2017年 07月 22日
竹崎季長 蒙古襲来絵詞
時は文永十一年十月になった。 北九州の博多湾に物見やぐらがそびえていた。やぐらは湾を一望できるように立っていた。 兵士がその頂上で海のかなたをにらんでいる。 武士団がぞくぞくとあつまり、騎馬の武士や兵隊でうめつくされた。 武士団といっても組織だってはいない。組織化されるのはずっとあとの戦国時代である。この当時、形態はばらばらだった。何十人の軍団もあれば、主従二人だけというのもある。刀の鍛錬をする者、弓をひいて腕をためす者、輪をつくって酒をくみかわす者、それぞれが戦いを前に意気ごんでいた。 ここには親子の武士もいた。二人ともに古びた鎧をつけている。父親が幼い武者姿の子供をさとした。 「このたびのいくさは、わが一族にとって千載一遇の好機であるぞ。大いに力を発揮すれば、失いし所領をとりもどすことができよう。敵の首を見事にうちとれば恩賞は思うままだ。ここでわが一族の進退がきまる。よいか一番乗りをはたすのだ。おくれるでないぞ」 子供が口元をひきしめた。 鎌倉時代は個人戦である。武士の一人一人が自分の功名のために戦う。名声を得るためなのだが、目的は恩賞である。そのためには自分の名前をアピールしなければならない。名を知られずに華々しく戦ってもなんの意味もなかった。だが乱戦になれば敵味方の区別さえわからなくなる。そこで彼らは兜や鎧に自分の名をしるした布をぶらさげたり、弓の一本一本に自分の名を書いた。戦功をのこすためだった。勇ましいわりには細かい。だがこれらは後日、軍目付が証拠として採用するための目印となった。最終的な軍務評定は軍奉行がくだし恩賞が決定した。この文永の役の奉行は安達泰盛である。 武者はたがいに酒をくみかわし大いに笑った。 中央に大将の大友頼康、副将の少弐資能がいる。 まわりに武者が大勢でひかえた。みな荒々しくどう猛だった。 大友頼康は豊後守護職を世襲し、一族は北九州一帯にひろがっていた。少弐資能も父親の職を世襲して筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬の五カ国を支配している。 品の良い二人とちがって、あらくれ武者が息まく。 「なにむくりだと。北の戎どもではないか。この日本刀でけ散らしてくれるわ。あやつらは草原で名をはせたと聞いておる。わざわざ船に乗ってなにをするというのだ」 「蒙古などわれらの敵ではないわ。まことわれら御家人が九州くんだりやってくることはないのだわ。鎌倉殿も心配性だのう。これでは幕府がいつまでもつか、おぼつかぬわ」 一同が笑った。えらく威勢がよい。 じっさい当初の日本軍の士気はこんなものだった。異常ともいえる熱気である。いまだ見たこともない敵にあたるときは、おごり高ぶるものらしい。 興奮した武士が立つ。 「そこで相談じゃが。蒙古の大将の首はこのわしがとる。その首をとって鎌倉殿に献上するつもりじゃ。おのおのがた、そう心得よ」 一同が立ちあがって非難ごうごうとなった。光景は野獣とかわらない。 大将の大友が手をあげて静まらせた。 「おのおのがた。油断はならぬぞ。相手は高麗を滅ぼした蒙古なのだ。どれだけの力をもっているのか見当もつかぬ。いずれにせよ、ここは鎌倉武士の強さを見せつける時だ。ぬかりはないな」 伝令が走ってきた。 「ただいま偵察船から伝令がまいりました。蒙古の船団が対馬を攻め、壱岐に押しよせたとのこと」 一同が口々に雄叫びをあげ、それぞれの守備位置に散っていった。 蒙古は数十艘の大型船を中心に玄界灘を進んでいた。これまたどう猛な蒙古兵が船に乗っている。 船が風をうけ、波をかきわけすすむ。 巨大な蒙古船は壱岐の港に着岸した。 漁民や武士や女までがなにごとかと港にあつまった。 好奇心からである。 島民は目の前で巨大な船が、ゆっくりと停泊するのをながめていた。 船上にはだれも見えなかった。しかし突然、甲板に蒙古兵があらわれ、弓でいっせいに射撃を開始した。 島民や武士たちが悲鳴をあげて逃げまどう。女たちが泣き叫んで逃げていった。
