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日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 09月 18日

八十五、弘安の役、蒙古再び来襲


                    (蒙古来襲絵詞:ウィキペディアより)


 日蓮は蒙古の攻撃で日本国が滅ぶことを予言していた。法華経の兵法でなければ、国は必ず敗れる。日本国が滅んだのちに法華経が弘まっていくだろうという。新たな王のもとで妙法が栄えるといった。
 日蓮はたとえ国が滅んでも妙法がのこればよいという。弟子たちの手紙にくりかえし説いている。

さては各々としのころいかんがとをぼしつるもう()()の事、すでにちかづきて候か。我が国のほろ()びん事はあさましけれども、これだにもそら()事になるならば、日本国の人々いよいよ法華経を(ぼう)じて万人無間地獄に()つべし。かれだにも()よるならば国はほろぶとも謗法(ほうぼう)はうすくなりなん。譬へば灸冶(やいと)をしてやまいをいやし、針冶(はりたて)にて人をなをすがごとし。当時はなげ()くとも後は悦びなり。日蓮は法華経の御使ひ、日本国の人々は大族(だいぞく)王の一閻浮提の仏法を失ひしがごとし。蒙古国は雪山(せっせん)()(おう)のごとし。天の御使ひとして法華経の行者をあだ()む人々を罰せらるゝか。又、現身に(かい)()ををこしてあるならば、阿闍(あじゃ)()(おう)の仏に帰して白癩(びゃくらい)()め四十年の寿(いのち)をのべ、無根の信(注)()と申す位にのぼりて現身に無生忍(注)をえたりしがごとし。恐々謹言。『蒙古事

大族王とは古代インド磔迦(たくか)国の王である。大唐西域記によるとマカダ国を攻めた時、仏教徒であった幻日王にとらえられ、殺されかけたが幻日王の母の願いで助かり、カシミラ国にのがれた。ここで反乱をおこして王を殺し、さらに健駄(けんだ)()国を攻めて寺院仏塔を破壊し、国民の大多数を仏教徒であるとの理由で殺してヒンドゥー川に沈めるなどした。しかしその年の内に王も死去し無間地獄におちたという。

日蓮は日本国の人々が大族王であるという。懸命な折伏にもかかわらず、日本国は法華経を信じない。念仏、禅、真言という悪法をたもつ者が充満するばかりである。むろん国主も理解しない。

日蓮はまた蒙古を雪山下王にたとえている。昔、カシミラ国の王となった()()()王が、僧尼を迫害し仏教を弾圧した。これを聞いた雪山下王が、国内の勇者三千人を(つの)って隊商に紛してカシミラ国へ入った。雪山下王は三千人から精鋭五百人を宮殿にのぼらせ、宝貨を献上するといつわって、袖にかくしもっていた刀で訖利多王を殺害した。その後、カシミラ国にはふたたび仏教が栄えたという。このように蒙古は邪法に染まりきった日本を倒し、新しい国をつくるであろうと。

北条幕府は諫言をきかず、二度まで流罪し(はずか)しめ衆目にさらした。

では日本国が滅亡したとき、弟子はどうなるのか。

日蓮は妙法をたもつ者は国難の中でも必ず救われると答える。

若干十六歳の若き信徒、南条時光の手紙にしるす。

()のなか上につけ下によせて、なげきこそをゝ()く候へ()にある人々をば( 世)になき人々はきじ()たか()をみ、がき(餓鬼)毘沙門(びしゃもん)をたのしむがごとく候へども、たか()わし()につかまれ、びしゃもんは()()にせめらる。そのやうに当時日本国のたの()しき人々は、蒙古国の事を()ゝては、ひつじの虎の声を聞くがごとし。また筑紫へお()むきて、いとをしき()をはなれ子を()ぬは、皮をはぎ、肉をやぶるがごとくにこそ候らめ。いわうや、かの国よりおしよせなば、蛇の口のかえる、()うち()()がま()いたにをけるこゐ()ふな()のごとくこそおもはれ候らめ。今生はさておきぬ。命()えなば一百三十六の地獄に堕ちて無量劫(むりょうこう)()し。我らは法華経をたのみまいらせて候へば、あさきふち()に魚の()むが、天くもりて雨のふらんとするを、魚のよろこぶがごとし。

