹をはじめとして病にもおそわれていた。いやでも死期は近づいている。いきおい弟子の講義にも力がはいった。

この仏法を未来にのこさねばならない。講義は延々とつづき、終わりをむかえようとしていた。

第五 正法治国不邪枉(ふじゃおう)人民の事。

末法の正法とは南無妙法蓮華経なり。この五字は一切衆生をたぼらかす秘法なり。正法を天下一同に信仰せば此の国安穏ならん。されば玄義に云はく『若し此の法に()れば即ち天下泰平ならん』と。此の法とは法華経なり。法華経を信仰せば天下安全ならん事疑いあるべからず云云


 いっぽう日本の南、博多湾の晴れ渡った天空には、まばゆいばかりの無数の星々が一面にひろがっていた。

そこに蒙古の軍勢を待ち受ける光時ひきいる日本の兵士が防塁に横たわっていた。

真夜中というのに眠れない。明日は死をわけた戦いがまっている。兵士は不安にさいなまれていた。

この静かな夜に突然、一陣の風がふいた。歩哨がおどろいて立ちあがった。

「むくりか」

光時が夜空を見あげた。彼は西の空にどす黒い雲がわきおこるのを見た。輝く星が黒い雲でみるみる覆われていく。天候の急変があきらかだった。

「嵐だ」

と言ったとたん、轟音と暴風がまきおこり、兵士が吹きとばされた。

猛烈な風雨が襲ってきたのだ。

沖の蒙古船団もかたむいた。船内の調度品や戦利品が床に散らばった。

将軍が叫ぶ。

「日本軍か」

「いえ、嵐です」

「ばかな。月は澄んでいたぞ」

「将軍、柱がたおれますぞ」

海上はたけり狂ったように波しぶきが舞った。蒙古船隊が大波をまともに受けてゆれる。帆柱は折れ、船員が阿鼻叫喚の叫びをあげた。船同士はつながれていたために身動きがとれない。そのため船隊は風波に耐えきれず、衝突しながら一艘一艘、つぎつぎに沈没していった。

船員の悲鳴が大風とともに消え去った。

陸上では日本軍のやぐらが音をたててくずれ、闇にふきとばされた。馬でさえころがっていく。さけぶような突風の中、光時ら日本兵は地面にはいつくばった。

「ひけ、ひけ」

おろかにも中腰になった兵士が宙に浮いて飛ばされた。日本兵すべてが地に伏せ、防塁にとりついた。

弘安四年七月一日の朝、日本兵は異様な湾岸の光景に声をうしなった。

蒙古船が打ちあげられ大破している。そしておびただしい兵士が、波打ち際に死体となって横たわっていたのである。

元側の記録には三人しか生存しなかったとある。ほぼ全滅だった。

 蒙古来襲の様子を記録していた八幡愚童訓()では「死人多く重なりて、島を作るに相似たり」と記されているほど悲惨な状況だった。


蒙古艦隊全滅の急報が届いた鎌倉幕府の侍所にはすべての御家人が参集し、思いがけない勝利にわきたった。

平頼綱が勝利者の時宗に言上した。

「殿、祝着にぞんじまする。これで敵の反撃はしばらくありませぬ。これも殿の武運のおかげでござる」

泰盛も祝った。

「全国の寺社仏閣の祈りがかなって神風が吹きましたぞ。幕府として褒美をとらせましょう。日蓮め、日本国が滅ぶなどと、たわけたことをいいおって」

一同が爆笑した。

こうして国中が劇的な勝利に酔いしれた。

全国の寺社も一斉に神仏に感謝の念を奉じた。蒙古軍をおそった神風は自分たちの祈祷のゆえであるという。極楽寺良観はもちろん、彼の師である西大寺の叡尊も「()(あに)(しか)らんや」と語り、まるで自分の手柄のように吹聴した。逆に日蓮の門下には動揺がひろがった。


 元寇は蒙古軍の全滅で終わった。

 敗北を覚悟した状況で、神風が吹いたとはいえ、勝利したことに変わりはない。奇跡的な勝利ゆえ、喜びも大きかった。結果的に日本国の滅亡はかろうじて回避された。

日蓮の予言ははずれたのだろうか。それとも日蓮の予測に違い、真言の祈りが功を奏したのか。

日蓮は五年前の建治二年、次のように記している。

此の国の亡びん事疑いなかるべけれども、(しばら)く禁をなして国をたすけ給へと日蓮が()かうればこそ今までは安穏にありつれども、()うに過ぐれば罰あたりぬるなり。又此の度も用ひずば大蒙古国より打手を向けて日本国ほろぼさるべし『種々御振舞御書

