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日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 09月 18日

七十七、法華講衆の苦闘

甲斐身延の日蓮は高弟の三位房に命じた。

「そなたは熱原にむかえ。伯耆房の後ろ盾となれ」

日蓮は当初、伯耆房を応援するため若い()(こう)を派遣していた。さらに論争を得意とする三位房をむかわせて万全のそなえとしたのである。

だが三位房は不満である。

「わたしがですか。わたしには別な仕事があるはずですが。京都の公家にも説法の約束がありますし、あのような田舎は寺も人も少なく伯耆房一人にまかせてもよいのでは」

日蓮が三位房の目を見た。

「このたびの駿河弘教は、大事になる予感がする。大きな分水嶺になるやもしれぬ。三位房、田舎であれ都であれ、仏国土にかわりはないぞ」

三位房がなお不満顔をみせた。

日蓮は念をおした。

「伯耆房と日向らにかえすがえすも伝えよ。駿河の人々はみなおなじ心であると」

熱原は富士山のなだらかで美しい曲線のふもと、現在の富士市のあたりにある。

ここのいたるところに唱題の声があがっていた。法華経を(たも)つ座談のあつまりも活発になっていた。

農具がうずたかく積まれた庄屋の屋敷では、伯耆房の説法を、日秀、日弁、そして大勢の百姓らが聞いていた。僧も百姓もみな日蓮門下の同志という思いで和気あいあいとしている。ときおり説法の場らしからぬ笑いがおきる。その輪の中に神四郎、弥五郎、弥六郎もいた。

熱原の地に秋の収穫の日が近づいていた。稲が人の腰まで育ち、村は豊作の喜びにあふれていた。刈り取りは間近である。

また稲刈りを前に灌漑工事も行われた。来年の収穫に備えるためである。現場では百姓の一団が庄屋の指導のもと、馬鍬をつかって土をほりおこしていった。岩石も取りはらった。やがて広い地面に水がひかれていく。疲労が笑顔に変わる瞬間である。

この一帯は富士山の南斜面にあり、日当たりをまともにうけるため作物はよく育った。また地味は富士の火山灰が三メートルにわたって堆積しており、十分に肥えていた。さらにこの堆積土の下には伏流水が流れている。このため種をまいただけで豊かな収穫がのぞめた。日本の中でも恵まれた土地柄である。

筆者は先年ここをおとずれた。

日蓮が立正安国論を述作するために一切経を閲覧した岩本実相寺が近くに現存していた。まばゆいばかりの太陽の下、五月というのに畑ではトウモロコシが実っていた。土地の人はこれを収穫したあと、稲作にはいるという。収穫が終わればトマトなどをまた植える。よその農家がうらやましがる土地柄である。

鎌倉時代はもっと肥えていたろう。労せずに収穫がのぞめる。幕府高官の尼御前の私有地が多かったというのもうなずけた。

神四郎の家では土間いっぱいに稲の穂が積みあげられていた。

神四郎が帰宅した。

「帰ったぞ」

若い妻と幼子がいつものようにでむかえた。

神四郎が足を投げだした。そこへ幼子がだきつく。

妻がねぎらった。

「お疲れだね。土おこしはうまくいったのかえ」

「来年はまた収穫がふえるぞ。楽しみだな。今年もなんとか越せそうだな」

「ほんとに。こんないい年はひさしぶり。豊作でみなも元気。疫病もおさまったし。これも信心のおかげかえ」

神四郎がひとりごとのようにいった。

「このまま、なにもなければよいがな」

百姓にとって一番の関心事は豊作になるかならぬかである。豊作になれば家族が年をこせる。不作ならば家族もろとも生命の危険があった。

だいたい自前で収穫ができる百姓はいない。みな地頭や庄屋から銅銭や(もみ)を借りて米を収穫したのである。豊作なら負債を返せるが、不作となれば飢えにくわえて借金まで背負うことになった。翌年も不作となれば夜逃げも考えなければならない。

百姓は財産などないのが普通である。借金を返すために最悪の場合、子供や下人まで売らなければならなかった。

当時の百姓の切実な訴えが今にのこっている。

訴えたのは進士入道という千葉下総の百姓だった。この訴えは日蓮が研鑽していた用紙の裏面に記されていたもので、現代になって偶然発見された。いわゆる紙背文書である。断片だが当時の農民の生活を知る貴重な資料となっている。

なかた(長田)ちう()さみ(沙弥)しんし(進士)()うたう()、かしこまりて申上候、かん()とり()おほ()()かう()()きのふん()()くれ()う米の()しん()(しろ)((に))とられて候しち()八郎太、上の()けち(下知)ニたまはりて候へとん、いまた()()しとり候はてなん、()()二そのみしんをあきらめ候はぬニよんて、かさねて六十才になり候()ハ一人、()二人、()人一人、いさう(以上)四人、なへ()しん()さいさ()()()()あさ()いろいろ二さん()さん()とめしとられて候うち、けん()人一人()られて十三く()んの( 銭)に御もくたい(目代)(殿)の二わきまへられて候、さき一くわん、あはせて十四くわんの()にハ、十石三斗八升の籾ニハ、くわん()さう()つかまつりて候と(欠落)られて。とのゐとすへてせめられて候て、い()ちいき候へきともうけたまはり候はす、すつ()なき事ニ候、せん()()のきみのこり()()( 離)なれかたく候、かつハ御()とく()ニ、かたかた()されて候もの()へし給はり、あん()()こはん(御判)をあつかり候て、ひめ()これ(御寮)うの御つかまつり人人となり候はんと、あを()きまいらせ候、しかるへく候はゝ、このよしを上の()さん()にいれさせおはしまして、あつかり候はんとおそ()れおそれあを()きまいらせ候、