しばらくの苦こそ候とも、ついにはたのしかるべし、国王の一人の太子のごとし、いかでか位につかざらんとおぼしめし候へ。  恐々謹言。

弘安三年七月二日      日蓮花押

人にしらせずして、ひそかにをほせ候べし。    『上野殿御返事

博多湾はよく晴れていた。漁師ものんびりと釣りをしている。

ひげ面の兵士が、やぐらで水平線をみつめていた。頬がこけ、焼けた黒い顔が長い勤務をあらわしていた。彼はのどかすぎる風景にあくびをした。

鎌倉では時宗を中心に平頼綱、安達泰盛らの幕府首脳が酒を飲んでいた。

時宗の気分が晴れない。蒙古の来襲が今か今かという時である。すでに蒙古は二年前、南宋をほろぼしていた。こんどは日本の番である。

しかし時宗の心配をよそに、部下は笑いあっていた。とりわけ頼綱と泰盛がしたたかに酔っている。

泰盛の機嫌がいい。

「蒙古め、もう襲ってはこないのではあるまいか。あらつら漢土を征服したばかりだ。日本にやってくる余裕はないはずじゃ」

北条宣時も同調した。

「こんどばかりは日蓮の予言もはずれたな。あやつ、甲斐の山でさかんに蒙古がくると吹聴しておる。いつかしとめてくれよう」

頼綱は面白くなさそうだった。

「外の敵がおとなしかろうと安心はできぬ。内にも敵がおりますからな」

泰盛は頼綱のいうことがいちいち(しゃく)にさわる。

「左衛門尉、おぬしもおとなしくすることだ。熱原の失態は情けないことであったな。罪ない百姓の首を刎ねたのは、いずれおぬしの咎となるであろう。気をつかれよ」

頼綱がかえした。

「泰盛殿こそ気をつけよ。そなた、ちかごろ源姓を名乗ろうとしているとか。高望みされているようであるな。なんの含みでござる」

泰盛が不意をつかれてとりつくろった。

「なにをたわけたことを。おぬしは北条の門番としてつとめておればよいのだ」

頼綱も酔っていた。

「なにをいわせておけば。そちこそ成りあがりではないか。女房が殿の乳母であっただけだ。御家人の内輪もめで、のしあがっただけではないか」

泰盛が盃を頼綱の足元になげつけた。

「左衛門尉、おぼえておけ。いつか泣きをみるぞ」

頼綱も酔いながらにらみかえす。

「そのほうこそ。油断するな」

若い時宗がうんざりした声をだした。

「両方ともよさぬか。その気負いは蒙古のためにとっておけ」


その時、頼綱の従者が唐突に飛びこんできた。

「筑紫から注進がまいりました。沖合に大船団が集結。蒙古の旗印を掲げているとのこと」

「なにい、蒙古の旗印だと」

頼綱は大声で叫ぶと、手にしていた盃を目の前の膳に叩きつけるように置いた。

「ところで兵の数は」

「およそ四万とのこと」

一同が立ちあがった。

「ついにきたか」

 頼綱が時宗に言上した。

「報告のようすであれば、合戦はひと月以内におきまする。ただちに兵の準備を」

時宗はもっていた酒をかたむけ、膳にそそいだ。

頼綱がうなずいて従者に命令した。

「全軍に伝えよ。九州へ出陣だ。それとご家人に割り当てた石塁()に不備がないかすぐに検分し、瑕疵(かし)あれば直ちに補修させよ

みな出ていき、静寂がおとずれた。

時宗は宙をみつめながらぼそりといった。

「日蓮殿はどうされているかのう」

時宗以下の北条幕府は日蓮にひれ伏すことができない。目の前の国難がひかえているのになにもできずにいる。他国侵逼(しんぴつ)を予言し、二月騒動を的中させ、蒙古の年内の来襲をあてた日蓮を用いることができなかった。用いるだけでなく迫害をもって応えてしまった。

