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日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 07月 22日

六十一、 弟子たちの布教

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                      (蒙古に備える武士たち。石垣は防塁とみられる)

 太平洋のさざ波が相州鎌倉によせる。

 この鎌倉の侍所に武士や町人がおしよせていた。かれらは建物にむかって怒声を発していた。異様な光景だった。

 主の時宗にではない。ここに蒙古の使節が滞在していたからである。

 蒙古は昨年の十月に博多を襲撃して焼きはらったばかりだった。この文永の役とよばれる戦いで日本は人的・物的に大きな被害をこうむった。

 その蒙古が日本に使節を派遣したのである。彼らは文永の役の勝者として譲歩をせまった。威圧的な訪問だった。

 鎌倉の人々が蒙古をゆるせないのは当然であった。

 その蒙古の使者は杜世忠を正使とする五人だった。

 彼らはこの年の四月十五日に長門国室津(山口県下関市)に上陸するやいなや、捕らわれの身となって太宰府におくられた。そして八月になって太宰府から鎌倉に護送されたのである。

 五人は幕府が用意した豪勢な客間にそろって着席していた。

 正使の杜正忠は蒙古人である。副使は中国人、ほか朝鮮人一名、ウイグル人二名だった。

 五人はみないらだっていた。正規の使節だというのに事実上、罪人同様のあつかいである。

「いったいどうなっているのだ。何日またせるのだ。われらは蒙古皇帝の使者としてきたのだ。なのに毎日毎日、意味のない挨拶ばかりだ。はやく切りあげたほうがよくはないか」

 杜世忠がなだめた。

「まあまて。ここが我慢の時だ。歳月を要するのは覚悟したことではないか。国どうしがふたたび(やいば)を交えるのか、和解におわるのか。鎌倉幕府の決断をまとうではないか」

 別室では幕府の中枢が会議をしていた。会議は連日連夜にわたっていた。

 いつものように瞑目する北条時宗を中心として安達泰盛、平頼綱、北条光時らが参集した。

 重苦しい雰囲気がみなぎる。

 歳の離れた妹が時宗の妻となっている外戚、安達泰盛が言上した。

「蒙古とは和睦すべきでござろう。いま日本国をとりまく情勢は緊迫しておりまする。蒙古は漢土で南宋を滅ぼす勢いでござる。このままいけば、再度わが国に攻めいるのは必至。今はいちおう和睦といたし、時間をかせぐのが最善の策と思われます」

 平頼綱もめずらしく同調した。

「今はそうするしかございませぬ。文永のいくさでは天候が味方し、きゃつらは退散しましたが、残念ながら軍配は蒙古にあった。いくさの作法もちがえば、手にとる武器もまったくちがう。今戦えば九州武士団は全滅もありうる。北条を守るためにも今は和平に応じ、貿易を開始するのが妥当でござろう」

 この二人の意見が日本国内の共通した認識だった。日本全体がおびえている。それもこれも去年の文永の役と呼ばれる戦いで、思いもかけない敗北を喫したからである。もう一戦交えれば、それこそ滅亡になりかねない。現に漢土・朝鮮は滅亡しかかっている。

 甲斐の山奥にいる日蓮は戦いの前からこのことを察知していた。日妙にあてた消息にいう。


 当世の人々の(もう)()国をみざりし時のお()りは、御覧ありしやうにかぎ()りもなかりしぞかし。去年の十月よりは一人もおごる者なし。()こし()しゝやうに、日蓮一人計りこそ申せしが、()()だに()たる程ならば、(おもて)をあはする人もあるべからず。(ただ)さる()の犬をおそれ、か()るの蛇をおそるゝが如くなるべし。是(ひとえ)に釈迦仏の御使ひたる法華経の行者を、一切の真言師・念仏者・律僧等ににくませて我と損じ、ことさらに天のにくまれを()ほれる国なる故に、皆人臆病になれるなり。譬へば火が水をおそれ、木が(かね)()ぢ、(きじ)(たか)をみて魂を失ひ、ね()みが猫に攻めらるゝが如し。一人もたすかる者あるべからず。()の時はいかゞせさせ給ふべき。(いくさ)には大将軍を魂とす。大将軍()くしぬれば歩兵(つわもの)臆病なり。  『乙御前御消息