百姓の進士入道はおおよそ以下のように懇願する。

下総国一宮の香取社を新たに造営する費用の一部を「作料米」として、香取、大戸、神崎(いずれも香取社の周辺)三ケ所からの分を上納すべきところ、あいにくと手元不如意で支払ができなかったため、その代償として八郎太(あるいは長男か、有力な従者か)の身をお上に取られてしまった。なんとかお願いをして八郎太は返していただけるとの(千葉殿の)ご命令は出たものの、いまだに八郎太は自分のところに帰ってこない(たぶん、八郎太の身柄返還は作料米の全額納入が条件だったろうが、それを満たすことができなかったためだろう)

ところが昨年にもまた、進士入道は作料米の未納分を完納することができなかったので、重ねて六十歳になった老母一人、子供二人、下人一人の以上四人を召し取られ、鍋など家内の家財道具やら、苧・麻まであらゆる物資を全部取り押さえられてしまった。そして下人一人は即座に売り払われ、その代金十三貫文は以前納入した一貫文とあわせて合計十四貫文とされ、未納分の籾の一○石三斗八升分に勘定された。それでもまだ不足だとして、昼夜家に上がりこんで責め立てられるので、とても生きた心地もなく、どうしようもない状況である。

なんといってもここ長田郷は千葉殿の御先祖からの御領であり、住人としてこの地を離れて諸方に流浪するなど()え難いので、どうかご功徳(くどく)(おぼ)()して、これまで召し上げられた家族の人質はじめ家財道具類は何とぞお返しいただきたい。そして私がこの地でずっと暮らしてゆけるよう、安堵してほしい。もしそうしていただけるなら、私は喜んで千葉殿の姫御寮(お姫さま)の従者として御奉仕したい。どうかこの旨をご主人の千葉殿に申し上げて御許可を賜りたい。くれぐれもお願いいたします。   石井進『中世を読み解く』『中世のかたち』

進士入道は下総千葉氏に仕える百姓だった。ちなみに千葉氏には土木常忍も文官として仕えていた。

作料米すなわち年貢がとどこおれば、家族もろとも悲惨な運命がまちうけた。私財を隠していないか、さんざんに責められる。この願いが聞きいれられなければ追放か逃散(ちょうさん)()であり、最後は下人に落とされてしまう。

下人とは奴隷である。家畜と同様なのだがこの時代、下人は大切な生産力だった。この訴えのとおり、下人一人が十三貫文という大金で売られている。

しかし下人に人格はない。いいように扱われるだけだった。下人の男女が子を産んで男女の主人が別人だった場合は悲惨だった。生まれてきた子が男ならば父親の主人に与えられ、女ならば母親の主人に与えられた。これが鎌倉時代の法律である。当時としてはあたりまえとしても、今から見れば信じられない時代だったのだ。

日蓮は大難にあう理由を自身の過去世の謗法のためという。正法を強くたもつゆえに、過去世の罪業をまねきよせる。このことを百姓と地頭の関係になぞらえている。

(たと)へば民の郷郡(ごうぐん)なんどにあるには、いかなる利銭を地頭等におほ()せたれども、いた()くせめず年々にのべゆく。其の所を出づる時に(きそ)ひ起こるが如し。  『佐渡御書

百姓は土地にいるあいだは責められることはないにしても、地頭に負債を返すまでは土地にしばられた。どうしようもなくなって逃散する時、進士入道のように過酷な災難がまっていたのである。

四月となった。初夏の太陽がそそいでいた。

神四郎があぜ道を歩いていた。

ふと見ると、遠くで百姓と武士が言い争っている。百姓の中に弥五郎、弥六郎がいた。

神四郎はあわてて走りよった。

熱原の神社で神事がおこなわれている最中だった。だれもが静粛にすべき時だけに、喧噪の声はいっそう耳にひびいた。

武人がいきり立っている。滝泉寺の者だった。

「なにをぬかす。百姓の分際で」

弥五郎は負けない。

「そっちこそなんだ。それでも仏につかえる身か」

「なにを。法華狂いの百姓が」

「そうだわれらは法華経を信じておる。お前たちはなんだ。出家の身でありながら川に毒をまいて魚を殺し、獣を殺して喜んでおる。恥を知らぬか」

お互いがつかみかかった。

その中を神四郎が割ってはいった。

「まて。いったいどうした」

弥五郎は興奮していた。

「どうしたもこうしたもない。おれたちが道を歩いていたら、いきなり難くせをつけおった」

武士も怒った。

「貴様らこそ。わしをおかしな目で見たではないか」

「なにを」

また両者がもめた。

神四郎が叫んだ。

「よさぬか。喧嘩は法度であるぞ。騒げば地頭も政所代もうるさい。ひとまずおさめろ」

両者にらみあいながら去ろうとした時だった。武士が百姓の一人を斬って逃げた。

百姓の背から血が流れる。みなが大騒ぎでかつぎ、運んでいった。

弥四郎の家に法華信徒の衆が集まった。
 老若男女や家族連れの者もいる。その中に神四郎の家族もいた。いつもは明るい話にあふれた場が、今夜は異様な雰囲気がただよった。