日蓮は時宗たちの心中を見とおしている。

鹿馬(ろくば)迷ひやすく、(よう)(きゅう)変じがたき者なり。墓無し墓無し。当時は余が(いにしえ)申せし事の(ようや)く合ふかの故に、心中には如何(いかん)せんとは思ふらめども、年来(としごろ)あまりに法にすぎてそしり悪口せし事が(たちま)ちに(ひるがえ)りがたくて信ずる由をせず、而も蒙古はつよりゆく。如何せんと(むね)(もり)(よし)(とも)が様になげくなり。

あはれ人は心あるべきものかな。孔子は()()一言、周交(しゅうこう)(たん)(ゆあみ)する時は三度にぎり、食する時は三度吐き給ふ。賢人は此くの如く用意をなすなり。世間の法にも、は()にすぎばあやしめといふぞかし。国を治する人なんどが人の申せばとて委細に尋ねずして、左右なく(とが)に行なはれしは、あはれくやしかるらんに、()(けつ)(おう)(とう)(おう)に責められ、()(おう)(えつ)(おう)に生けどりにせられし時は、賢者の諫暁を用ひざりし事を悔ひ、阿闍(あじゃ)()(おう)(あく)(そう)身に出で他国に(おそ)はれし時は、提婆(だいば)を見じ聞かじと誓ひ、乃至(むね)(もり)がいくさにまけ義経(よしつね)に生けどられて鎌倉に下されて(おもて)をさらせし時は、東大寺を焼き払はせ山王の御輿(みこし)()奉りし事を歎きしなり。

今の世もたがふべからず。日蓮を(いや)しみ諸僧を貴び給ふ故に、自然(じねん)に法華経の強敵(ごうてき)となり給ふ事を(わきま)へず、存の外に政道に背きて行なはるゝ間、梵釈・日月・四天・竜王等の大怨敵(おんてき)と成り給ふ。法華経守護の釈迦・多宝・十方分身の諸仏・地涌千界・迹化(しゃっけ)他方・二聖・二天・十羅刹女・鬼子母神は他国の賢王の身に入り()はりて国主を罰し国を亡ぜんとするをしらず。(まこと)天のせめにてだにもあるならば、たとひ鉄囲(てつち)(せん)を日本国に引き(めぐ)らし、須弥山(しゅみせん)(おお)ひとして、十方世界の四天王を集めて、()(ぎさ)に立ち並べてふせがするとも、法華経の敵となり、教主釈尊より大事なる行者を、法華経の第五の巻を以て日蓮が(こうべ)を打ち、十巻共に引き散らして散々に()みたりし大禍(たいか)は、現当二世にのがれたくこそ候はんずらめ。日本守護の天照大神・正八幡等もいかでかかゝる国をばたすけ給ふべき。  『下山御消息

徴集された兵隊が鎌倉大路を進軍する。沿道には妻子が涙で見おくった。

大寺院では僧侶の群れが色とりどりの法衣で敵国降伏を祈った。彼らの背後には信徒が密集して祈願した。

いっぽう蒙古の大戦隊は朝鮮沿岸に集結した。蒙古と高麗の連合軍だった。元寇以前では類を見ない世界史上、最大規模の艦隊であった。戦艦が最大九千艘ともいわれる巨大な船隊が満載の兵士をのせ、玄界灘の波をかきわけてすすんだ。

さらに驚くべきことがあった。

北条幕府は探知していなかったが、中国大陸からも大船団十万人が日本にむけ出航していたのである。蒙古に敗れた南宋の兵だった。フビライは敗残の兵に日本への出兵を命じたのである。高麗からの四万とあわせて計十四万の大軍団であった。史上まれにみる派兵である。

弘安四年五月二一日、蒙古軍は対馬沖に到着し、世界村大明浦に上陸。蒙古と日本の雌雄を決する戦いが始まった。

戦況は一進一退の状態が続き、六月になっても決着はつかない。
 日蓮は六月十六日、全信徒に書を送った。他国侵逼が的中したことを誇って人に語ってはならないという。弟子の軽挙妄動を戒めている。