国を助けよと日蓮が控えていたから今まで平和だったが、仏法の理を過ぎることがあれば罰があたるであろう。この度も日蓮を用いなければ日本は滅ばされるだろう、と。

また弘安二年十月一日に記した『聖人御難事』ではこう記している。


()最明寺殿(北条頼宗)の日蓮をゆるししと此の殿(北条時宗)(ゆる)ししは、(とが)なかりけるを人のざんげん(讒言)と知りて許ししなり


 弘安の役の現地の
総司令官は北条実政だったが、日本の総大将は言うまでもなく執権北条時宗である。時宗は蒙古来襲・二月騒動の勃発により、日蓮が立正安国論で父時頼に予言した他国侵逼難と自界叛逆が見事に符合したことに恐れをなし、周囲の反対を押し切って日蓮への佐渡流罪を赦免した。
 その上、日蓮を客人として招き、蒙古来襲の時期を尋ね、本年中は必定との貴重な答えを日蓮から得ている。さらに蒙古討伐の祈祷を依頼するとともに、大寺院の寄進を願い出ている。日蓮が願った他宗への布施の禁止と、時宗の法華経への改宗は受け入れられなかったが、時宗が事実上日蓮の法華宗を公認した意味は小さくない。時宗の日蓮ご赦免以降、平頼綱とて日蓮門下の弟子や武家の信徒に直接手を出すことはできなくなった。熱原法難は、農民であるがゆえ時宗の目の届かない(すき)突いた頼綱単独の弾圧だった。

弘安の役の時、聖人日蓮は厳然と身延山中に控えていた。そして日本の総大将北条時宗は日蓮を許し、門下による布教を認めた。また時宗自身、内心で日蓮を畏敬していたとも言えよう。

あるいはこれは全く想像の域を出ないが、九千艘にも及ぶ蒙古の巨大船団の来襲を知り、絶体絶命の危機を感じた時宗が思わず「南無妙法蓮華経」と心の中で念じていたとしても全く不思議ではない。日蓮は謗法による与同罪を恐れ、時宗の「蒙古討伐の祈祷」および寺社寄進の申し出を一瞥(いちべつ)せず拒絶したが、時宗が日蓮を用いようとしたことは間違いない。日蓮も「蒙古来襲は本年中にある」と言う確信を、平頼綱を通じて時宗に示している。つまるところ、北条時宗が日蓮および法華宗を認めたことが、諸法実相上は、台風来襲により日本が蒙古軍に占領されるという最悪の事態をぎりぎりで免れた要因だと強く推察される。

富木常忍は弘安の役の直後の七月十五日に、蒙古の船団が台風で絶滅したことを「世間では京都の思円上人(叡尊)の祈禱の効験と風潮しているが、そのようなはずがあるのでしょうか」と日蓮に手紙で問いかけている。

それに対し日蓮は次のように返信している。

七月御状の内に云く鎮西(ちんぜい)には大風吹き候て浦浦・島島に破損の船充満の間乃至京都には()(えん)上人・又云く()(あに)(しか)らんや等云云、此の事別して此の一門の大事なり、総じて日本国の凶事(きょうじ)なり()つて病を忍んで一端(ひとはし)是れを申し候はん、是(ひとえ)に日蓮を失わんと()()かろう事を造り出さん事(かね)て知る、其の故は日本国の真言宗等の七宗・八宗の人人の大科(たいか)今に始めざる事なり、然りと(いえど)(しばら)く一を挙げて万を知らしめ奉らん。<中略> 今(また)彼の僧侶の御弟子達、御祈祷(きとう)承はられて候げに候あひだ、いつもの事なれば秋風に(わずか)の水に敵船・賊船なんどの破損(つかまつ)りて候を大将軍(いけ)(どり)たりなんど申し、(いの)成就(じょうじゅ)の由を申し候げに候なり、又(もう)()の大王の(くび)の参りて候かと問い給うべし、其の外はいかに申し候とも御返事あるべからず、御存知のためにあらあら申し候なり。乃至此の一門の人人にも相()れ給ふべし 『富城入道殿御返事』(弘安四年十月二十二日)

日蓮は思円上人が勅命により七月一日に戒を説き、愛染法を修したところ、雷雲(にわか)に起こって西へ向かい、その夜西海に神風が吹いて蒙古の軍船が悉く覆没(ふくぼつ)したという虚構の霊験を作って流布させたのであろうと見抜き、この事が世間に信じられているようなことがあれば日本国の凶事であるとして、真言の祈祷は国を亡ぼし、家も我が身も亡ぼすことを、先例を挙げて説いている。

また、「祈りが叶ったというならば蒙古の大王の頸がとどいたのかと反問すべきである。そのほかのことはどのように言っても、返事をしてはならない。知っておかれたほうがよいと思うので、あらあら申したのである。なおこの事は一門の人々にも伝えておきなさい」と門下一同に知らしめている。

七月に届いた常忍の手紙の返書が十月になった訳は「老病()るの上又不食(ふしょく)()に候間未だ返報を奉らず候」と記しているが、その間日蓮は思円上人が日蓮の法華宗が幕府に認められたことに恐れをなし、作り話を吹聴していることを調べていたと思われる。 

時宗はかろうじて蒙古の日本侵略を際どく回避したが、日蓮が示していた日本亡国の危機が払拭されたわけではない。

この二度の元寇で日本側が物質的に得たものはなく、御家人たちを不満にしたとされる。弘安の役のあと、幕府は元軍の再度の襲来に備えて御家人の統制を進めたが、この戦争に対しても十分な恩賞給与がなされなかった。また、九州北部周辺へ動員された異国警固番役も鎌倉時代末期まで継続されたため、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになった。幕府は徳政令を発布して御家人の困窮に対応しようとしたが、御家人の不満は解消されなかった。