 幕府の首脳会議では時宗の動向に注目があつまっていた。

 重臣たちの議論が一段落すると、彼は突然立ちあがって怒りだした。

「おぬしら臆病風に吹かれしや。それでも鎌倉武士か。昨年の筑紫攻撃は国辱である。おぬしらは蒙古の申し状をみたのか。臣下の礼をしなければ攻撃するという。それが日本国の主に対する態度か。おのおの覚悟を決めよ。無礼者には無礼でたちむかえ。力でくる者には力でこたえるのだ」

 泰盛がおそるおそる聞いた。

「では五人の使者は」

「打ち首といたす」

 泰盛はこれで北条も終わりだとばかり表情が暗い。いっぽう時宗の性格を知り尽くしている頼綱は、予想どおりとばかり、ほくそ笑んだ。

 時宗はすでに戦いに突入したかのように、矢継ぎ早に命じる。

「蒙古は再度筑紫をねらうであろう。九州の守護に命じて再度守りをかためるよう指示を出せ。全国の神社仏閣に蒙古退治の祈祷をさせよ。北条一門は太宰府に陣をとれ。御家人は兵士を動員し博多に向かわせろ」

 勇ましい返事とともに所従が散った。

 杜世忠ら五人は死罪と決まった。

 群衆が竜の口の刑場にむらがり、喝采をあげていた。文永の役の恨みが晴らされる時だった。

 蒙古の使者五人が正座した。彼らの背後に介錯人が立つ。

 正使の杜世忠は宙を見てなげいた。

「国を出るとき妻子にいった。大役を果たして故郷に(にしき)をかざるであろうと。だがそれもかなわぬこととなった。これで蒙古と日本はいくさになる。この国がどのような報いをうけるのか、見とどけたかったが」

 彼は悲痛な思いで辞世の句をうたった。

 出門妻子贈寒衣  門を出ずれば妻子寒衣を贈る。

 問我西行幾日帰  我に問う、西行し幾日にして帰る。

 来時儻佩黄金印  来る時もし黄金の印を()びれば。

 莫見蘇秦不下機  蘇秦を見て(はた)()ざるなからん。

(家を出るとき、妻子は衣をくれてわたしにいった。いつお帰りですか。あなたが帰ってきたとき、黄金の印を身につけていたならば、蘇秦の妻のように(はた)を織り続けることはありません)

 蘇秦とは中国戦国時代の外交家である。無類の弁舌家だった。彼は無名だったころ、大国の秦に対抗するため諸国を遊説して抗戦を説いた。だが家に帰っても妻は機を織りつづけて夫を無視したという。

 杜世忠は蘇秦の弁舌で、なんとしても鎌倉幕府を説得したかった。だがそれはむなしくなった。

 杜世忠の願望を断ち切るかのように、太刀取り人の剣が振りおろされた。

 蒙古退治の兵隊が鎌倉大路をすすむ。騎馬の軍団のあとに所従がゆく。

 行く先は鎌倉から約千キロ離れた、はるか彼方の九州大宰府である。

 沿道には妻子たちが涙で行進を見送った。兵の中から耐えきれず妻子と抱きあう者がいた。彼らは顔と顔をあわせ、目と目をあわせてなげいた。

鎧の武士がむりやり彼らを引きはなした。

 日蓮はこのやりきれない情景を手紙にのこしている。宛先は富木常忍の妻である。常忍の妻は病気だった。日蓮は彼女に病で苦しむとき、筑紫にむかう人々のつらさを思って嘆かないよう激励している。あわせてこの国が日蓮を苦しめた報いをうけているということも。

