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日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 09月 18日

八十三、永遠なれ、熱原の三烈士

http://pds.exblog.jp/pds/1/201405/24/54/f0301354_23472199.jpg?w=1024&h=685                      (富士大石寺にのこる三烈士の墓碑。後方にそびえるのは奉安堂。一閻浮堤総与、本門戒壇の大御本尊を安置)
 
 奉行をはさみ、伯耆房日興と平頼綱の対決がはじまった。

頼綱は自ら乗りこんで決着をつけようとした。執権時宗の直属の家令である。背後には行智ほか、威儀を正した御家人の一団が鎮座していた。対する百姓側には日向ら弟子団をはじめとして四条金吾らの信徒がならぶ。勝敗の行方はだれが見ても滝泉寺側に傾いていた。

伯耆房がこれを打ち破るかのように言上する。

「まずはじめに罪ない百姓三名を斬罪に処せられたのは如何。評定いまだ終わらぬうちに、証人の百姓を死にいたらしめたのは利あらずの覚悟であるか」

御家人が憤怒の形相でさわぐ。

平頼綱は慇懃に返答する。

「百姓三名はこの頼綱に不埒な態度あり。いたしかたなく処罰した。これ幕府をつかさどる者として、また武士として当然の処置である。誤解めさるな」

伯耆房が強言する。

「不埒な態度とは意外でござるな。牢に入っている者が不埒な態度など取りようがないではないか。そもそも民百姓は天下をささえ、武士を養う者、田園を耕して世を保つ者。その百姓の命を奪うとは、人の上に立つ者の所行ならんや」

頼綱の頬に痙攣(けいれん)が走った。

彼はかつてこれほどの悪口あっく)をいわれたことがない。あるとすれば日蓮だけである。だが感情に走ってはならない。あくまで落ちつきをよそおった。

「百姓は法華経を放そうとはしなかった。この世は念仏を唱えるのが習いである。このわしもそうしておる。日蓮と徒党をくむ輩は断じて排除いたす」

御家人が気勢をあげた。

伯耆房が冷静に反論する。

「日蓮聖人を敵だといわれるか。日本国の侍大将にしては、いささか愚かな発言でござるな」

御家人が大声をあげて激高したが伯耆房は一歩も引かない。

「いま日本国が敵とすべきは日蓮聖人ではなく、近くきたる大蒙古ではござらぬか。聖人はこの二十余年、敵国退治の秘法を貴殿にも鎌倉殿にも披露してきたが、いまだに迷っておられるのはなぜか。あまつさえ無辜(むこ)の百姓の刃傷におよんでは、なにをかいわんや。日本国の滅亡、眼前に見えたり」

御家人が立ちあがったが頼綱がとめた。激したほうが負けである。

頼綱がにやりと笑う。

「では伺う。おぬしらが慕う日蓮とは何者ぞや。安房の漁師の生まれ、身分いやしい天台かぶれの坊主ではないのか」

伯耆房が静かにこたえる。

「外典にいわく、未萌(みぼう)を知るを聖人という。内典にいわく、三世を知るを聖人という。わが日蓮聖人は、近くは正法を誹謗する(とが)により日本国の内が乱れ、他国の攻めにあうことを予見された。聖人は過去・現在・未来を(かんが)みさせ給い、すぎし事、きたるべき事を鏡にかける。これを三世を知るという。ならば日蓮聖人は聖人に過ぎる大聖人であらせられる」  

こんどは百姓側が気勢をあげる。

頼綱が笑う。

「大聖人とな。ふざけたことを。ならば仏とひとしいと申すのか」

「いかにも仏である」

場内が騒然とした。百姓の側にも戸惑う者がいる。

「伯耆房とやら。奉行人の前であるぞ。気でも狂うたか」

伯耆房はあますところなく語る。

「主師親の三徳を備えられた方を御本仏という。日蓮大聖人は主であり、師匠であり、親である。この三つの徳を(たも)つかたは日蓮大聖人以外にあらず。前にも、そして未来にも。四天(してん)()の中にまったく二の日なし、四海の内(あに)両主あらんや」

御家人たちが笑うが伯耆房はつづけた。

「かの教主釈尊は、近くは去ってのち三月の涅槃これを知る。遠くは後の五百歳、一閻浮提広宣流布疑いなきものなり。しかれば近きをもって遠きを思い、現をもって当を知る、如是本末究竟等これなり。