貨幣経済の浸透や百姓階層の分化とそれに伴う村落社会の形成といった、十三世紀半ばから進行していた日本社会の変動は、元寇の影響によってますます加速の度合いを強めた。借金が棒引きされた御家人も、のちに商人が徳政令を警戒し御家人との取引・融資などを極端に渋るようになったため、結果的に資金繰りに行き詰まり没落の色合いを見せるようになった。そして、御家人階層の没落傾向に対して新興階層である悪党の活動が活発化していき、御家人らの中にも鎌倉幕府に不信感を抱くものが次々と登場するようになった。これらの動きはやがて大きな流れとなり、最終的には鎌倉幕府滅亡の遠因の一つとなった。

 弘安の役から五十二年後の一三一三年、鎌倉幕府は滅ぶことになる。幕府により確立した封建制武家社会の崩壊は、いやがうえにも群雄割拠の内乱時代、つまり織田、豊臣、徳川が歴史を賑わした戦国時代をむかえることになる。このあと二七○年後の徳川幕府成立まで、日本は確固たる政権が失われ、国主不在の政治的混迷の時代を余儀なくされた。日蓮の予告どおり、亡国の時代をむかえたのである.

さらに文応元年(一二六○)七月十六日、当時の実質的国主・北条時頼に献上された立正安国論による日蓮の予言は、約七百年後に勃発した太平洋戦争で不幸にも的中した。

 五三八年、欽明天皇の時代に百済の聖明王により伝えられた仏教は、法華義疏(法華経の解説書)を著した聖徳太子によって法華経の理念に基づく政治がなされた。

聖徳太子は日本の八百万(やおろず)の神は、仏を守護する諸天善神とすることで、仏教を政の理念として政治を執行していったが、千四百年後、日本の軍事政権は、仏や諸天善神の下で政をする国王つまり天皇を最上位に置き、靖国神社という明治政府によってつくられた、いわば新参者の神を仏の上に置く宗教統制を敷いた。これは鎌倉幕府当時の法華経を用いず、劣っている爾前教の念仏、真言、禅、律を国家理念の基盤に置いた状況より一層破滅的ともいえる宗教政策だった。しかしこの宗教政策に真っ向から国家諫暁する聖人は存在しなかった。

宗祖日蓮大聖人から数えて六十二番目の当時の貫首日恭(にっきょう猊下(げいか)、五十九世をつとめた堀(にち)(こう上人に、猊下の座を降りて国家諫暁をしたいと相談されたという。それに対し日亨上人は猊下のままで諫暁されたほうが良いと述べたという。しかしついに国家諫暁はなされなかった。

その結果日本国は外国の兵士により罰せられ焦土と化し、終戦後日本はGHQにより占領される。まさに日本亡国となってしまった。

大御本尊建立以来、六百六十六年守り続けてきた富士大石寺は火災が発生、大御本尊は守られたが六十二世日恭猊下は覚悟の焼死をすることになる。

しかしその結果、日蓮が国家諫暁した最大の目的である国家による誤った宗教への布施は禁止された。

GHQは一九四五年十二月十五日、日本政府に対して神道指令を発し、国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督ならびに弘布は廃止された。

さらに日本国政府は一九四六年(昭和二一年)十一月三日に日本国憲法を公布。その憲法二十条で信教の自由、国の機関のすべての宗教への関与と財政的援助の禁止が謳われた。

第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
 二 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
 三 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。


憲法の公布は、鎌倉幕府当時であれば「勅宣(ちょくせん)並びに御教書(みきょうしょ)」を申し下したと事と同義であろう。

このことで日蓮門下の弟子及び信徒は、法門の勝劣を説くことで布教をすすめることができ、日本広布の法的な環境は整ったことになった。



               八十七、鎌倉幕府の最後 につづく


                      注

八幡愚童訓 

鎌倉時代中期・後期に成立したと思われる八幡神の霊験・神徳を説いた寺社縁起。石清水八幡宮の社僧の作と考えられる。(ウィキペディア)




by johsei1129 | 2017-09-18 18:27 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(3)
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Commented at 2017-12-14 17:34
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Commented by johsei1129 at 2017-12-14 22:25
> miamijor88さん
返答。大聖人御自身は蒙古退治の祈祷とか寺院の寄進などの具体的な事柄は記述されておりません。したがってこれらの事は御書のどこにも出てきません。
しかし文永十一年に鎌倉幕府が大聖人を赦免し、佐渡から鎌倉にわざわざ呼び寄せたのは大聖人を幕府権力に取り込もうという思惑があったためであり、その見返りとして寺院寄進を申し出るのは自然の事です。また年内の蒙古来襲を大胆に予言した大聖人に祈祷を依頼するのはある意味当然と思います。
簡単ですが以上により、これらの推察は恐らくは正しいと考えるものです。
Commented at 2017-12-15 21:58
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。


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