一方鎌倉では、蒙古来襲を告げる早馬が時宗のもとへ駆けこんだ。時宗の横には泰盛と頼綱がひかえる。 時宗が思わず立った。 「なに蒙古が船出したと」 「しかり。まず対馬を攻め、つぎに壱岐を攻めた様子であります」 「壱岐のつぎはどこに上陸する」 「船の進行からみて、九州北岸と思われまする」 伝令が去っていく。 頼綱がうなった。 「やはり博多か。読んだとおりだ」 時宗が西の空を見あげにらむ。 「ここから博多まで何日かかる」 頼綱がこたえた。 「早くとも二十日」 時宗がはやる。 「もう勝敗は決したかもしれぬ。泰盛、じっとしてはおれぬ、馬を出せ。わしも出陣するぞ」 泰盛がとめた。 「殿、おちついてくだされ。殿は幕府の大将でござるぞ。いま九州へ下向なさるとなれば関東が留守になりまする。そのすきをねらって名越のような者が鎌倉を攻めないともかぎりませぬ。こらえてくだされ」 時宗が空を見てくやしがった。 「なにもするなというのか。ただ運命をまてというのか」 蒙古兵がぞくぞくと小舟で着岸して砂浜にあがった。上陸した兵士は点呼とともに整列していった。 夜が明けてきた。 日本の偵察隊が蒙古の軍団を見つけて注進した。 蒙古の船腹には対馬・壱岐の島民がつながれていた。彼らは手に穴をあけられて数珠つなぎになっていた。二つの島は全滅したのである。 蒙古軍団の三万が整列した。 爆薬を積んだ発射砲がならべられた。爆薬は日本史上、はじめて登場した。 そこに日本軍が騎馬団を先頭に対峙した。 日本国の大将と蒙古の将軍との目があった。 やがて両軍がじわじわと進軍し、差をつめていく。 この時、日本側から数騎の武士が飛びだして大音声で挑発した。 ぬけがけである。 「遠からん者は音にも聞け、近からん人は目にも見たまえ。われこそは鎮西奉行、豊前の守、少弐資能なるぞ。いざ打ちよってかかってこよ。相手いたす」 「物の数にては候わねども、筑前大友の家来、仙波十郎なるぞ。尋常に立ちあえ」 しかし蒙古軍は相手にせず、ひたすら日本軍にむかってくる。 馬上の武士がいらだった。 「おぬしら、いくさの作法を知らんのか。ではまいるぞ」 騎馬が駆けようとしたとたん、空中で爆弾が炸裂した。 そのすさまじい音で馬が悲鳴をあげて立ちあがり、武士がふりおとされた。 日本人がはじめて聞く音だった。兵士が動揺する。 この瞬間、蒙古軍がいっせいに襲いかかった。 対する日本側は一騎打ちで戦う。反対に蒙古軍は組織戦である。武士をかこみ、めった刺しにしていった。 「おのれ卑怯な」 武士は弓で攻めたが蒙古兵は盾で防ぐ。 かわりに蒙古兵は短弓の銃でつぎつぎと馬上の武士を倒していく。木製の銃は弓よりも回転率が高い。機関銃のように飛んできた。装備がまるでちがう。両者の激突は文明の差をそのままあらわした。 耳をつんざく音が空中で鳴る。馬が悲鳴をあげる。 子供をさとした老武士が果敢に蒙古軍の中央を突進し、敵の武将を斬りたおした。子供もつづく。 だが勇ましいのはここまでだった。 大将の大友と少弐がおびえて逃げてしまったのである。 