なによりもをぼ()つか()なき事は御所労なり。かまへてさもと三年、はじめのごとくに、()()せさせ給へ。病なき人も無常(むじょう)まぬかれがたし。但しとしのはてにはあらず。法華経の行者なり。非業の死にはあるべからず。よも業病(ごうびょう)にては候はじ。(たと)ひ業病なりとも、法華経の御力たのもし。阿闍(あじゃ)()王は法華経を持ちて四十年の命をのべ、(ちん)(しん)は十五年の命をのべたり。尼ごぜん又法華経の行者なり。御信心は月のまさるがごとく、しを()のみつがごとし。いかでか病も()せ、寿ものびざるべきと(ごう)(じょう)にをぼしめし、身を持し、心に物をなげかざれ。なげき出で()る時は、ゆき(壱岐)つしま(対馬)の事、だざ(大宰)ひふ()の事、かまく(鎌倉)らの人々の天の(たのしみ)()とにありしが、当時()()しへむかへば、()ゞまるめこ(女子)ゆく()をと()こ、()なるゝときはかわ()はぐ()がごとく、かを()とかをとをとりあ(取合)わせ、目と目とをあわせてなげきしが、次第にはなれて、()()のはま、()()ら、こし()()へ、さかわ(酒匂)()こね()ざか()。一日二日すぐるほどに、()ゆみあゆみと()ざかるあゆみも、かわ()も山もへだ()て、雲もへだつれば、うち()うものはな()だなり、ともなうものは()げきなり、いかにかなしかるらん。かくなげかんほどに、もう()()のつわもの()めきたらば、山か海も()どり()か、ふね()の内か、()うら()いかにて()()にあはん。これひとへに、(とが)もなくて日本国の一切衆生の父母となる法華経の行者日蓮をゆへもなく、或は()り、或は打ち、或は()()をわたし、ものにくる()いしが、十羅刹のせめを()ほりてなれる事なり。又々これより百千万億倍たへがたき事どもいで来るべし。かゝる不思議を目の前に御らんあるぞかし。我等は仏に疑ひなしとをぼせば、なにのな()きかあるべき。き()きになりてもなにかせん、天に生れてもようしなし。竜女があとをつぎ、摩訶波舎波提(まかはじゃはだい)比丘尼(びくに)れち()につらなるべし。あらうれしあらうれし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱へさせ給へ。恐々(きょうきょう)謹言(きんげん)。  『富木尼御前御書

 鎌倉幕府より全国の寺社に敵国降伏の祈祷が命じられた。

 建治元年一月には、東寺の長者道宝が伊勢大神宮に参籠し敵国調伏を祈願した。東寺は真言宗の本山である。また同じ年の十月には全国の十二社が敵国降伏を祈っている。

 どの寺院でもきらびやかな袈裟をまとった高僧が宗徒をあつめて異国降伏を祈った。

 だが日蓮は日本国がかえって絶望的な状況にむかっているという。
 武蔵国在住の信徒で、父が幕府作事奉行であった池上宗長への手紙にしるす。

今度(このたび)は又此の調伏三度なり。今我が弟子等死したらん人々は仏限をもて是を見給ふらん。命つれなくて生きたらん(まなこ)に見よ。国主等は他国に責めわたされ、調伏の人々は(あるい)は狂死、或は他国或は山林に()くるべし。教主釈尊の御使ひを二度までこうじ(街路)をわたし、弟子等をろう()に入れ、或は殺し或は害し、或は(とこ)()()ひし故に、其の(とが)必ず国々万民の身に一々にかゝ()るべし。或は又白癩(びゃくらい)黒癩(こくらい)・諸悪重病の人々おほ()かるべし。我が弟子等此の由を存ぜさせ給へ。恐々謹言。

 九月九日                    日蓮花押

 此の文は別しては兵衛(ひょうえ)(さかん)殿へ、総じては我が一門の人々御覧有るべし。他人に聞かせ給ふな。  『兵衛志殿御書』(弘安元年御作)

「調伏三度なり」という。一度目は源平の戦い、二度目は承久の戦いである。いずれも邪宗、とりわけ真言の祈祷に頼ったために平家も後鳥羽上皇も敗れた。

 蒙古調伏の祈禱もまた真言によってなされようとしている。滅亡は明かだった。

 ちなみに源平の戦いは武士同士の争い。承久の合戦は武士と朝廷の争いだった。三度目は朝廷内の闘諍である。規模が大きくなるにつれ、惨状が目も当てられないことになっていく。

「他人に聴かせ給ふな」とは日本国が亡国となることを他人にあらかさまに語ってはならないということである。法華経を誹謗する人々に真実を告げても、今となっては無意味である。それよりも日蓮の門下は日本の滅亡を覚悟しておくように促している。