 花押

小蒙古国の人大日本国に寄せ来るの事

我が門弟並びに檀那等の中に、()しは他人に向かひ、(はた)(また)自ら言語に及ぶべからず。若し此の旨に違背(いはい)せば門弟を離すべき等の由存知する所なり。此の旨を以て人々に示すべく候なり。

弘安四年太歳辛巳六月十六日 
  人々御中            『小蒙古御書

快晴の日だった。

博多湾では物見やぐらの兵士が、あわてふためいておりてきた。

敵船が海上をうめつくしている。

日本軍が呼応するように騎馬隊を先頭に出陣した。

四条金吾の主人、北条光時が先頭にいる。彼は海上をうめつくした蒙古船団を見て、呆然と立ちつくした。

日本軍は陸上二十キロにわたって築かれた防塁にとりつき、長弓を手にもつ。

海上の蒙古軍もまた人の高さまで積みあげた防塁を見て驚きの声をあげた。

光時が日本の全軍に告げる。

「よいかこの場を死守せよ。ここを破られれば、わが日本の明日はない」

この時、蒙古船から爆薬が飛び、日本軍の陣中で破裂した。人馬が悲鳴をあげる。このすきに蒙古軍は下船して突撃した。

日本軍は長弓をいっせいに放った。前回の敗退からあみだされた戦法である。蒙古兵に日本得意の一騎打ちは通じない。砂浜で蒙古を撃破し、肉弾戦をさけるためだった。

長弓の殺傷力ははかりしれない。はるか遠くからでも敵を突き刺した。「平家物語」の那須与一は四十間(約七十二メートル)から的を射当てている。幕府は強弓の武者をそろえていた。

爆薬の煙が充満するなか、大量の弓が放たれた。突撃する蒙古兵がつぎつぎとたおれていく。日本軍は懸命に弓をひきはなつ。

北条光時も檄をとばした。

「撃て、撃て。命ある限り撃ち続けるのだ」

爆薬が光時のすぐ近くで炸裂し、弓手が吹き飛んだ。光時がかわって弓を引く。矢は、はるか彼方の蒙古兵を突き刺した。

やがて蒙古兵がなだれをうって防塁にとりついた。光時はのりこえようとする蒙古兵を斬りふせた。数万の蒙古兵が高さ二メートル、長さ二十キロの防塁にとりついていく。激戦は陽が傾くまでおよんだ。日本軍はしばらくもちこたえたが、ついに突破された。蒙古軍は防塁をとびこえて日本軍を斬りつけていった。激戦となったが日本軍がしだいにおされていく。

光時は従者とともに騎上で奮戦するが、疲労の色が濃くなった。

「援軍はどうした」

「援軍はすべて到着しました。今の勢力が限界でございます」

従者が斬られた。

蒙古兵はいっせいに光時を襲ったが、からくも逃げきった。

文永の役につづいて日本軍の敗走が決定的となっていた。

蒙古はいっせいに勝ちどきをあげる。しかしここで蒙古の将軍は沖の艦船に兵を戻すよう命じた。夜襲に備えるためである。

将軍は宣言した。

「明日この港には、蒙古の旗が立ちならぶであろう」

 蒙古軍がふたたび勝ちどきをあげた。



          八十六、 亡国の始まり につづく



下巻目次



無根の信

無根とは信心がないこと。信心のない者が仏力によって信心をおこすこと。


無生忍

 無生法忍の事。無生無滅の真理を悟り、そこに安住して心を動かさない位の事。初地不退(別教)・初住不退(円教)の位。


石塁

北条時宗は蒙古の再襲来の備えとして、九州の御家人に、博多沿岸に約二十キロに及ぶ高さ二~三メータの石塁(元寇防塁)を御家人の負担で築かせていた。割当は各御家人の所領に基づき、おおよそ一ヘクタール当たり三十センチの構築だったという。





by johsei1129 | 2017-09-18 15:36 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)


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