2017年 09月 18日
日蓮は伯耆房から問注の顛末について報告をうけた。 評定は熱原の農民信徒にお咎めなしで終決した。頼綱は法廷の場で争うことをあきらめたのである。 法華衆に安堵がひろがった。身延の山中には祭りのように人がむらがり、日蓮の館に米や野菜の山ができた。熱原の危急をきいて信徒があつまったのだ。 日蓮は上機嫌だったが、この人々の中に四条金吾の従者を見かけた。顔なじみの爺である。 この爺は常に金吾のそばをはなれずにいた。だがどうしたのか、金吾本人がここにいない。爺はなぜ一人でここにいるのか。 日蓮が急に不安になった。 「たしかそなた、金吾殿の・・金吾殿はどこにおられる」 爺はにこやかだった。 「はあ、主人は殿様と酒盛りがありまして、わしが一人でまいりました。金吾様は自分のことは大丈夫だから、お前は甲斐へ行って聖人の手伝いをせよとおおせで」 金吾が一人で鎌倉にいる。危険だ。 この夜、鎌倉では光時と金吾の主従が酒宴の席にいた。 宴が行われる庭には、かがり火がいくつも炊かれていた。 光時の妻が金吾に酒をそそぐ。妻は夫の病をなおした金吾に絶大の信頼をよせていた。 金吾が顔を真っ赤にしている。 「殿、しつこいようですがお考えを」 光時が笑った。 「わかっておる、まったくおまえの法華経狂いには、ほとほと愛想がつきるわ」 一同も笑うが金吾はにこりともしない。 「殿、まじめに聞いてくだされ。この金吾は殿から過分な所領をいただき、恐縮いたしておりまする。某を憎む同僚もあまたおるというのに、かたじけなき次第。さりながら金吾は殿になにもお返しすることができませぬ。このうえは日蓮聖人の教えを持っていただくことが殿への御奉公と存ずるのでございます」 「わかった。考えよう。だがわしはいずれ筑紫へいく。蒙古がまちがいなく攻めてくる。その準備で今はいとまもない身だ。合戦があればどうなるかわからぬ。もし命があれば、おぬしのいうとおりにするとしよう」 金吾が酔いながら涙をうかべた。 「殿、それを聞いて安心いたしました。ではそろそろ」 「帰りは気をつけるがよい。爺はどうした」 「甲斐におります。聖人のもとに」 「それは心配だ。家来をつけよう」 「ご心配は無用にございます。それよりも蒙古退治の件、ご無事を祈っておりまする」 「あいわかった」 日蓮は金吾の身を案じていた。 激情家の金吾は同僚に憎まれ、いさかいが絶えない。その金吾が加増されたのである。同僚の嫉妬は頂点に達していた。同僚たちは金吾が生きているのが耐えられない。金吾の命は彼らの手の中にあった。 日蓮は常日頃、金吾にこまごまと注意していた。とくに酒には格段、気をつけるよう促した。 かまへて・かまへて御用心候べし、いよいよ・にくむ人人ねらひ候らん、御さかもり夜は一向に止め給へ、只女房と酒うち飲んで・なにの御不足あるべき、他人のひるの御さかもりおこたるべからず、酒を離れて・ねらうひま有るべからず、返す返す、恐々謹言。 『主君耳入法門免与同罪事』 帰り道は満月に照らされて足元が明るい。 金吾がひとり、ふらつきながら鼻歌をならして見あげた。 「美しいのう。在世の月は今も月、在世の花は今も花。あの月があと何度満ち欠けすれば、法華経流布の世となるのかのう」 この時、金吾は気配を感じ一瞬振り返ると、なにかが光った。 金吾は光に反応し、すばやく刀を払って敵の刃をかわした。撃剣が火花を飛ばす。 金吾がすぐに正眼に構え相手を威圧する。 いつのまにか四人の武士にとりかこまれた。四人はみな覆面をしていた。金吾は動じない。酒気はふきとんでいた。 (やはり襲ってきたか) 覆面の武士は金吾を完全にとりかこんだ。逃げ場がない。絶体絶命だが金吾は全知全能を絞った。どこかに隙があるはずだ。 覆面からわずかに見える目が笑っている。金吾は瞬間、彼らが助太刀のいない金吾一人なら簡単に殺せると楽観していると感じた。そう思うと心に余裕が出てきた。 「人ちがいでござろう。それがし中務三郎左衛門尉頼基、人呼んで四条金吾と申す」 武士は金吾の声など耳に入らない。間合いを詰め、雄叫びをあげて金吾に斬りかかってきた。 金吾はその剣をはらい、すり足で下がる。 「恨みを買うおぼえはない。あるとすれば過日それがし、わが主君から過分なる所領をいただいた。だが家臣は多い。餌を求め、少ない水に魚さわぎ、せまい林に鳥があらそう。するとおぬしらは魚か、はたまた鳥でござるか」 怒った武士が刀をふりおろすが、金吾は刃こぼれしないよう棟でがっちり受けとめ、体をあわせた。 「おお、その目はたしか島田入道。