兵士はそれにもかかわらず懸命にふせいだが、全軍が総くずれとなり後退していった。 蒙古軍が勢いにのって博多の町に突入し、火をつけまわった。町全体が焦土と化した。彼らはさらに九州の首都である大宰府にも突入して焼きはらった。 史上最強の蒙古軍団が中国、高麗につづいて日本の国土を蹂躙していった。 博多湾に一日が終わろうとしていた。 蒙古兵がぞくぞくと船に引きあげていく。夜戦になれば不利とみたからだった。 蒙古の船内では武将同士がテーブルをはさんで言い争っていた。 船内のすみには高麗の役人が膝をかがめてひかえている。 ろうそくの明かりがモンゴル人を不気味にうつした。 「さらに攻めよう。この勢いでいけば、日本国を占領できる」 「いやひきあげるべきだ。日本軍は侮れぬ。食料の不安もある。ここはいったん帰るべきだ」 「よく考えろ。日本の将軍は二十そこそこの若僧というではないか。好機はいまだ。せめてこの港をおさえて城をつくるのだ」 「ならぬ。たしかにわれわれは最初の戦で勝利した。だがこのあとはわからぬぞ。日本軍の手の内は把握できたのだ。高麗にひきかえし、日本を完全に支配する準備をとるのだ」 武将同士が激論のあげく、つかみかかろうとしたが将軍があいだにはいった。 将軍は冷静だった。 「深追いをやめ、高麗にもどろう。だが最初の一撃で日本軍に勝利したのは大きい。皇帝陛下もさぞお喜びであろう。われらはこの勝利をもって引きあげればよい。不満もあろう。だがわれわれは高麗との連合軍だ。もし高麗人が裏切れば、無敵のわれらが危険な目にあわないともかぎらぬ」 将軍はそういって高麗の役人をにらんだ。 「つぎは日本の滅亡となるであろう」 雨が甲板をたたきだした。風と波が船をゆるがす。 伝令がおりてきた。 「波が荒くなってまいりました」 大将は満足した。 「これが潮時だな。引きあげるぞ」 蒙古の船隊が強風と雨の中を去っていった。 文永の役の敗北は日本のあらゆる人々に衝撃をあたえた。 幕府は日本軍の敗走をひたかくしにしたが、眼前の事実はかくせない。またたく間に国中にひろまった。 それは甲斐の山にいる日蓮にも伝わった。のこされた消息が生々しく伝える。 十月に大蒙古国よせて壱岐・対馬の二箇国を打ち取らるゝのみならず、大宰府もやぶられて少弐の入道・大友等きゝにげににげ、其の外の兵者ども其の事ともなく大体打たれぬ。又今度よせるならば、いかにも此の国よはよはと見ゆるなり。『種々御振舞御書』
去ぬる文永十一年十月に蒙古国より筑紫によせて有りしに、対馬の者かためて有りしに宗の総馬尉逃げければ、百姓等は男をば或は殺し、或は生け取りにし,女をば或は取り集めて手をとおして船に結い付け、或は生け取りにす。一人も助かる者なし。壱岐によせても又是くの如し。船おしよせて有りけるには、奉行入道豊前の前司は逃げて落ちぬ。松浦党は数百人打たれ、或は生け取りにせられしかば、寄せたりける浦々の百姓ども壱岐・対馬の如し。又今度は如何が有るらん。彼の国の百万億の兵、日本国を引き回らして寄せて有るならば如何に成るべきぞ。 『一谷入道御書』 全滅した壱岐・対馬の惨状を知らせている。日蓮はいずれ、日本の全土が壱岐・対馬のようになるという。 人々はいやがうえにも覚悟しなければならないことを知った。
六十、 三度の高名 につづく
by johsei1129
| 2017-07-22 21:45
| 小説 日蓮の生涯 中
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