おのおの笑うなかれ。自界叛逆、他国侵逼をもって大聖人の智慧を信じよ。軽毀する者は(こうべ)七分に破れ、信ずる者は福を安明(あんみょう)に積まん」

頼綱は笑いながら奉行人に告げた。

「聞いておられたか。これが日蓮一派の正体でござる。もはや評定はこれまで。打ちきりとすべきではござらぬか」

奉行がきびしい表情で、伯耆房に頼綱への論駁をうながした。

「最後にのべることがおありか」

伯耆房はここぞとばかり力をこめた。

「平の左衛門尉殿。貴殿はかならず滅びさるであろう」

場内が一瞬静寂となる。
 鎌倉の権勢を極める頼綱になにをいうのか。みなあっけにとられた。

伯耆房は見るからに高揚していた。汗だくになりながら息も絶え絶えに、つぎの言葉を吐いた。

「法華経の行者の首を落とした罪ははかりしれぬ。その報いとして、法華経守護の鬼子母神、十羅刹女がかならずや貴殿にとりつくであろう。次男とともに、貴殿の首は討ちとられるであろう」

このとき、頼綱が大剣を抜いてゆっくりと伯耆房の首にあてた。

一同がまたもあっとした。悪口をあびたとはいえ、僧侶の首をはねるのか。

頼綱の手がふるえる。

「伯耆房日興とやら。さすが日蓮一の弟子であるな。日本国侍大将のこのわしに、よくぞ言ってのけた。八年前、日蓮の首をはねようとしたが果たせなんだ。このうえは、おぬしの首をもって日蓮に進呈いたすとしよう」

頼綱が刃を高くあげた。伯耆房はこれまでと目をつぶり手をあわせた。一瞬、日蓮の姿がうかんだ。

だがこの時、奉行がさけんだ。

「左衛門尉殿、場所をわきまえよ。ここは評定所なるぞ。式目のとおり、刃傷は法度なり」

頼綱が鋭い眼光で奉行をにらむ。

だが奉行はまったく動じない。

「ここで刃傷におよべば、そなたの負けは火を見るより明らか。百姓を斬り、僧侶を討てば古今未曾有の不祥事。後世に汚名をのこすおつもりか」

頼綱がようやく刀をおろした。汗をふきだし息を切らせながら言い訳した。

「むろん斬りはせぬ。ただこやつがどんな顔をするかと思ってな」

場にいるすべての人々が興ざめた目で見た。

気まずくなった頼綱はゆっくりとでていく。そしてふりむき、伯耆房に言い放った。

「日蓮に伝えよ。わしは滅びない。どんな敵がいようと殲滅させてくれよう。いまの言葉おぼえておけ。いつまでも、おぬしらをつけねらっているぞ」

頼綱はさらに法華衆の一人一人を舐めるようにながめた。

「わしはたとえ地獄におちても、そなたらのそばを離れぬ。いつの世にも身と影のごとくつきまとい、南無妙法蓮華経と唱える者を苦しめるであろう。時には魔となり、時には鬼となって・・」

頼綱が薄笑いを浮かべて去っていった。

頼綱がどんなにあがいても法の力には勝てない。彼の末路は伯耆房の予言したとおりとなった。

この日から十四年後、頼綱は次男とともに北条時宗の子貞時の命により惨殺された。

くしくも大地震の日だった。

正嘉と変わらぬ推定マグニチュード七・五の地震が鎌倉をおそった。二万人が亡くなったという。この喧騒のなか、貞時の討伐隊が頼綱邸にむかった。

権力の頂点にいた頼綱は危険がせまっていることを予知しなかった。なすすべもなく次男とともにとらえられ、その場で自害した。享年五十二という。また長男の宗綱は佐渡に配流となった。

伯耆房日興はのちに自ら書写した本尊の脇書に神四郎を讃え、あわせて頼綱の末路をしるしている。

駿河の国富士の下方熱原の住人神四郎、法華衆と号し平の左衛門の為に頸を斬らるゝ三人の内なり、左衛門入道法華の衆の(くび)を斬るの後、十四年を経て謀叛(むほん)(はか)(ちゅう)せられ(おわん)ぬ、其子孫跡形無く滅亡し(おわん)ぬ   「興師筆曼荼羅脇書 富要第九巻」

 四百年後、日蓮正宗二十六世日寛は頼綱親子について次のように解説している。


今案じて云く、平左衛門入道果円の首を()ねらるるは、これ(すなわ)ち蓮祖の御顔を打ちしが故なり。最愛の次男安房守の首を()ねらるるは、これ則ち安房国の蓮祖の御(くび)を刎ねんとせしが故なり。嫡子(ちゃくし)宗綱の佐渡に流さるるは、これ則ち蓮祖聖人を佐渡島に流せしが故なり。その事、既に符合(ふごう)せり、(あに)大科免れ(がた)きに非ずや。 『撰時抄愚記

