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日蓮大聖人『御書』解説

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2017年 07月 15日

三十六、末法の本仏としての確信

  英語版


投獄とか流罪になって落胆しない者はいないだろう。だれもがうちひしがれる状況のなかで、ひとり日蓮は超然としていた。

佐渡での暮らしは過酷であろう。生き延びることさえ困難であろう。だが日蓮にはまだなすべきことがある。自分の半生をかけて体得したものを残していかねばならない。筆と紙で末法万年の弟子・信徒らに残していかねばならない。使命感が胸中にみなぎっていた。そのために正面を見すえていく。一瞬たりとも嘆いてなどいられなかった。

日蓮はこの二十年、釈尊の爾前の教えが充満していた日本で、数えきれないほど存在した有象無象の僧侶の中で、ただ一人法華経弘教の先頭に立っていた。その戦いの過酷さは松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、小松原の法難、そして死罪に及んだ竜の口の法難、そして佐渡流罪。これら三度の大難、二度の遠島流罪が雄弁に物語っている。だがこの時点では法華経の真髄を説く書をのこしていない。「立正安国論」は記したが、内容は法華経以前に説かれた経典を多く引用した念仏宗の批判であり為政者への諫言であった。法華経そのものの仏法の深遠を説いたものではなかった。弟子たちは南無妙法蓮華経の題目を唱えることはおぼえたが、その真意を理解していなかった。

当時、日蓮を非難する者たちがこのことを突いている。

或人(あるひと)日蓮を難じて云はく、機を知らずして(あら)()を立て難に()ふと。或人云はく、勧持(かんじ)(ほん)(注)の如きは深位の菩薩の義なり。安楽行品(注)()()すと。或人云はく、我も此の義を存ずれども言はず。或人云はく、唯教門ばかりなり、理は(つぶさ)に我之を存ずと。()()()()()()()寺泊御書

非難する者たちの大要はつぎのとおりである。

一、日蓮聖人は衆生の機根を知らずに、荒々しく折伏するから難にあう。

二、勧持品は位の高い菩薩が行うことで、末法の位の低い者(日蓮聖人)は安楽行品の柔軟な摂受(しょうじゅ)を行うべきである。これに背くから大難にあうのである。

三、自分も折伏すべき義を知っているが、日蓮聖人のように言わないだけである。

日蓮聖人の弘通は教相の差別の一面ばかりをみている。重要なのは観心であり自分はそれを知っている。

日蓮はこれらの問いに答えねばならない。これは難問である。突きつけられた論難にどう答えるか、これは竜の口にまさる大難だった。身の危ういのは目先のことだ。己の義が破られるのは、命を失うより重い。あらかじめ同行の弟子に経巻や筆紙を多数携行させたのはこのためだった。

大願を立てん。日本国の位をゆづらむ、法華経をすてゝ観経等について後世をごせよ。父母の首を刎ねん、念仏申さずば、なんどの種々の大難出来すとも、智者に我が義やぶられずば用ひじとなり。其の外の大難、風の前の(ちり)なるべし。我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。     『開目抄下

これらの難題の本質は日蓮の存在そのものにある。
 日蓮とはいったい何者か。いかなる存在なのか。これは日蓮自身が答えるしかない。

竜の口の断首の座にのぞみ「聖人は横死せず」を実証した日蓮は確信していた。自分は末法の本仏であると

本仏とは主と親と師の三徳を一人でたもつ者である。日蓮が誓った「柱とならむ」とは主の徳、「眼目とならむ」とは師の徳、「大船とならむ」とは親の徳である。

日蓮は「開目抄」で教主釈尊の慈悲を尊び、法然の無慈悲を責めながら、自身が末法の本仏であることを高らかに宣言する。


(それ)法華経の宝塔品を拝見するに、釈迦・多宝・十方分身の諸仏の来集はなに心ぞ「令法(りょうぼう)久住(くじゅう)故来(こらい)()()」等云々。三仏の未来に法華経を弘めて、未来の一切の仏子にあたえんとおぼしめす御心の中をすい()するに、父母の一子の大苦に()ふを見るよりも、強盛にこそみへたるを、法然いたわしともおもはで、末法には法華経の門を(かた)く閉ぢて、人を入れじとせき、狂児をたぼらかして宝をすてさするやうに法華経を(なげす)てさせける心こそ無慚(むざん)に見へ候へ。