熱原信徒の代表格である弥四郎が立った。新顔の弥四郎は信徒の中で急に頭角をあらわしていた。代表であるだけに言動は過激である。温厚な神四郎、弥五郎、弥六郎の三人とはちがい、好戦的だった。

「あくまで戦うぞ。どうだ、異論はあるまいな。こんどのことはみなも見たとおり、寺に非があるのだ。訴えでるぞ。悪には対決するのだ」

一同が威勢よくこたえたが、一人神四郎が異議を唱えた。

「わしは反対だな。そんなことをしても、なんの解決にもならぬ」

弥四郎がにらむ。

「なにを、神四郎、臆病風がふいたか。斬られた百姓を見たろう。だまっておれば、また怪我人がでるのだぞ」

神四郎は冷静だった。

「わしもくやしい。だがよく考えろ。われら百姓は安全であることが一番だ。現世安穏というではないか。あやつらは法華経の信者がふえるのがこわいのだ。わしらは豊作ならば食べていけるが、あやつらは信者がいなければ生きていけない」

「ではどうすればよいのだ」

「まず様子を見ることだ」

弥四郎があきれた。

「おとなしくしろというのか。ふざけるな。神四郎、みんなで約束したことを忘れたのか。この熱原を法華経の題目で埋めつくそうと誓ったではないか」

「よくおぼえている。だがいまは過激なことはまずい。このままいくと、なにかよからぬことがおきる気がする」

弥四郎が見下した。

「おじ気づいたな。もういい、でていけ」

神四郎の家族がさびしく去る。彼は帰りぎわにいった。

「弥四郎、無理はするな。今はこの熱原信徒を守ることが大切なのだ」

弥四郎は答えなかった。

熱原の情勢は伯耆房から甲斐の日蓮に逐一報告された。日蓮は身延の山中から激励をこめて書状をおくっている。

()()き房・さど(佐渡)房等の(こと)あつ()わら()の者どもの御心ざし、異体同心なれば万事を(じょう)じ、同体異心なれば諸事叶ふ事なしと申す事は外典三千余巻に定まりて候。(いん)(ちゅう)( )は七十万騎なれども同体異心なればいく()さにまけぬ。周の(ぶお)()(注)は八百人なれども異体同心なればかちぬ。一人の心なれども二つの心あれば、その心たが()いて成ずる事なし、百人千人なれども一つ心なれば必ず事を成ず。日本国の人々は多人なれども、同体異心なれば諸事成ぜんことかたし。日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成じて、一定(いちじょう)法華経ひろまりなんと覚へ候。悪は多けれども一善にかつ事なし。(たと)へば多くの火あつまれども一水には消ゑぬ。此の一門も又かくのごとし。  『異体同心事

僧侶と百姓が結束するよう促している。
 さど房とは日向(にこう)のことである。若干二十二歳の青年だった。伯耆房は三十三歳。二人は滝泉寺の僧侶たちをつぎつぎに破折し、日蓮の門下としていった。行智がひきいる一味も黙ってはいない。両者の確執はますます強まった。

 
              七十八、熱原の農民信徒に法難勃発 につづく


下巻目次


逃散(ちょうさん)

日本の中世から近世にかけて行われた、農民が領主にたいする抵抗する闘争手段。
 百姓が集団で荘園から退去し、一時的に他の土地へ逃げ込み、領主に対して年貢軽減や代官の罷免などを要求する。彼らは一味神水などの儀式を行うことで団結を図り、不当な課税や検断に対して抵抗した。要求が受け入れられた場合には帰住し、百姓申状の提出や起請文の作成、争いの対象外の年貢を収める等の手続きを経ていれば合法的な抵抗手段として認められていた。
 御成敗式目四十二条には「逃亡した農民の財産について」 領内の農民が逃亡したからと言って、その妻子をつかまえ家財を奪ってはならない。未納の年貢があるときはその不足分のみを払わせること。また、残った家族がどこに住むかは彼らの自由にまかせること。と記されている。

周の武王

生没年不明。中国・周王朝初代の王。在位は十余年。文王の子。父の遺志を継ぎ、殷の紂王を滅ぼして天下を統一した。この時、武王は文王の木像を奉持して出陣したといわれ、弟の(しゅう)(こう)(たん)太公望(たいこうぼう)呂尚などが武王を補佐した。後世、英雄の一人とされた。



by johsei1129 | 2017-09-18 09:11 | 小説 日蓮の生涯 下 | Trackback | Comments(0)


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