結局、評定は勝敗を決せず、うち切りとなった。

この事件はもともと日蓮憎しの感情からおきた。火のような憎悪は評定が進展するにつれ冷めていった。訴えた側の悪事もあきらかになり、だれも関わらなくなった。

さらに滝泉寺側に横死する者が続出して、勢いはますます下火となった。その横死した一人が三位房日行である。

日蓮はかつての弟子、三位房の最後についてしるす。

 はらぐろ( 腹黒)となりて大づちをあたりて候ぞ  『聖人御難事

大づちの意味は大難という説がある。不慮の事故であり、本人にとって無念の死だったことはあきらかだった。三位房のほかに大進房が急死している。大進房も日蓮の弟子だったが、熱原で敵対して直後に亡くなった。落馬が原因だったという。滝泉寺側の人々は色には出さなかったが、()じ恐れたのである。

十七名の百姓が開放され熱原に帰ってきた。彼らは村人とだきあって泣いた。十七人は駿河上野郷の青年地頭、南条時光がひきとった。

三つの墓が上野郷にできた。以来、この墓を霊峰富士が見守り続けている。


三人の死は日蓮の日本広布への確信を深めることになる。
 日蓮はそれまで布教の中心はあくまで出家した弟子が担っていくものだと考えていた。檀那つまり出家しない俗の信徒は、御本尊に向かって南無妙法蓮華経を唱え、出家僧に供養をすることが仏道修行の基本で、力あらば「随力演説もあるべきか」と信徒に書き記している。
 日蓮は入信してわずか一年の農民信徒が、命を落としても法華経の信仰を貫いた事実に驚愕した。日蓮が佐渡に流罪になった時、ほとんどの信徒は法華経信仰を捨ててしまった。彼らの多くは教養ある武士およびその眷属だった。
 日蓮はこの熱原の信徒たち、つまり法華講衆は日蓮仏法の未来を暗示していると感じただろう。日蓮は大御本尊の脇書に「弥四郎国重 法華講衆敬白」としたためている。
 この敬白の文字に、無名の農民信徒衆に対する限りなき敬意が示されている。

日蓮はふだんから難にあってこそ法華経の信心が試されるときびしくいってきた。妻子を(かえり)み身命を惜しんではならないと。

日蓮門下の行く末を託した伯耆房日興に、次のように言いのこしている。

御義口伝に云はく、身とは色法、命とは心法なり。事理(じり)不惜(ふしゃく)身命(しんみょう)(これ)有り。法華の行者田畠等を奪はるゝは理の不惜身命なり、命根を断たるゝを事の不惜身命と云ふなり。今日蓮等の(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は事理(とも)()ふなり。 勧持品十三箇の大事 第二 不惜身命の事

妙法を唱える者は財産を失うことはもちろん命まで失うという。日蓮はこともなげにいった。

だがじっさいに難にあった弟子には自分のことのように嘆いた。竜の口の日朗しかり、四条金吾しかり、池上兄弟しかりである。

しかも神四郎ら三名は法華経に命をささげた。入信してまだ二年にも満たない彼らが身命を捨てた。いさぎよい死とはいえ、日蓮には悲嘆が先立った。

日蓮は思う。

仏法が真実ならば、かれらは寂光土にゆく。いや絶対に行かねばならない。日蓮はかれらを仏土に送ることを自分の責務とした。日蓮は竜の口で斬首の寸前を経験し、法華経を身で読む悦びを体得した。この崇高な体験は三人も同じはずなのだ。日蓮は悲しみにくれながら大難をのりこえる信心を訴える。
 日蓮は熱原の法難を予見していたかのごとく、次の書を六年前の文永十年五月に書き記している。

 

 一期( いちご)を過ぐる事程も無ければいかに強敵重なるとも・ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ、(たと)(くび)をば(のこぎり)にて引き切り・どう()をば( )しほこ(菱鉾)を以て・つつき・足にはほだしを打ってきり()を以てもむとも、命のかよはんほどは、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱へて死に(しぬ)るならば釈迦・多宝・十方の諸仏・霊山会上にして御契約なれば須臾(しゅゆ)の程に飛び来たりて手をとり肩に(ひき)()けて霊山(りょうぜん)へはしり給はば二聖・二天・(じゅう)羅刹(らせつ)女は受持の者を擁護(ようご)し諸天・善神は天蓋(てんがい)を指し旗を上げて我等を守護して(たし)かに寂光の宝刹(ほうせつ)へ送り給うべきなり、あらうれしや・あらうれしや。 『如説修行抄

「ひしほこ」とは、先が菱のかたちをした鉾のこと。「ほだし」とは手かせ足かせをいう。このような物でおどされても、題目を唱えていけという。

熱原の三烈士は日蓮の教えに一字一句違えることなく、南無妙法蓮華経を唱え通して、霊山に旅立った。


         八十四、四条金吾、横難に遭う につづく 


下巻目次 




by johsei1129 | 2017-09-18 10:39 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)


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