 我が父母を人の殺すに父母につげざるべしや。悪子の酔狂(すいきょう)して父母を殺すをせい()せざるべしや。悪人、寺塔に火を放たんに、せい()せざるべしや。一子の重病を(やいと)せざるべしや。日本の禅と念仏者とを見て、せい()せざる者はかくのごとし。「()無くして(いつわ)り親しむは、即ち(これ)彼が(あだ)なり」等云云。日蓮は日本国の諸人に主師父母()なり。


 日本国の諸人に主師父母なり」と宣言することがなぜ本仏であることを意味するのか。

 ちなみに法華経を説く中で釈尊は自らの事を「我、仏なり」とは一度も宣言していない。釈尊は法華経で自らの事を「我衆生の父と為りて」と度々自分を「衆生の父」と説いている。つまり衆生の父とは仏の異名である。

 また法華経では菩薩が自らを衆生の父と説いている箇所は皆無である。

 釈尊が法華経で自らを「衆生の父」と説いている箇所は、次の様に多数存在する。


 「舎利弗 仏見此已 便作是念 我為衆生之父」   (妙法蓮華経譬喩品第三)

 「舎利弗 如来亦復如是 則為一切 世間之父」   (妙法蓮華経譬喩品第三)

 「我亦為世父 救諸苦患者 為凡夫顛倒 実在而言滅」(妙法蓮華経如来寿量品第十六)

 

 こうして日蓮は熱烈に叫ぶ。

 

 万難をすてゝ道心あらん者にしるしとゞめてみせん。西王母(せいおうぼ)がそのゝ()ゝ(注)輪王出世の優曇華(うどんげ)(注)よりもあいがたく、沛公(はいこう)項羽(こうう)と八年漢土をあらそいし(注)()(より)(とも)(むね)(もり)(注)が七年(あき)津島(つしま)にたゝかひし、修羅と帝釈と、金翅(こんじ)(ちょう)竜王(りゅうおう)阿耨(あのく)()(あらそ)()も(注)此れにはすぐべからずとしるべし。日本国に此の法(あら)はるゝこと二度なり。伝教大師と日蓮となりとしれ。『開目抄下



            三十七、流罪地、佐渡への船出 につづく
中巻目次


 勧持品

 法華経勧持品第十三のこと。宝塔品第十一の三箇の(ほう)(しょう)によって二万の菩薩は此土に、五百の羅漢、八千の学無学および六千の比丘尼などは他土に弘経することを誓願する。しかし釈迦は黙然として彼らを排し、八十万億()由佗(ゆた)の菩薩を見て弘経を(すす)めた。これらの菩薩は、十方世界の弘通を発誓(ほつせい)して三類の強敵が競い起ころうとよく堪え忍ぶこと、衣座室の三軌によって「我身(われしん)(みょう)を愛せず(ただ)無上(むじょう)(どう)()しむ」との誓願を(おこ)したことが説かれている。すなわち滅後末法には、法華経弘通の行者に三類の強敵が競いおこることを示しており、この三類の強敵を説いた文を「勧持品の二十行の偈」という。日蓮大聖人はこの二十行の偈を身口意の三業で読み、末法の本仏出現を実証した。
「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と勧めて持たしむるなり」『御義口伝上』