 博多湾では炎天下、兵士が領民をかりたてていた。海岸線に沿って防塁を築くためである。この石積みの壁は高いもので三メートル、長さ二十キロにわたった。

 文永の役では蒙古兵を上陸させて敗北を喫した。この苦い経験から、水際で蒙古を防ごうとしたのである。

 兵士もふんどし姿で岩石をはこぶが疲労の色が濃い。博多にはさらに新たな兵隊がぞくぞくと到着していた。


 いっぽう日蓮が弟子らと暮らす甲斐の国身延にはこの喧騒はとどかない。

 身延の地は高い山に囲まれていた。西に七面の山、東に天子の岳、北は身延山、南は鷹取の山である。ここに四つの川が流れる。富士河、早河、大白河、身延河だった。

 この身延山の中腹の一町ばかりの土地に日蓮の庵室があった。

 この山の様子を伝えた手紙がのこっている。宛先は新池(にいけ)左衛門尉という。新池氏は遠江国磐田郡新池、いまの静岡県袋井市に住んでいた。鎌倉幕府の直参で、伯耆房の折伏により日蓮に帰依したという。

 新池は米三石をはるばる身延の山へ送った。日蓮は山中のけわしさをつづる。

其の上遠江国(とおとうみのくに)より甲州波木井(はきり)郷身延山へは道三百余里に及べり。宿々のいぶせさ、嶺に昇れば日月をいたゞき、谷へ下れば穴へ入るかと覚ゆ。河の水は矢を射るが如く早し。大石ながれて人馬むかひ難し。船あやうくして紙を水にひた()せるが如し。男は山がつ、女は山母(やまうば)の如し。道は縄の如くほそく、木は草の如くしげし、かかる所へ尋ね入らせ給いて候事、何なる宿習なるらん、釈迦仏は御手を引き、帝釈は馬となり、梵王は身に随ひ、日月は眼となりかはらせ給いて入らせ候いけるにや、ありがたしありがたし。    『新池殿御消息


 林の中で、土地の百姓たちの笑い声がひびいた。

 彼らは車座になって話しこんでいた。

「むくりが攻めてくるじゃと。こんな山奥にくるわけがなかろう」

「いや、わからんぞ。鎌倉では、こんど攻めてきたら勝ち目はないと、もっぱらのうわさというぞ。兵隊がぞくぞくと筑紫へ行くのを見たが、皆、今生の見納めだとばかり町並みを見渡していた。残された妻子のことを思うと人ごととはいえ、不憫でならない

「もし攻めてきたら、この山奥も逃げる者でいっぱいになるかもな」

「ところでどうじゃ。あの坊様は」

「日蓮とかいう人か。ほんにこんな山奥へよくきたもんじゃ。食べるものにも困っているそうな。あれでえらい坊様なのかえ」

 百姓がうなずいた。

「なんでも鎌倉様が大きな寺を建ててやるという誘いを蹴って、この山へきたということだ」

「鎌倉殿と、そりがあわなかったのかのう」

「だが、気さくな方じゃ。このあいだもな、ぶらっとわしの家にきて、あの山の名はなんという、あの河はなんという、今年の作柄はどうか、こまごま聞いてきおった。あんまりうちとけた話をされるので思わず話が長くなったわ」

「しかしあの坊様、いつまでもつかのう。波木井(はきり)様がついているとはいえ、夏は草茂く、冬は雪深い。ひもじい思いはつのるはず。なみの坊主なら、そろそろ逃げだすところだぞ」


 唱題の声が古びた堂にひびいた。日蓮と弟子たちが題目を唱えていた。

 唱題が終わり、日蓮は講義をはじめた。

 すでに室内は若い弟子であふれている。旅姿の者もいる。

 日蓮の頭はすっかり白くなっていた。その口調はいつになく強かった。

「教主釈尊が涅槃したまいて二千年、末法の世となった。いま末法にはいり二百年である。釈迦の予言のとおりならば、仏法の中において言訟(ごんしょう)がおき闘諍(とうじょう)がはじまり、釈尊の法が滅尽する時である。仏の未来記がまことならば、必ずこの世界に闘諍がおきる。