仏門に片足を入れて、闇打ちが得意とな」 島田が怒りのあまり金吾の剣をはらい、斬りつけようとするが、一瞬はやく金吾が刃先で胴をはらった。島田は悲鳴をあげてさがる。 のこる三人が顔を見合わせる。その目は「酔っているはずなのにこんなに強いのか」と語っている。 いっぽう金吾は自分でも不思議なくらい冷静だった。 「どうかのう、わしを生かしてはくれぬかのう。この金吾、身分は低いが法華経をたもつ身。古い袋が黄金をつつみ、蛇が玉をもつようなもの。この金吾が主とも、師匠とも、親とも慕う日蓮聖人のもとに、いましばらく身をおきたい。阻む者は魔であり鬼とみなすしかないぞ」 武士が上段に構え金吾に斬りかかったが、また金吾は安々とくい止めた。その時一人が、金吾のうしろを回り、背中へ大上段にふりおろした。 金吾はすばやくしゃがみ、体をかわす。ふりおろした武士はあやまって仲間を斬ってしまった。斬られた武士は悲鳴をあげて去っていく。 のこるは二人。 二人の息づかいが異様にはげしい。剣先が定まらない。 「どうしても相手いたすか。殺生は仏の禁ずることながら、事ここにおよんではいたしかたなし。この金吾も覚悟を決めようぞ」 金吾はもはや相手を見下し、脅すように力強く言い放った。 「ではまいるぞ。臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前 」 刺客は二人の金吾がいっせいに襲ってくるのを見て、悲鳴をあげ逃げ去った。 金吾は敵が去っていくのを見届けると、ほっとして、へなへなと地面にすわりこんでしまった。 そして両の手をまじまじとながめた。 自分の力ではなかった。 日蓮は金吾から急報をうけ、即刻返事をしたためた。 先度強敵ととりあひについて御文給ひき。委しく見まいらせ候。さてもさても敵人にねらはれさせ給ひしか。前々の用心といひ、又けなげといひ、法華経の信心強き故に難なく存命せさせ給ふ。目出たし目出たし。 夫運きはまりぬれば兵法もいらず。果報つきぬれば所従もしたがはず。所詮運ものこり、果報もひかゆる故なり。(中略)これにつけてもいよいよ強盛に大信力をいだし給へ。我が運命つきて諸天守護なしとうらむる事あるべからず。将門(注)はつはものゝ名をとり、兵法の大事をきはめたり。されども王命にはまけぬ。はんくわひ(注)ちゃうりゃう(注)もよしなし。ただ心こそ大切なれ。いかに日蓮いのり申すとも、不信ならば、ぬれたるほくちに火をうちかくるがごとくなるべし。はげみをなして強盛に信力をいだし給ふべし。すぎし存命不思議とおもはせ給へ。なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給ふべし。『諸余怨敵皆悉摧滅』の金言むなしかるべからず。兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり。ふかく信心をとり給へ。あへて臆病にては叶ふべからず候。恐々謹言。『四条金吾殿御返事(法華経兵法事)』 八十五、弘安の役、蒙古再び来襲 につづく
将門 ?~天慶三年(九四○)。平安時代に叛乱を起こした武将。平高望の孫で、鎮守府将軍良将の子。相馬小次郎という。下総(千葉県)に勢力をもっていたが、父の遺領問題から一族と争いを起こし承平五年(九三五)に叔父の国香を殺害、ついで一族の良兼・良正・貞盛の攻撃を破り、一族の最高権力者となった。のちに常陸(茨城県)国府を焼き打ちし、下野・上野両国府を得た。自ら新皇と称して下総国猿島郡石井郷に王城を築き、律令国家の建設をめざした。このため朝廷は藤原忠文を征東大将軍に任じ、将門の乱の鎮圧にむかわせたが、平貞盛が藤原秀郷の助けを得て先に将門を討った。(天慶の乱) 樊噲 ?~紀元前一八九年。中国・前漢代の武将。江蘇省沛県の人。卑しい身分の出身で、早くから沛公(漢の高祖・劉邦) に仕え、沛公の漢朝建国をたすけた。とくに鴻門の会では范増の計画を打ち破り、沛公の危機を救っている。 張良 ?~紀元前一六八年。中国・漢代の建国の功臣。韓の出身。韓を滅ぼした秦の始皇帝を恨み、刺客を集めて始皇帝を殺そうとしたが果たせず、下邳に隠れた。そこで黄石老人から太公兵法を学んだといわれ、劉邦の挙兵に呼応して軍師となって活躍した。のち秦を滅ぼし、鴻門の会において劉邦の危機を救い、漢の建国に貢献した。
by johsei1129
| 2017-09-18 11:17
| 小説 日蓮の生涯 下
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