 安楽行品

 法華経安楽行品第十四のこと。迹門の最後の品にあたる。四つの安楽行が説かれている。文殊菩薩が悪世に法華経を安楽に行ずる方法を問い、仏がこれに答えて身・口・意・誓願の四安楽行を説いている。はじめの身・口・意の三安楽行は悪口・嫉妬心などの身口意の三業にわたって過ちを離れること。誓願安楽行は一切衆生を教化しようと誓いを立てること。四安楽行自体を修行することは、正法・像法時代の摂受(しょうじゅ)の修行法であり、末法今時では折伏が時を得た修行となる。

「御義口伝に云はく、妙法蓮華経を安楽に行ぜん事、末法に於て今日蓮等の類の修行は、妙法蓮華経を修行するに難来たるを以て安楽と心得べきなり。」  『安楽行品五箇の大事

 西王母

 中国の伝説上の女神の名。西方に住む祖母の意で、中国西方の高山に住む女神とされた。古くから多くの伝説があり、一説には人面獣身、崑崙(こんろん)山に住み三羽の青鳥が食物を運んだという。また仙女として崑崙山の圃閬風(ほりょうふう)の苑に住み、三千年に一度実のなる桃の木を守っていたという。この桃の木は()(がた)い者のたとえに用いられる。

 優曇華

 梵名ウドゥンバラ。瑞応・霊瑞・祥瑞と訳す。学名フィクス・グロメラタというイチジクの一種。落葉広葉樹でヒマラヤ山麓やセイロン地方などに産する。仏典に出てくる優曇華は三千年に一度開花するという想像上の植物。この花が咲けば、金輪王や仏が出現するといわれ、また仏の出現にあいがたいことのたとえに使われる。

 沛公・項羽

 沛公は漢の高祖・劉邦のこと。沛郡の生まれであるためこう呼ばれた。

 項羽は中国・秦末に天下を争った武将。紀元前二○九年に陳勝・呉広の乱が起こると、項羽は楚の軍を率いて北上した。沛公劉邦は項羽と合流し、秦軍を降伏させ、関中に入って都・咸陽を焼き払った。紀元前二○六年、項羽は彭城に都して西楚の覇王となり諸侯を封建した。しかしこの封建に不満であった劉邦は再び挙兵し、項羽と天下を争った。戦いは五年間つづいたが、種々の計略と統治に勝れた劉邦が有利となり、ついに紀元前二○二年、垓下(がいか)(安徽省)で項羽の軍を包囲して兵糧攻めにし、項羽はついに自害した。この時、劉邦率いる包囲軍が楚の歌を歌ったことは、四面楚歌の故事となった。

 宗盛

 久安三年(一一四七)~文治元年(一一八五)平宗盛のこと。平安末期の武将。清盛の次男。中納言・右大将から内大臣・従一位となった。清盛の死後、平氏一門を統率したが木曾義仲に追われて都落ちし、安徳天皇を奉じて西走した。さらに義経の追討を受けて一谷、屋島へ逃れ、壇ノ浦で大敗して捕えられ、平氏は滅亡した。その後、義経によって鎌倉へ連行されたが、途中の近江篠原で斬罪に処せられた。

金翅(こんじ)(ちょう)・竜王

 金翅鳥は迦楼(かる)()(梵名ガルラ)の訳。妙翅鳥ともいう。八部衆の一つ。海竜王経金翅鳥品に説かれる。伝説上の怪鳥で竜を食すといわれ、(はね)や頭が金色であることから金翅鳥と名づけられた。変幻自在で両翅(りょうし)は三三六万里あり、一日に一竜王と五百の小竜を食うといわれる

 竜王は大海の水底にある竜宮に住むとされる。竜は神霊化された巨大な想像上の動物で、よく雲をおこして雨を降らせ、強大な力をもつとされた。また竜は須弥山を動かして頂上に住む金翅鳥の子供を食したという。

 法華経序品第一等では、金翅鳥・竜王ともに説法の会座に八部衆の畜生として連なり、法華経を受持する者を守護することを誓っている。


by johsei1129 | 2017-07-15 12:19 | 小説 日蓮の生涯 中 | Trackback | Comments(0)
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