 伝え聞く。かの漢土において三百六十ヶ国、二百六十州はすでに蒙古にうち破られた。都はすでに破られて徽宗・欽宗の二人の皇帝は北の(えびす)に生け捕りとなり世を去った。徽宗の孫、高宗皇帝は長安を攻め落とされて田舎の臨安に落ちさせたまい、今に数年があいだ都を見ていないという。高麗六百余国も新羅・百済の諸国も、みな蒙古皇帝に攻めおとされた。このたびの壱岐、対馬そして筑紫のように。仏の予言は地に落ちていない。あたかも海が潮時を(たが)わないのと同じである。

 これをもって案ずるに、釈迦の仏法が隠れ、法華経の大白法が日本国ならびに一閻浮提(いちえんぶだい)()()することも疑いはない。大地がおどりあがろうと、高山がくずれおちようと、春のあとに夏はきたらずとも、日が東へかえるとも、月が地におつるとも、この事は一定(いちじょう)である」

 伯耆房らの弟子が真剣に聞いた。逆に三位房、大進房はうわの空で天井をながめていた。

「このために念仏・禅・真言の邪宗を責めて国主にも訴えたが、三たび諫言しても聴き入れられなかった。賢人の習い、三度いさめて用いられずば山林に交われという。よって最後にはこの山にこもることとなった。日蓮は身延の山を離れることはない。もしここから出ることになれば、末もとおらぬ者と後世の人は笑うであろう。ならば大海の底の千曳(ちびき)の岩は動くとも、日蓮はここをはなれることはない。みなには手塩にかけて教えたつもりである。法華経の肝心、南無妙法蓮華経が流布するかどうかは、おのおのにかかっている」

 伯耆房が日蓮に誓った。

「上人、われらは法華経の肝心である妙法蓮華経の五字を、必ず弘めてまいります」

 日蓮はうなずいて弟子たちに弘教の地を指図した。

「ではそれぞれの受けもつところを告げる。伯耆房は駿河の地に」

「はい、わたしは岩本実相寺と熱原滝泉寺を拠点に活動してまいります。かならず妙法の種をまいてまいります」

「日朗は鎌倉へ」

「はい、鎌倉には四条金吾殿はじめ、縁戚の池上兄弟など、強信徒が多数おります。私はこの人たちと手を携え、とともに妙法をひろめてまいります」

「学浄房は佐渡へ」

「はい、佐渡の阿仏房様、国府入道様のもとで布教してまいります。守護代の本間様にも協力を仰ぎます」

 弟子たちが旅姿で出発した。

 日蓮がわらじのひもを結ぶ伯耆房に声をかけた。

「駿河は幕府の所領が多い。わかっておるな」

「はい」

「ことに富士の一帯は北条の後家尼御前の土地だ。気をつけよ。彼らの行きずりにも、富士鹿島の辺に立ちよることはひかえよ」

 伯耆房が澄みとおる目でほほえんだ。

「ご安心ください」

 彼は颯爽とでていった。この第一歩から伯耆房日興の猛烈な折伏が始まった。大石寺五十九世の(にち)(こう)は特筆する。 


 文永十一年六月、鎌倉より身延山に嚮導(きょうどう)し、大聖人の草庵なるや富士地方の指導に当られ、甲斐に於ては南部波木井(はきり)の残族を化了し甲斐源氏の中で小笠原・秋山等の諸武人を化導し、波木井一族より播磨(はりま)公越前公、甲斐源氏よりは日華(秋山氏)日仙(小笠原氏)日伝(大井氏)日妙等次第に改宗す、甲斐中部は柏尾の蓮長、伊豆は新田家其の地より土佐房、駿河に在りては上野の南条七郎次郎及び葛西(かさい)の松野、興津(おきつ)、松野より日持、南条より日位が門下に加わり、実相寺の筑前房・豊前房・四十九院の日源・竜泉寺の日秀・日弁・日禅等弟子となり、遠江(とおとうみ)に延びて新池(にいけ)相良(さがら)等の武人を教化せらる、此等の中に最も長く住せられしは四十九院・実相寺・上野の南条家等にして最も弘教に心血を(そそ)がれしは熱原竜泉寺の僧分の指導及び其れに依って入信せる在家への慈教である。「弟子檀那等列伝」



            六十二、山中の日蓮 につづく


中巻目次



by johsei1129 | 2017-07-22 22:39 | 小説 日蓮の生涯 中 | Trackback | Comments(0)
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